対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

そして誰もいなくなった世界を

2013-08-27 14:17:29 | Weblog
自分の望まない方向へ大切な人が向かっていることが今すごく苦しくてたまらない。その人は僕がしてほしくないことをしようとしてる。それだけじゃなくてそれは間違った方向に進んでると思ってる。そう感じているのにどうにもその人の意思を覆せないのが私には苦しい。

なんだけど、不思議にも苦しみを実感してから先にあるはずの心の動きがない。「自分は苦しいです。はい」その事実確認作業ですべてが終わっていた。こんなに苦しいなら、つらくて逃げ出したくて不幸で堪らないはずなのに、苦しいけど不幸じゃない。大切な人がそばにいる。その事実だけで自分は十分すぎるくらい恵まれている。幸せだと思う。僕の心の中には今、苦しみと同時に穏やかな気持ちも途切れずあり続けている。

じゃあそれは本当の苦しみじゃないのかっていうとそんなことはない。今の状況を突きつけられて、気力を根こそぎ奪われてる。何をしていても楽しいとか可笑しいとかの感情がストレートに湧いてこない。体調を崩すくらい胸の痛みは続いてる。

なにがそんなに苦しいのかって、僕が大切に思う人がそっちへ向かうことで誰かを傷つけたり、逆にその人自身が傷つくと予想しているから。何年か前からその人は同じようなことを繰り返していて、その経緯で、僕は深く傷ついた。生きていく理由を見失った経験がある。

でも実際は誰も傷つけないかもしれないし、誰も傷つかずに進んでいくのかもしれない。そんなあるかどうかもわからないことで、しかも他人の痛みについて、僕は勝手に察して苦しんでる。なぜ苦しんでいるんだろう。苦しみを感じるのは人間の防衛本能だと思う。苦しい状態から逃れないと命にも関わるくらい大切な感覚。だから、苦しいのはそういうセンサーが正常に働いているってことだ。まだ健全だってことだ。

ただ、ここから自分が逃げだしたいわけじゃない。誰が痛かろうがなんだろうが自分と切り離せばそれは他人事。そうなんだけど、それよりもずっとこれからも大切な人と一緒にいられる方がいい。もしこれが、自分独りのための苦しみだったら、もっと悶えていたはずだし、そこからとっくに逃げ出してたはず。

いつからか、僕の人生は自分のためだけのものじゃなくなった。大切にしたいと思える人ができた。そのときから守るものができた、人生を捧げる対象がいつもすぐ目の前にあった。だから、苦しいなあと感じているのに、不幸だとかここから逃げ出したいだとかという感情が湧いてこない。これから先ずっと、この苦しみと向き合って生きていくことになるんだなと、他人事のように考えてた。そんな日が数週間ほど続いてる。

そういうタイミングで、たまたま話題になったある卒業式のスピーチを読んだ。英語だったし、言い回しはややこしいしで難しかったけど、なんとなく言ってることはわかった。ようは優しくなれっていってるらしかった。読み進めたら、歳をとることの意義に触れたくだりにすごく引き込まれた。なんかね、歳をとると自分(エゴとかそういうことだと思う)が消えて、消えた部分は愛に置き換えられていくんだって。それで歳をとると放っておいても優しくなっていく。もちろんそのスピードは人それぞれで、より早く優しさを育てる自分なりの方法をどうぞ見つけだしてくださいという主旨だったわけなんだけれど。

その自分が消えていくという話がなんだかちょうどぴったりと今の僕の心境にはまった。もう結構いい年月を生きてきて、思い通りにならないことばっかで、しんどいしんどいって思うことばかり。確かに若い頃できなかったことが今出来るようになってきて、楽してる部分はある。その代わり、体力も知力も何もかも衰え始めてきて、体がどんどん言うこと聞かなくなってる。それに、24時間絶えずどこか体の調子が悪い。節々が痛いとか頭痛がするとか鼻水が止まらないとか肌が乾燥してかゆいとか。だから、苦しさの合計は今も昔もずっと変わってないんじゃないかなと思う。苦痛が多すぎてどれか一つを取り上げて絶望する間もない。それでも、自分のためだけに生きていた昔に比べると、今の方がとても穏やかだ。それって、苦しみから逃れなくちゃならない「自分」ってやつが減ってきているからなんじゃないか。そう考えるとなんかしっくりきた。

