対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

Sorryのニュアンス

2009-12-16 08:14:17 | 感想
Thanksにはその言葉を受けるべき相手が必要だけど、Sorryはdisappointing situationに対する失望や後悔の念を表明するものであって、必ずしもその言葉を受け取る相手を必要としない。さらに、I’m sorry to hear that ~といった相手に同情する表現などがあることもふまえると、実はネイティブの感覚では、Sorryは謝罪の言葉に相当しないのではなかろうか。そんなふうに考えたことがあります。

Sorryと謝るのではなく、Thanksと感謝する - My Life in MIT Sloan

実体験と重ねながら、アメリカで生活する多くの日本人が共感する内容だろうなあと頷きつつ読みました。全く同じことを感じている人がいると知ると、すごく安心します。

この感覚、英語ネイティブでない他言語の人とは今ひとつ共有できないんですよね。Sorryを多用するのがそもそも日本人だけなのかもしれないけれど、さらにSorryとThanksを対比してしまう感覚って、多分に日本語的な解釈で、実際「すみません」と「ありがとう」に置き換えてしまっては伝わらないニュアンスがあるだろうなあと漠然と感じています。

その辺の考えがなかなかまとまらなくてもどかしい思いをしているのですけれど、謝罪にせよ、感謝にせよ、言葉の背景にある概念が違っているかもしれないことには、常に気を配っていたいので、思い至ったことをここに書き留めます。

自分が日本語で「すみません」「ごめんなさい」と言うとき、「誰に」謝るかよりも「何(行為)に」ついて謝るかに重きを置いているような気がします。自分の失点を取り戻すことにばかり気がいってしまい、「誰が」どのように困っているか、負担を肩代わりしてくれているかということまで思考が咄嗟に行き届かない。

で、「ありがとう」についても同じような発想をしている自分に気付かされます。誰かに感謝するというよりも、状況に感謝するというようなニュアンスが強く出る。ところが、Thanksはきちんと「誰に」感謝するかを意識する必要がある。ただ漫然と、Sorryの代わりにThanksを使っていると、Thanksの相手が不明なまま言葉が出てしまうことがあったりして、周囲にきょとんとされてしまいます。

「責任の所在」という表現がありますけれど、アメリカ人には「自分の責任であるかないか」についてはストイックではあるものの、自分の責任の範囲外になると途端に無頓着でおおらかである傾向が見受けられます。

問題が発生してから原因究明しようとすると「誰の責任か」という問いが前面に出てきがち。それを乗り越えて対策へ向かうためには、最初に「私の責任です」と謝る役目の人が必要になってくる。けれど、最初から各個人が自己の責任範囲を明確に認識している前提があると、自分の責任であるかないかを確認することさえできれば、後は誰の責任かという問いにそれほど執着しなくて済む。となれば、謝る人の出番はなくなって、じゃあどうやって対応しようかとそのまま次の段階に進むことが出来る。そういった心理的な余裕が第三者からの目線を確保し、相手目線発言を成立させているのかなあと何となく感じています。

まず、自分の能力や責任を過不足無く評価する。で、その範囲を超えたところで他者の力が働いていることに思い至る。そして、その感謝する相手を明確にする。この一連の感覚を、これからしっかり育てていきたいなあ。

学歴とコネと大学の価値

2008-12-21 11:22:24 | 感想
(12月24日追記)
その後、周りの人(とくに現役学生さん)に話を聴くことができた中で、出身大学よりも、出身大学院がどこかということの方がキャリアには重要かなあという印象を受けました。学歴社会がなくなったのではなく、大学卒業では差がつけられなくなってきて、その上のステージに移動しただけのような気がします。いままで塾が担ってきたことを大学が担当し、そして大学院で最低限の品質保証としての学位+大学のブランド価値=コネの二軸で評定されているのが実情なのかなと分析しました。(追記ここまで)
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ポール・グレアム「学歴社会の次に来るもの」 - らいおんの隠れ家

感想です。

なんだか面白そうなことやってるなと、ただそれだけの理由で少しだけとはいえ臆面もなく参加させて頂きましたが、翻訳作業はとても楽しかったです。語学学習としても、文意の読み取り練習としても、lionfan様はもちろん、コメントや回答に寄せられた素晴らしい知恵から非常に多くを学ばせて頂きました。読めているつもりでも案外分かっていないもので、自分で手を動かして体験した上で理解を深めていく作業は実に刺激的。

大筋では見通しも立てられたご様子なので、ここから先は、やはり普段から背景を良く勉強されている方にお任せする領域に入っていきそうです。翻訳作業のお邪魔にならないように身を引きつつ、個人的な興味は既に、米国での学歴の意味に移っていたこともありまして、そっか、じゃあこの機会に自分の経験や見解などを書き留めておくか、てな具合で、以下、一個人の実体験に基づく主観に満ちた戯れ言になりますが、こんな様子もあるのかと気軽な気持ちで。

