対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

質問の型は三つある

2019-10-21 11:38:55 | 考え中
質問が出ないのは話し手の責任が8割。だから「質問が出る」ようにルールを決めたら、大成功した話。 | Books&Apps
質問が出やすい雰囲気を作るシステム作りの中身が、とても配慮の行き届いた内容ですごい。

常々同じようなことは感じていて、指導する立場になる機会が増えるにつれ「クソ質問」なんてないんだよっていうのを相手に何度も伝えることになるのだけど、でもやっぱり「クソ質問」というか拙い質問っていう意識を拭いきるのは難しくて壁を感じてた。

質問のタイプは3種類に分類できて、どんな質問も「起点」「発展」「転換」の質問のどれかに必ず当てはまる。

「起点」の質問は、議論の土台になる質問。議論を進めるために場のみんなが共有しておくべきことがら。用語の定義だったり、話の前提だったり、発表者にとって当たり前すぎて説明が省かれたりおざなりになりがちな部分を埋めていくための質問。こここで言われている「クソ質問」がこれ。バカにされるんじゃないかって躊躇ってしまいがちだけど、そういう質問が大事だっていうのは、これがQ&Aを盛り上げる土台を作るものだから。
「発展」の質問は、発表者と議論の土台を共有できた上で湧き上がってくる疑問、その場で出された情報だけで導かれる質問。研究発表だったら、その技術的な部分の詳細を尋ねたり、結論に対する根拠を尋ねたりするタイプの質問。ツッコミに当たる部分。
「転換」の質問は、新しい視点をもたらす問いかけ。発表者から出された情報に、質問者自身の知識や情報を加えて、議論をもっと広い世界に展開させていく質問。学会に現れるスーパーサイヤ人はぱっと見「クソ質問」に見せかけて深い造詣と思慮に裏打ちされたクリティカルな質問を放り込んでくるので発表者にとって恐ろしい。

より良い質問っていうのは確かにあって、それを求め続けるのは答えを探す以上に大事。でもダメな質問っていうのはないんだ。質問っていうのは重ねていくことに価値があって、質問のスタート地点で終わらせずに考え続けた先にそれが見つかるものだと信じている。


質問の仕方について、昔考えていたこと
接続疑問詞を考える。 - 対話練習帳
情報の伝え方、自分の意見の組み立て方 - 対話練習帳

仮の答えで先に進む。

2014-07-30 05:06:11 | 考え中
なぜ人を殺してはいけないか、なぜ勉強しなければならないか、現時点での自分なりの答え、すなわち根拠やら理屈やらを持ってはいる。ただ、それが完全な答えでないことも認識している。自分の中ですら答えは常に揺らいでいるし変化し続けている。どの理屈でも、相手や自分の立場、所属する集団の文化によって、あるいは時期や年代によって、はたまた文脈によって、否定されたり納得されないと知っている。そもそも、本当に前提が成立するのか(つまり人を殺してはいけないのか、勉強しなければならないのか)、その根本的な部分すら確かじゃない。それでもとりあえず、仮の答えとして、殺さないこと、勉強することが正しいとして日々を過ごしている。それを前提にすることで、他の事柄を易しく説明でき、社会生活がとりあえず自分にも周囲にも都合良く回っている。その経験からいうと、例え根拠や理屈が不充分でも、結論としては確からしい、少なくとも今自分が所属している社会においては。

不完全であることを許し、とにかく答えて区切りをつける。その仮の答えを抱いたまま先に進むことで、答えの確からしさを知る。このやり方は、自分のように理解の遅い、あまり賢くない人間が、周りから取り残されずに成長するのに必要だと思う。

俺流 英文法解釈(覚え書き)

2011-02-10 15:43:08 | 考え中
今、自分が臨むレベルに到達するために何をすべきかと考えている最中に閃いたことの覚え書き。なので、学問的な正しさは考慮していません、と前置いて。

