対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

話の継ぎ方。会話を繋ぐトレーニング。

2010-03-17 01:11:58 | 考え中
承前(「論理トレーニング」を逆手にとって質問を探り出す。

接続詞を意識することで、質問に繋がると知った。ということは、それぞれの接続パターンに対応する質問形式を持っていれば充分ということだ。つまり、
付加 それで?     (それに、また、さらに)
例示 たとえば?    (たとえば)
解説 つまり?     (つまり)
帰結 ということは?  (だから)
理由 なぜ?      (なぜなら)
転換 でも~じゃない? (しかし)
(補足は主張に関しては、枝葉なので重視しない)
という問いかけ対応表を常に頭において話を聴くこと、あるいは、自分の話を紡いでいくことが、伝わる/伝えるということになるだろう。理屈の上では、どれだけ話を継いでいても、この形式に則る限り質問が尽きることはない。

ただし、こういった無愛想な尋ね方は全ての説明を相手に委ねる初心者の質問形態となってしまい、実践会話のスキルとしては、威圧的で失礼なものである。だから、
「たとえば○○とか?」
「つまり~ということ?」
「なるほど、ということは、○○だね?」
「うん、そうだね。でも○○についてはどうだろう?」
などのように発展させた形式にすることを心掛けるのが次の段階となる。つまり、自分がどこまで理解しているのかを確認し、それを相手にも伝えることで、必要な情報を共有していくことができれば、会話がさらに充実したものになっていくだろう。

とりあえず、ここまでたどり着いたけれど、もちろん、まだまだ先の段階があるはずで、話題の全体像を捉えるトレーニングなどがさらに必要になるのだろうなと想像しながら、「論理トレーニング」をさらに読み直しているところ。

「脳は心を記述できるのか」の書簡を読んで。

2010-03-05 08:48:00 | 考え中
書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」
■はじめに
返事遅いよ、茂木さん。
■「アバター」が「人間」であるということ
「人間」を説明する際に「脳」は重要じゃない。言語で描写可能。「コミュニケーションという幻想」を介して、リアルな「関係」を築きうる対象が「人間」。
■「主体」の構成について
人間は、自分自身の眼で自分を直接に眺めることができない。自己像は幻想でしかない。主体とは、幻想に自己投影した想像力の産物。
■“言語”の優位性について
人間の心的装置をつくり上げているものは、徹底して言語的な成分である。「言語を越えた経験」の存在は、言語以外の方法ではけっして伝達できない。「言語は、表象や意識を越えている」。原理的には伝達不可能なはずの主観的体験すらも、言語を用いることによって共有できてしまう。音声と文字は、誰もが使用でき、高速にやりとりできる“メディア” 。その優位性ゆえに、私たちの心は言語システムというきわめて特異な媒体にとことん浸されている。
■「感覚」と「言語」の問題
「痛み」ほど主観的な感覚は存在しない。われわれが「痛い」と感ずるのは、「痛い」という言葉があるから。その感覚を名指すための言葉があってはじめて、その感覚は可能になる。つまり、言語によってしか思考できない。
■「偶有性」は記述可能か?
不可能。問いとしてナンセンス。
「偶有性」=contingency=「予測が付かない偶然」、ある事物を考える場合に、本質的でなく偶然的な性質。人間は「偶有性」をけっして認識できない。認識不可能な領域に与えられた名前が「偶有性」。社会学者のニクラス・ルーマンは、コミュニケーションを徹底して偶有的(『広辞苑』的な意味のほうの)なものと考えた。「ダブル・コンティンジェンシー(Doppelte Kontingen以下DK)」。自分の行動は相手の行動に依存するが、相手の行動は当の自分の行動に依存している。問いがあって答えが導かれるのではなく、答えが存在する場合にだけ問いが導かれる。そこに社会や主体があることによって、はじめて『偶有性』の問題が生ずる。
■「アスペクト」の問題
「偶有性」の対義語は「必然性」。ものごとというものは偶有的か必然的かのいずれかであって、その「中間」はない。事態を偶有的に認識しているときは、必然性の相は見えなくなり、必然性の相で認識しているときは、偶有性の相は見えなくなる。対象を「~として見る」ということができない人を、ウィトゲンシュタインは「アスペクト盲」と呼び、カントは「偶然と必然のアンチノミー」と指摘。
宗教とは、偶有性を必然性として肯定するための認識装置。科学とは、さまざまな偶有性を因果関係という必然性のもとで記述しうるこ とへの信頼。偶有性の解釈に際して、「神」という超越的存在に依拠するか、「無意識」という超越論的な審級を想定するかの違いがあるだけ。

以上が、斉藤環氏の“とらわれ”である。

内容全体を捉えるために、かいつまんで書き留めています。長いのだけれど読みやすくなるように各章の内容が整理されているのがよく分かった。

イタッ!=痛い
Ouch!= Pain
日本語では咄嗟に口をつく言葉=「痛い」だけど、英語ではそうではないな、なぜだろう。言語が無ければどう認識するのだろう。感情がないと身内からも認定されるほどだった子供が、おじいさんが亡くなったときに、初めて泣くことを知ったという話を思い出した。
「感覚が可能になる」とは?「痛い」を知らなければ、信号を処理できないので認知されない、つまり存在しないに等しい、ということか。その言葉を認識していない赤ちゃんの不快感はあくまで動物的な反射ということ?
「昨日感じた『E』と今日感じている『E』が同じ感覚である」という感覚はどこからもたらされるのだろう。言語で記述できない領域でタグ付けと分類が行われているのではと仮定する。そうすると言語抜きに分類する心的システムを持つということになるのかな。
沈む太陽を眺めて胸がきゅんとした。長い受験勉強の末に本試験を終え、自分の部屋に戻って机の上の参考書を目にした瞬間、きゅんとした。ずっと後になって、片思いをして、その娘を送り届けた帰り道で、きゅんとしたものを感じた時、前の二つと同じ感覚だと思った。