きっかけとなったポール・グレアム氏のエッセ-は、私にはちと難しくて、中盤や最終段落など、まだまだ理解できない部分がたくさんあって、それはまあ元々の関心の低さもあるので仕方がないとして。ただ、どうにも気にかかっていたのは、日本と米国の教育システムの違いのことでした。日本のシステムを連想していると読み誤るんじゃないかなあと懸念していました。受験の話題から始まって、「名門大学に入ること」=「学歴を得ること」という連想を与えつつ、いつのまにか「どの大学を出たか」「どんな学位を得たか」という履歴までもそこに包括して語られてしまっていることに疑問を抱いてしまいました。よく耳にすることですが、日本の大学は入り難く出易い、米国の大学は入り易いが出難いという印象があります。当たらずとも遠からじという実感です。そこで、このエッセーを米国の当事者達はどのように受け止めているのだろうという実態を覗いてみたところ、このような塩梅でした。
"After Credentials" (Paul Graham) - Page 3 - College Discussion
Hacker News | After Credentials
ついでにもう一個
Paul Graham on Credentials: My Thoughts | Leveraging Ideas
学生と社会人、それぞれの立場の違いが議論を分けるようですね。評価される側は、学歴の評価の公正さをどのように保つか、それをどのように活用するか、といったことが気になるし、評価する側に立てば、成果の予測に個人の履歴をどう取り込んで利用するのかという議論になるようだと分析しました。でも、


「こんなの酸っぱいブドウだろ(意訳:学歴ないやつの嫉妬だろ)」
「いや、彼、高学歴だから」


みたいなやりとりや、


「performanceの話でabilityとは区別しろよ」
「いえ、私はずっとabilityの話をしているつもりですが」


といった掛け合いを目にして、ああなんかわかるなあという共感が湧いてくる辺り、当初の疑問、日米の大学システムの違いなどは関係ないのかなという結論でとりあえず留めておくことにしました。

で、実際に米国の比較的アカデミックな場所に今所属して眺めてみた実感として、「学歴主義」のニュアンスが若干異なるのではないかなと思う部分があります。

先に基本的な前提として、まず米国の大学入学の仕組みの簡単な確認。大学個別の入学試験はありません。全ては申請書と個別面談で決定されます。学校での成績と内申書+推薦状が合否の鍵です……というのが私の理解ですが、自分自身が手続きを経験した者ではないので、より詳しい話は相応しい方にお任せしてしまいましょう。
日米教育委員会 制度 1 A. 日本との制度の違い
こちらは、大学の数から大学の認定機構の話まで、情報がよく整理されていて面白かったです。特に教育理念の項目が興味深い。大学は知識や技術を授ける場ではないんですねえ。他にも以下を参考に。
学ぶ意思を尊重する アメリカ高等教育の仕組み(2) - 最新号特集 - 日本語によるロサンゼルス&サンディエゴ現地情報 - ライトハウス
進路システムのしくみと大学生活(上)

進学準備の過程で申請者は、予めSATなりACT、留学生や移民ならばTOEFLなりの、各種「学力保証試験」を受けて成績を取得する必要があります。でも、これらの試験に対してprep schoolなり予備校なりがあるものなのかなあ、どうも聞いたことがないのです。ここがあまりに田舎だからかなあ。とはいえ、それに相当する言葉が存在すること自体、予備校なり塾なりの存在の証明なのでしょうね。確かに本屋にいけば一区画を占めるほどに、あの手この手の試験対策本が並べられているので、大学入学支援ビジネスが充分に成立しうることは素直に頷ける。でも中身をぱらぱらと見た限りでは、SATってせいぜいセンター試験程度のもので、癖がなく扱い易いものなのではないかなあと勝手に想像しています。なので日本で言われる程、大きなビジネスにはなり辛いのではないかと。

というのも、そもそもSATなどのウェイトはさほど大きいものじゃなくて、むしろ重要なのがGPAなる学校の成績履歴であり、ボランティア活動や人柄について保証する推薦状などになるからです。日本であれば内申書にあたるでしょうか。これが高校の担任によってどのように書かれるか、あるいは身内なり先輩なりに有力な推薦状を書いてもらえるかどうか、その辺りの駆け引きは無視できないし、そのための良好な人間関係の構築が大切と多くの人が考えているように見えます。周りの人達が自分の将来の成否の一端を握っているというのはプレッシャーですよね。そして推薦状は、コネクションというより、身元保証としての位置づけが近いようです。何しろ広い土地なもので、大学進学は独り立ちのタイミングでもあるわけでして。寮長や管理担当者などになると、警察から、ドラッグの見分け方や対応の仕方(二次的被害が出ないように部屋を換気する段取りだとか)、拳銃の安全管理の手順などを一通り指導されるようなお国柄ですから、「履歴」ってのは、治安保証の意味でもとてもシリアスなものなのです。だからこれを第三者が保証する必要がある。大学進学時の推薦状には、どうもそのような意味合いも含まれているんじゃないかなあと感じるのです。Reference letterと呼ぶのも示唆的ですよね。自分はポスドクなのですが大学院への推薦状を頼まれたことがあります。最低でも5人くらいからのレターが必要だとかで。なるほど、それくらいの人数から信用保証が求められるのだなあと思ったものです。ここ(推薦状のルール(林 文夫))ではもっとはっきりとその旨提示されています。コネクションよりも、実際に申請者の人柄を知り得る立場であることが大事だったようです。実態を知っている人物からの身元調査報告書といったところ。身元保証人ですね要は。