キーワードは「先読み力」
 ネイティブスピーカーと対峙するレベルに届こうとする時、会話の理解力、文章の読解力には、先読みする力が、一番大きく影響する。ある単語を聞いた瞬間に、関連する連絡ワード候補がリストアップされる。「船」と聞いて「海」「河」「水」「旅」「酔う」「釣り」……というように。続く言葉を拾っていくうちに、リストは削られて一つの意味に収束していく。英単語の教材で、フレーズや文章を丸ごと暗記してボキャブラリーを増やす方法や、語源から連想を広げる方法が効果的だとされるのは、先読みするべき言葉とセットで記憶に入力するところに理由がある。その意味では、実践で吸収していくことほどの強みは、他には無い。自分が身を置く環境(仕事や交友関係)で連絡ワードの優先順位は変わる。先読みする力は、経験の蓄積で賄うもの。仕事では通用するけれど、何気ない会話が難しかったり、その逆もまたしかり。これは母語で考えてみても同じはず。

もう一つのキーワード、「補足と限定」
 話し手もまた、自分の意図する文脈を頭では先に流ししつつ言葉を発しているし、ネイティブな発想の文章はそのように作られていく。聞き手もその流れを先読みしながら理解することになる。先読みの方向はノーヒントでは全方向に向かう可能性を考慮しなければならない。でも、発想としては二つに分類することが出来る。その二つとは、外へ広がっていく方向と内へフォーカスしていく方向。ブレスト的に情報を付け加えていく方向と、条件の追加で的を絞っていく方向。これを補足、もしくは限定と解釈することができる。冠詞の“a”と”the”の使い分けや、関係代名詞“,which”と”that”の使い分けに、その発想のヒントを見て取ることができる。これを常に意識して、聞き取り、読み取り、そして自分が使ってみることで、ネイティブらしい使い分けに近づけるのではないだろうか。

 根っこにある発想は、これまでに考えてきたことの中にある。
話の継ぎ方。会話を繋ぐトレーニング。 - 対話練習帳
「論理トレーニング」を逆手にとって質問を探り出す。 - 対話練習帳
言葉にした瞬間に、あなたは何かを切り捨てている - 対話練習帳
それを実践で活かす為には、ネイティブスピーカーが持っている無意識の前提条件を、学ぶ側として、まずは意識的に取り出さなくちゃならない。まだ気付いていないルールがあるはずだし、今回見つけたルールみたいなものが通用するかどうかも検証していく必要がある。

ホメオパシーは他の医療を否定できない。

2010-08-12 08:28:30 | 考え中
面倒なので資料にあたらず、記憶だけに頼った記述です。影響を受けている関連記事があからさまですが、議論の背景や文脈をまだ全て追えていないし、そこまでの熱意も湧いていないので、現段階で特定記事への言及意図はありません。トラバもしていません。とことん議論に誠実でない態度ですが、個人的に気になっている部分を整理するために、ひとまずまとめています。

現状での自分の思考の到達点は以下の通り。
科学がホメオパシーを否定できない、という命題は正しい。しかし、それだけではホメオパシー信奉者がほかの医療を否定する根拠にはならない。二重盲検は「効果がある」ことを確認するためのもので「効果がない」とは決していえない。しかし、二重盲検で「効果がある」やり方は数々ある。つまり、ホメオパシーより効果の見込める選択肢がある。「科学がホメオパシーを否定できない」という主張は、より効果の高い医療を拒絶する理由を与えない。

引っかかっているのは、二重盲検の説明が誤って取り扱われているように感じられること。以下は私の二重盲検に関する理解。
二重盲検は「効果がある」ことを確認するためのもの。「効果がない」というために使われることはない。「この薬、効くよ」「気のせいじゃないの?」という疑問に答える。だから「プラセボの効果(影響)を排除する」という表現は正確ではない。

