アジア人財事典

アジア人財カンパニー株式会社 井上一幸 がお届けする粋な話題の数々

『真夏の夜の夢』

2007-08-28 | メールニュース
それにしても暑い、暑い!暑い!!これでは“真夏の夜の夢”もおちおち見られたもんじゃありませんね。そこで今回は夢の代わりに、“遠い夏の思い出”を少し集めてみました。テーマは、「月日のたつのは早いもの。」 ではどうぞ。

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 真夏の夜の夢 ― 光陰矢の如し
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① 1981年 兵庫
私は今までの人生でたった一度だけ甲子園球場に足を運んだことがある。1981年夏の甲子園。準々決勝。現横浜ベイスターズの工藤公康投手が完封勝ちした試合。彼はその試合でホームランも打ったはずだ。甲子園がとにかく暑かったことと黒板にチョークで書いたようなスコアボードをはっきり覚えている。
最近新聞のコラムでその工藤のインタビュー記事があった。今年44歳でなお現役続行とはただただ敬服の一言に尽きるのだが、26年前の夏の甲子園も今年の横浜での活躍も全くの同一人物。まるで昨日今日の出来事、時間が止まっているかのように。

② 1970年 大阪
アジアで最初の万博(万国博覧会)は1940年(昭和15年)東京での開催が決まり準備も着々と進んでいた。しかし1938年7月に戦争のため延期(のちに中止)が決定される。それはそうとして、2ヶ月ほど前の新聞のコラムを読んで始めて知ったのだが、その時発売された前売り入場券が30年後の大阪万博で有効な入場券として扱われたのだそうだ。しかしもっと驚いたのは、実際に千何百枚かが使われたということである。きっと30年なんてそんな長い歳月じゃないのだ。
30年の月日を越えてよみがえった入場券 ―― 1970年の夏休み、それを手にして大阪万博に出向いた人は一体どんな想いだったろうか。昭和15年当時前売り入場券を手に夢を見ていた子供が、30年を経て自らの子供とともに大阪に向かったことだろう。昭和15年には万博準備委員かなにかで東奔西走していた方が、ようやく夢がかなったと喜々として昭和45年の万博のゲートをくぐったことだろう。30年前に想いを馳せながら。

③ 1936年 愛知
3 年ほど前まで毎年必ず、と言っても5年続けたくらい、釜山に遊びに行っていた。別に彼女がいたからじゃありません。おばあちゃんがいたから。それも実の祖母でもなく私が勝手に「おばあちゃん」と呼んでいただけ。一人で小さなおみやげ屋を経営していて、ふらふらと入っていった私に妙にやさしく接してくれた。昭和20年まで名古屋の女学校に通っていたというからもう80歳にはなるだろう。張という名だが日本では伊東というのだ、と教えてくれた。
そのおばあちゃんが、会うたびに必ず語りだす話があった。毎年夏になると列車に乗って海へ遊びに行ったそうなのだが、その線路脇で近所の人がそれこそ総出で「伊東さんちのお譲ちゃーん!!」と言って手を振ってくれるんだと。そして話の終わりに目を細めて必ずこう言う。「あの人らは今どこにいるんじゃろか。もうみんな死んでしまったかのぉ。」

70年も昔のはずだが、彼女にとってはまるで昨日のことのようにありありと浮かぶ光景なのだろう。70年という月日も人の一生も、あっという間の短い時間なんだなぁ、とつくづく思えてくる。なんせ自分自身振り返ってみると20年や30年前の記憶なんて手が届きそうなくらいすぐそこにあるから。

いくら「遅咲きの人生」とはいえ、悠長に構えていたら短い人生すぐに終わってしまうなぁ~というのが、今年の夏の夜の夢でした・・・ちょっと長くなりましたが。

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