首里城あれこれ
首里城、ウチナーンチュの心の拠りどころと言ったらオーバーかなと思うが、我った自慢の首里城であることは間違いない。
tiger60は観光関係の仕事をしているので、よく首里城に観光客を案内する。
見た通りの不思議なこと、面白い事を書いてみる。
首里城は第一尚氏の尚巴志が作ったと言われる、確かに本格的に造り始めたのは彼の指示で始まった。その昔から誰かが城の基礎を積んだりした跡がある。察度王ではないかとの説が濃厚である。今も首里城の石垣に古い遺構がある、古い遺構の上に新しい遺構が積まれているのだ。古い時代と新しい時代がプレートで案内表示されている。古い遺構(石垣)はのら積である。もっとも原始的な積み方なのである。古い順から、の積み、平積、相方積となっている。
首里城の石垣で北西と北東は直角ではない、丸く突き出している。風水でいる邪気払いの丸さである。未だ科学的論証がされておらず今後の調査にかかる。
首里城の階段は外側に下がっている、排水の為に外に水が流れるように作られている、もっと別の理由がある。敵が攻めこんだ時、場内に入ろうとする時、上に上がりにくいように造られている。
あれだけの広い首里城の中に便所の跡がまだ見つかっていない。総勢500~800人が常時いた城である、どこかにあるはずだと調査中と聞く。ただ国王が日常過ごす、御書院と呼ぶ部屋がある、その後ろの畳の間が控えや着替えの間であるが、オマル様の汚物入れを置いて用をたしたとのこと、国王だけは特別扱いだったようだ。
首里城の二階は国王と家族だけの空間だった、生まれた男子は13歳まではその空間に住めるが、原復の13歳を過ぎるとここを出るのだ、王子は一人前とみなして別の家・屋敷を与えられるのだ。中城城は王子の城と云われる、中城御殿とは王子の住まいを意味する。廃藩地置県まえは現在の首里高校の敷地に中城御殿と大見御殿があった、王子と娘たちや側室などの住まいであった。
首里城明け渡しの為、国王の住まいが無くなるために、その変わりの家屋敷が元沖縄県立博物館跡(龍潭池真向い)に中城御殿が建てられた。国王は短期間だけ住み、東京に移らざるをえなかった。さる太平洋戦争で空爆にあり焼失した。
この屋敷の南東の角がカジマヤーの場所、耳切坊主が立った所として有名だ。
首里城の東側を発掘調査中である、かっては女官や家来、使用人の住む建物があったそうです。女官が200~300人控えていて大奥のようだったそうです。
守礼門から歓会門と入る正門があれば、裏門(勝手口)が北側の久慶門がその役割をする門だった。一般庶民は守礼門から出入りは禁止、近寄ることさえ出来なかったはず。
龍潭池は庶民にも開放されて憩いの場所だったようだ。1420年頃に造られた。
ウチナーンチュにとって、首里城は心の拠り所だが、多くの沖縄県民が首里城の中に入ったことがないのが残念である。見る価値がある首里城である。
tiger60
今日の二ユースで沖縄観光連盟が発表した、2030年までに観光客を1,500万人沖縄に呼び込むとしている。沖縄なら出来ると期待する。沖縄には達成できる潜在力がある。もっともっと宝の山が眠っているように思う。
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