対話練習帳

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言葉が脳を支配する

2008-11-09 19:43:53 | 考え中
一つ前の記事では、言葉で伝えることの難しさについて考えていたのだけれど、言葉に引っ張られて思考が制約されることってあると思う。うまく伝えられないせいで、意図していない方向に自分の意思を捩じ曲げていってしまうことが。

(本記事のインスパイア元1)
水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う
「日本語が亡びるとき」を読んで(6) - 合同会社翻訳オフィス駒田

言語の文法構造やその仕組みが単語から単語への直感的な連想を制約して、それが思考回路を限定してしまうのは確かなことだろうと感じる。ある言語に習熟する(慣れる)ことは、その言語特有の発想パターンに脳の反応が固定化されていくということ。で、元々その言語が持ち合わせていない概念(例:色に対する各言語の対応語数の差)は伝えようもないことは当然として、各言語の文法構造の違いもまた、思想や概念理解に偏りを生じさせているのではないだろうか。そのようなことを考えています。

(本記事のインスパイア元2)
受験英語じゃなくて英会話力
話せるようになってきた経緯にとても共感できた。自分の体験が描かれているようで、光景が容易に想像できてしまうくらい。でも、ふと思い返してみると、伝わるようになったという手応えと同時に、ある種の違和感がいつも少しまとわりついてくる。100%伝わったのではなくて、100%伝えられることだけをチョイスして話しているのではないかって。

英語で会話をしていて、単語を知らなかったり適当な表現を思いつかないが故に、伝えることを諦めざるを得ないことがままあります。言葉で表せなかったから止むを得ず切り捨てたり、場を切り抜けるために本当の気持ちとは裏腹な、だけど自分が良く知っている言い回しで妥協したりする。そういった発言をすると、そこから先、前の発言に縛られながら行動や意見を展開するはめになる。そうすると認知的不協和が生じる。その解消のために、自分はもともとそう考えていたんだと思い込む。そういう流れが実に簡単に生まれることは体験済み。

仕事の話なら、専門的な言葉の定義を共有していることが前提にあるし、仕事に限って言えばたくさんの語彙の持ち合わせもあるので、内輪での意思伝達は楽だ。自分が直感的に考えたままに伝わっていることが、相手の応答からも正確に読み取れるので安心してコミュニケーションが薦められる。だけど、自分があまり知らない分野(自分の場合、政治とか医療保険とかの話)になると、自己主張がとてもハードルの高いものになってしまう。意見を発展されるのもすごくゆっくりになってしまう。お役所用語なんて分からない、法律用語も全くわからない。疎い分野の話題では、大雑把なイメージを持つことしかできないし、根拠の曖昧な論法に説得されてしまうのは、日本語であってもよくあることだ。

逆に今まで日本語ではあまり意識しなかったことを、英語でのコミュニケーションでいやでも意識させられることもある。話すにせよ書くにせよ、文を作るにあたって英語ではまず必ずと言って良いほど、「誰」が「どうする」という、主語と動詞から始まるので、この部分を明確にする必要に迫られる。仮に、片付けなければならない仕事があるとして、それを「誰」=「私達/私/あなた/彼/彼女」がどのように処理するか、その文章に如実に現れる。だからなのか、こちらの人はプロジェクトにおいて各段階の担当者を事細かに指示することに慣れているし、責任と権利の所在が明文化されたものも多く目に付く。こういう言語だから、自己の責任や権利の範囲には敏感になるもので、そこに議論が生じる。それで、契約社会になるのかなんてことを想像した。周囲の振舞い方を見て学ぶことはもちろんあるだろうけれど、それに加えて、言語のシステム自体が、そのような発想を促しているように感じることがある。

英会話に慣れてきて、何が一番決定的に変わったのかといえば、次に来る単語を予測する順序が変わったこと。それは相手の話を聞くのでも、自分が話をしようとするのでも同じだが、つまるところ日本語と英語との間で、ある単語から連想される単語の順位が入れ替わってくる。言語の違いが国民性に反映される部分、それは元々あった小さな差を増幅しているだけかもしれないけれど、それを差し引いても、言語が社会の規範に影響する部分はきっとあるのだろう。ただ、その言語成立の背景にあった文化や習慣に沿うように文法が成立したのか、その言語の文法が人間の側に適応を要求してきたのか、どちらもありうることで、相互に干渉し合うから分析は厄介だ。

これは、先日のコンピュータによる単語予知の記事からの連想でもあるのだけれど、ある言語で考える回路が出来上がってくると、考え方や発想の方向性にその言語特有の個性が出てくるように思うのです。頭の中では、言語化するより、感情が先立つのは変わらないんですよ。でも、言葉に対して抱く感情も、経験によって上書きされていくものなんです。相手がそのとき意図するしないに関わらず、言葉の受け手に積まれた過去の経験からは、個別の単語に対してイメージや印象、さらにはマイナーな感情を呼び起こす指示を与えるのに必要な信号がリンクされていくのです。そして、それは案外世間で共有されていたりするように感じます。
asahi.com:マンガ表現の「偏見」知って 中央区で講演-マイタウン大阪
「おやくそく」は無言なのですけれど、見えない信号を発していて、それは便利なのですよね。だから伝播し易い。

誤解を生まないようにするためには、この信号を全部可視化(明文化)して共通ルールを作るか、書かれたこと話されたことを、言葉通りに受け取めるようにするか、どちらかになります。ルールを共有するには、さらに言葉を尽くしていくしかない。言葉通りに受け取るには、文全体を見るまで、言葉の先読みをしないということが秘訣なのかもしれない。言葉の先読みをしているから、予測が生まれ、予測は期待感に繋がる。そこで相手の言葉が期待に沿えば論理の整合性を疑わずに済む。これで理解に要するエネルギーを節約できる上に、安心感が生まれる。予測にない言葉が来ると、そこで緊張が生じて、相手の論理に注意を払うようになる。説得を生業とする業種では、きっととっくに利用されている反応だろうけれど、一般的には殆ど意識されないことだ。実際の問題が自分に生じない限り、会話の中で論理の飛躍や破綻が振り返られることはまずない。そういう会話は、ロジックのぶつけ合いではなくて、単語に対する信号の交換とルールの確認が目的なのだろう。

私がこう考えるという話を、世間ではこう考えるだろうと一般化してしまうこと、この記事の中ですら自分がやってしまっている。ついつい世間的にこれが正解だという主張をしているような気分になるのだけれど、本当は自分自身が意識しておきたいなと思ったからこうして記録しているだけだったりする。自分でも充分に理解していない自分のことなのに、いつの間にか誰にでも理解されて当然の常識であるかのように思い込む、そんな錯覚にいつも捕われている。

(追記)「論理療法」というものを知った。ここで書いたこととは少し意図が異なるものだけれど、言葉やロジックで感情を制御することができるという発想に共通のものを見出したのでメモ。
「論理療法的にネガティブな感情に対処する方法」
臨床心理系趣味ブログ 合理情動療法? <ABCシェマ理論>
wikipedia:論理療法
wikipedia:認知療法
Rational Emotive Behavior Therapy - Wikipedia, the free encyclopedia



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