対話練習帳

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言葉にした瞬間に、あなたは何かを切り捨てている

2008-11-08 16:52:51 | 考え中
一見何のつながりもない個別の文章やコンテンツ達が、ふいに一繋がりの連想を与えることがあります。これから書こうとしていることなのですが、一体これは誰が何を自分に伝えているのかなと、恐らく誰も意図してないだろうことに考えが行き当たる不思議を解明できたら良いのになと思ったりとか。

表現するって思い通りに伝わらないものだよなあと感じながら、それでも何かを言葉で伝えようとしているわけですが。
誤読をしないために (追記あり - よそ行きの妄想
誤読をしないために気をつけたい3つのこと。 - finalventの日記
誤読をされないために

削られなかった部分が、ものを表す輪郭として文章に残る
言葉で表現するときに、輪郭を描くのではなくて、余白を浮き上がらせるような表現を工夫したい。

文字で示されていない行間にも読み手の目が向けられるような表現が自在に扱えたら素敵だろうな。そのためには、読み手をベストな立ち位置に誘導することも時には重要かもしれない、マジックショーの観客には、たいてい対面から観てもらうように。反対に、相手の表現を受け止める側になったときには、削り出された作品の輪郭だけじゃなくて、手を加えなかった部分、彫り残された部分、削られてしまった部分なんかに、ほんの少しでも思いを馳せることができたなら、人はもっと優しくなれるような気がする。言うまでもなく、優しいことがいつも正しいとは限らない。だから、優しくない人がいてもおかしくない。だけどもし優しくなりたいのなら、ちょっと意識してみたい。

相手に何かを伝えたくて言葉にする。それを言葉にした瞬間に何かを切り捨てている。文章を書く側にも読む側にもあらゆる人にもっと認識されるべきことだと思うのです。言葉に限定するだけでなく、表現すること全般と言ってもいい。彫刻しかり、絵画しかり、音楽しかり。本当は感知できないはずの輪郭や境界線を相手に認知させるために、それを浮き上がらせる手段として表現技術は発達してきたのではないかと感じるのです。無限の言葉の組み合わせからたった一つの組み合わせを選び出す、円柱から物体の形を削り出す、無地のキャンバスに色を重ねて境界線を描き出す、間を取ることでリズムやテンポを生み出す、そういう作業が表現の本質なのではないかと思うのです。削り出されて残ったモノに、見る側は輪郭を認知して、表現されたモノの存在を感じ取るのに、そのために常に切り捨てられる部分が存在することはあまり意識されません。もしも、その切り捨てられてしまう余白の部分をもっともっと上手に捉えられたら、輪郭を描くのじゃなくて、空間を浮き上がらせる表現の工夫にきっとまだまだ余地があるのじゃないかと、自分の表現技術を顧みるものの、やっぱりそう簡単に頭の切り替えができるものではないようです。

この話

「絶対輪郭を描くな。輪郭は、モノが有る部分と無い部分の境目なだけで、そこに輪郭というモノがあるわけではないのだから、描いてはいけない。モノを描いていれば、自然と輪郭が出来る」(俺とパンダ

や、
杏仁豆腐 - こくばん.in
タモリさん - こくばん.in
ここに集う方達の描き方など、まさに浮き彫りにするといった表現技法に、まるで急にそこに輪郭が現れたように錯覚し、感心させられたことが思い出されてしまうのです。

(2008年12月10日追記)
スウェーデンの研究者、「人体入れ替わり」の錯覚実験に成功
身体が交替する錯覚:視覚の交換実験が示すもの | WIRED VISION
PLoS ONE: If I Were You: Perceptual Illusion of Body Swapping
スウェーデンの科学者チームら、人工的に「幽体離脱」を誘導することに成功 国際ニュース : AFPBB News

自分の体の境界線が実に曖昧な認知に支えられていることの証明と受け止めた。とても面白い。視覚に大きなウェイトが置かれているんだなあ。ますます、自分の輪郭なんて幻かもしれないと思わされる。既成概念を壊すのは難しいけれど、それに成功して、自分の内部と外部の区別を自在に変化させることができるようになることが「悟り」なのかもしれないといった雑感を抱いた。


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