対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

知らず知らず役立っている

2007-09-08 07:12:51 | Weblog
それが陰徳の本来の意味ですよね。
上記の文章で挙げてた「MOON」というゲームは、困っている人を助けたりするとラブ(という名の経験値)がもらえるというシステムでした。だから基本的には「よーし人を助けちゃうぞ」と思って、助けて、ラブを得るものなんだけど、たまに、こっちが別に困っている人を助けたつもりはなくてもラブ認定されることがあって、それがすごく新鮮だったのです。で、それも「人のお説教を きく」とか、わりとしょーもないことだったりして、でもそれがラブですよといわれると妙に納得してしまう。で、あ、なんかこれすげえな、と思ったのです。 行為の主体である自分がラブかどうかを決めるんじゃなくて、関係性の中から遡及的に見いだされたもの、それがラブ。ラブは演じるものじゃない、関係性の中 から見いだされるもの! それはどう考えても人生真実のひとつで、しかもそれを言葉で説明されるのではなく、ゲームというメディアを通して伝えられたというのが、ひじょうにエポックな体験であり、その感覚は、いまだラブというわかったよーなわからんよーなものを考えるときに、たしかな礎となるべくわたしの中に横たわっておるのです。

見出されることを待っているすべてのラブと優しさへ



(書きかけ) 過去に対する怒りの源泉

2007-09-08 04:11:30 | Weblog
例えば連れ合いが浮気をしていたと知ったとき。落ち込む、腹が立つ、動揺する。といった感情が生じる。相手の浮気(という行動)に対して感情が煽られるのだけれども、気付く前からしていたわけで。しかし気付かなければ、この感情にはならないわけで。不思議に思ったのは、過去に対しての怒りというのは、どのように清算されるのかというか、まだ書きながら混乱中。例えばこの話だって、世間がどう言おうが事実は変わっていないわけで。その中で変わったのは評価する側の価値観だけ?パラダイムシフトというのがそれなのか?

(2008年11月30日追記)
あれから一年経っても、いまだ考え中のまま。

過去の行為に対しての怒りは、ある瞬間に対しての怒りだけではない。ある一つの行為だけを切り取ってのものでもない。その行為に到ったマインドが許せないのだ。責められるべきは行為自体ではなく、その誤った思考回路。やってしまったことを巻き戻してなかったことにすることはできない。けれど、そこで受けた傷は時が少しずつ癒していく。それでも思考回路が変わっていなければ、それは行為の継続を意味する。相手は過去から今に至るまでずっと傷を抉られ続けているのであるから、癒える傷も癒える間がない。何らかの価値を損なわれ、それが継続しているのである。それは許されるべきではない。行為の停止は償いとは看做されない。「私が浮気を辞めたのに、相手はまだ自分を許してくれない」というような論理は図々しいことこの上ない。損なわれた価値を当の加害者が理解したとき、ようやく償いが始まる。怒りはエネルギーを消費する。怒りは、償いによって相殺されるもので、それは損なわれた価値と費やされたエネルギーを加害者から被害者へ等価で受け渡された時に完了となる。
怒りと叱りは区別されなければならない。叱るのは、相手が過ちを繰り返す恐れがあるとき、被害が予測されるからであって、それを未然に防ぐためのものである。自分にも当事者にも利益となる。叱るのもエネルギーを消費する。そこで費やされるエネルギーは将来の大きな損失を回避するための保険となる。