二重盲検では、プラセボ効果(を含む、評価対象以外のあらゆる影響)が一方のグループに偏らないよう均一にならすことができる。でも、それはプラセボ効果を取り除くのではないし、その必要もない。祈りや物質以外の要素が結果に影響するとしても、それを上回る処方効果があるときに意味をなすし、実際にそういった効能を持つ薬や処置はたくさんある。意図しない影響をものともせず、二重盲検でプラセボに埋もれないくらい効果的なやり方があるのに、なぜそれを使わないの?という疑問が湧く。

プラセボ以上の効果が認められなかった場合でも、プラセボの影響(や誤差)に埋もれてしまう程度に効果がある可能性は残る。そういうことではなく「特定の誰かの関与が結果に影響した」という主張を認めるなら、そもそもそのような素材は、二重盲検にそぐわない。それなのに「二重盲検で効果が認められました」と主張したのであれば、元の主張に誤りがあったことは否めない。科学的であるかという以前に、二重盲検の適用条件が公正に検討されていなかった点で、学問的に誠実でない。

確か、遠隔地での祈りが患者の治癒に効果を及ぼすことを二重盲検で示そうとした研究があったはず。そもそも医療関係者には注目されない分野なので、再現性があるのかどうかも不明ではあるけれど、それを例に挙げれば、ホメオパシーの効果は祈りの効果にすら遠く及ばないという主張を否定できなくなる。
記憶していたものとは違うけれど、こんなものがあった。
『水の結晶の形に遠隔地からの想いが与える影響についてのダブルブラインドテスト』
http://www.masaru-emoto.net/newemoto2/ronbun.html

そもそも二重盲検法自体、科学的じゃない。どちらかといえば、科学的にメカニズムが示せないときに止む無く使われる方便。だから、その使用に当たっては公正に条件検討し、事後に前提を覆すことのないようにして初めて、学問的に誠実なものと認められる手法となる。

宗教に関しての議論でも同じような行き違いを何度も見かける。祈れば救われることを否定はできないけど、それ以上に効果が見込めるものを拒む合理的な理由がない。そこを着地点とするならば、祈ることを否定する必要はなくなる。

哲学や思想の域に議論を持ち込んでしまえば、究極的には、何一つ完璧に否定することなどできなくなる。だから、相手に否定させる流れに持ち込めば自分の信念を譲らずに済む、というだけのことか。

話の継ぎ方。会話を繋ぐトレーニング。

2010-03-17 01:11:58 | 考え中
承前(「論理トレーニング」を逆手にとって質問を探り出す。

接続詞を意識することで、質問に繋がると知った。ということは、それぞれの接続パターンに対応する質問形式を持っていれば充分ということだ。つまり、
付加 それで?     (それに、また、さらに)
例示 たとえば?    (たとえば)
解説 つまり?     (つまり)
帰結 ということは?  (だから)
理由 なぜ?      (なぜなら)
転換 でも~じゃない? (しかし)
(補足は主張に関しては、枝葉なので重視しない)
という問いかけ対応表を常に頭において話を聴くこと、あるいは、自分の話を紡いでいくことが、伝わる/伝えるということになるだろう。理屈の上では、どれだけ話を継いでいても、この形式に則る限り質問が尽きることはない。

ただし、こういった無愛想な尋ね方は全ての説明を相手に委ねる初心者の質問形態となってしまい、実践会話のスキルとしては、威圧的で失礼なものである。だから、
「たとえば○○とか?」
「つまり~ということ?」
「なるほど、ということは、○○だね?」
「うん、そうだね。でも○○についてはどうだろう?」
などのように発展させた形式にすることを心掛けるのが次の段階となる。つまり、自分がどこまで理解しているのかを確認し、それを相手にも伝えることで、必要な情報を共有していくことができれば、会話がさらに充実したものになっていくだろう。

とりあえず、ここまでたどり着いたけれど、もちろん、まだまだ先の段階があるはずで、話題の全体像を捉えるトレーニングなどがさらに必要になるのだろうなと想像しながら、「論理トレーニング」をさらに読み直しているところ。