愛ってつまり、自分の人生を自分以外に捧げられるっていう今のこの心境というか、心の動きのことなのか。そのスピーチでは、子供が出来たときに己が大きく減って愛で満たされる、みたいな話だった。僕が思うに、人生を捧げる対象は別に子供でなくても、妻や恋人、両親、友人でもいい。世の中全てであってもいいし、趣味でも仕事でも、なんでもいい。とにかく自分の人生が自分だけのものでなくなると、苦しみから逃がしてやるべき自分がなくなる。自分が何者かである必要がないから、広い世界のどこかに埋もれて誰からも忘れられてしまうような存在だったって構わない。歳をとるっていうのはきっと自分が希釈されていくようなものなんだ。反対に、己ってやつは苦しみから逃れようとする心の動きで、自分の人生がまだ自分だけのものっていう状態なんだと、そう理解してみたら、なんだか少し気分がすっきりした。

繰り返しになるけど、苦しいと感じるセンサーは命を守る体の仕組みだと思う。苦しみの大きさを測る目盛りも自分の強さに合わせて持って生まれてきたものに違いない。そこは変わらないしねじ曲げちゃいけない部分。敢えてポジティブに捉えたり、何かの罰だと受け止めたり、無理に有り難がったりしない。もっとひどい状況になっていたかもしれないだとか、普段の心掛けが悪かっただとか、世の中にはもっと苦しんでいる人がいるのに自分は恵まれているだとか。苦しいという信号を別の信号だと思い込むのは以ての外だし、苦しみの目盛りだって狂わせてしまっては不健全なんじゃないか。苦しいのは苦しいと思っていいんじゃないか。そう思う。

そして、苦しみから逃れようとする心の動きも本能のレベルで健全な反応なんだと思う。醜くもないし格好悪くもない。苦しみを察知して、そこから逃がそうとするのは生きる本能の正常な反応。ここも変わらない。変わるのは、じゃあ誰を苦しみから逃がすのか、だ。自分ではない誰かを苦しみから逃がしたいと思ったとき、心の働く向きが変わる。

人生を誰かに捧げようとする心の向きも自然なままにあるべきで、ここにもチェックポイントがある。もしも自分のエゴを残したまま、形だけ自分の人生を捧げてみても、きっと何か報酬を求めてしまう。頑張ったのだからご褒美があるべきだとか、問題も都合良く解決するべきだとか。それは捧げているのじゃなく、自分の人生の押し売りみたいなもの。それは相手にすがる行為。もし心が自然にそう動いていないならまだその時期じゃない。自然な心の働きなら、捧げる相手からのリターンを求めたりしない。捧げることとすがることは取り違えないようにいつも気をつけていなくちゃいけない。歳を経て自然とそうなるようになっているのだから、無理にわかっているふりをしなくても人間なんて、いつかはきちんと清く優しくなっていけるはず。相対的に、若い頃よりは、ってだけだとしても。

きっと、もともとこの世は愛で満たされていたんだ、人間が生まれるよりも、ずっと前から。愛が何に向けられているのか、自分の人生を捧げるものは何なのか。今見つかっていなくても、まだ言葉にできなくても、きっとみんな、ちゃんと捧げるものを抱えて生きていくことになる。何かに捧げた分だけ自分が減っていく。生きるってのはつまり削っていく行為なんだ。自分を削って削ってちょっとずつこの世から消していく。消えいく部分を埋めるように愛が残る。そうやって、いつか誰もいなくなって、そのときようやくこの世はまた愛で満たされるんだろう。

苦しみを抱えながら、幸せに生きることができる。この世はそういうふうにできてると、僕はとりあえず信じてみることにする。そしてそういう世界に生まれたことを僕は感謝する。誰かに感謝する。感謝できるということは、利益を受ける自分がまだそこにいるということ。エゴが残っている証。じゃあ、究極的に自己が消え去ったとき、感謝するものがいなくなるかというとそうとは思えない。誰かの厚意が向かう対象として、誰かの優しさの受け取り手として、自分である部分、自己が必要なんじゃないだろうか。いつまでも消せないエゴの搾りかすみたいなものが、誰もいなくなった世界に残って、全ての愛に感謝する。