対話練習帳

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Sorryのニュアンス

2009-12-16 08:14:17 | 感想
Thanksにはその言葉を受けるべき相手が必要だけど、Sorryはdisappointing situationに対する失望や後悔の念を表明するものであって、必ずしもその言葉を受け取る相手を必要としない。さらに、I’m sorry to hear that ~といった相手に同情する表現などがあることもふまえると、実はネイティブの感覚では、Sorryは謝罪の言葉に相当しないのではなかろうか。そんなふうに考えたことがあります。

Sorryと謝るのではなく、Thanksと感謝する - My Life in MIT Sloan

実体験と重ねながら、アメリカで生活する多くの日本人が共感する内容だろうなあと頷きつつ読みました。全く同じことを感じている人がいると知ると、すごく安心します。

この感覚、英語ネイティブでない他言語の人とは今ひとつ共有できないんですよね。Sorryを多用するのがそもそも日本人だけなのかもしれないけれど、さらにSorryとThanksを対比してしまう感覚って、多分に日本語的な解釈で、実際「すみません」と「ありがとう」に置き換えてしまっては伝わらないニュアンスがあるだろうなあと漠然と感じています。

その辺の考えがなかなかまとまらなくてもどかしい思いをしているのですけれど、謝罪にせよ、感謝にせよ、言葉の背景にある概念が違っているかもしれないことには、常に気を配っていたいので、思い至ったことをここに書き留めます。

自分が日本語で「すみません」「ごめんなさい」と言うとき、「誰に」謝るかよりも「何(行為)に」ついて謝るかに重きを置いているような気がします。自分の失点を取り戻すことにばかり気がいってしまい、「誰が」どのように困っているか、負担を肩代わりしてくれているかということまで思考が咄嗟に行き届かない。

で、「ありがとう」についても同じような発想をしている自分に気付かされます。誰かに感謝するというよりも、状況に感謝するというようなニュアンスが強く出る。ところが、Thanksはきちんと「誰に」感謝するかを意識する必要がある。ただ漫然と、Sorryの代わりにThanksを使っていると、Thanksの相手が不明なまま言葉が出てしまうことがあったりして、周囲にきょとんとされてしまいます。

「責任の所在」という表現がありますけれど、アメリカ人には「自分の責任であるかないか」についてはストイックではあるものの、自分の責任の範囲外になると途端に無頓着でおおらかである傾向が見受けられます。

問題が発生してから原因究明しようとすると「誰の責任か」という問いが前面に出てきがち。それを乗り越えて対策へ向かうためには、最初に「私の責任です」と謝る役目の人が必要になってくる。けれど、最初から各個人が自己の責任範囲を明確に認識している前提があると、自分の責任であるかないかを確認することさえできれば、後は誰の責任かという問いにそれほど執着しなくて済む。となれば、謝る人の出番はなくなって、じゃあどうやって対応しようかとそのまま次の段階に進むことが出来る。そういった心理的な余裕が第三者からの目線を確保し、相手目線発言を成立させているのかなあと何となく感じています。

まず、自分の能力や責任を過不足無く評価する。で、その範囲を超えたところで他者の力が働いていることに思い至る。そして、その感謝する相手を明確にする。この一連の感覚を、これからしっかり育てていきたいなあ。