余談になりますが、私が触れた推薦状の仕組みはとてもシステマティックで面白い体験でした。指定されたネットのページにアクセスして、そこで直に記入するようになっていて、基本的な推薦文の項目以外にもいろいろな質問がありました。「過去に何人を推薦して、申請者はそのうち何番目に当たるか」だとか、「うちの大学にふさわしいと思うか」だとか、「分野への適性について/性格について、具体的な人柄を表すエピソードを教えて欲しい」だとか。推薦者自身のキャリアというか信憑性も問われるようで、自分のバックグラウンドの説明等も求められることがありました。

そういった状況をふまえると、学歴社会といっても、こちらのそれは、ちょっとニュアンスが違うものになりそうな気がします。むしろ信用社会といわれる方が自分にはしっくりきます。「学歴」=「信用」なのではないかなあと。で、そうみると、権力の介入に予備校が貢献できる要素は少な過ぎるのですよね。むしろ権力は直接人間関係に影響して、目に見えないままパフォーマンスの評価を歪めることがありそうです。

そのあたりの歪みを見抜くには、当人との面談も大変重要で、対面してみて素の相手を剥き出しにしようとするテクニックが面接官には要求されてくる訳ですね。自分がこれまで何をしてきたのか、進学にどのようなビジョンを持っているのか、それがはっきり提示できない人物などは信用ならないわけです。そんなわけで、大学入学の為の面談で、すでに明確な将来設計、意思表示、プレゼンテーションが要求されるのです。でもこれはこちらの人にとってごく当然のことで、そういうトレーニングは小さい頃から積まれてきている(参照:自己表現力教育)し、その内容や能力自体、常に評価され続けてきているのです。人生の節目ごとに自分の人生設計や指針を問われる訳です。説得することが自分の人生を切り拓く為に必要なのですから、この点がもはや意識されないくらいに当たり前になっていると、当人達から議論にはのぼりにくいでしょうけれど。

日本と比べれば遥かに、奨学金(返還不要)も学生ローン(要返還)も充実していて、サポートを受けられる層が格段に広いです。社会の空気としても、年齢性別経歴問わず基本的に誰でも生涯学習するのが大人のたしなみでもあるので、学校に通うことは仕事をすることと同程度に当たり前として受け入れられているようです。とはいえ、職場環境は大きな要因です。労働環境が格差を生じさせるので、経済的に苦しい立場の人は、忙しさにかまけてなかなかステップアップの余力が残らない。軍隊にいく人などはおろらく最も典型的でしょうね。任務による拘束から完全に解放されて、ようやく大学に入学する準備を始めることができる。みなそれぞれにチャンスは与えられるのだけれど、その間にも経済的に恵まれている人は、絶えず自分の適性を確認して進路転換を重ね、さらにキャリアの上積みのためにMBA、MS、PhD、MDなどを取得していってしまう。これらは学歴というよりも、サラリーの最低賃金を保証する資格という認識が強いのではないかと、普段の会話を聴いていて感じます。キャリアを積むことが安定した人生=収入をより確かなものにするという確信があるような。だから、結局は手持ちのビジネスがあるかどうか、資産があるかどうかという視点に戻ってくるのですね。実際、学歴以外の資産、土地であったり、工場であったり、貸し家やらハンティングやらでも、そういう「モノ」を持っている人はキャリア志向が薄いようで、しっかりバケーションをとるし、結果に対しても比較的おおらか。そういう人でも勉強は欠かさないという風潮がこの国の長所ですけれど。そのような人達でもいくつもの大学に通ったり大学院で学位を取得したりしますが、こうなるともう単に自己満足というか、自分の到達度チェックのための検定試験のような扱いなのかなあなどと想像してしまいます。

大学に入ることと大学を卒業すること(学位を得ること)は別個の意義があって、それぞれがきちんと、人生の成否あるいはビジネスの成功に結びつく価値あるものだと思うのです。一緒にして捉えてしまうのは勿体ない。

大学に入るとはすなわちコネを得ることです。上で挙げたリンクの教育理念の項目にもありましたが、学生自らスキルを磨き意見戦わせる場を提供することでそこに人脈ができ、ノウハウが蓄積されるのです。これを明確な目的とする才能ある学生は、夜間大学やコミュニティーカレッジから州立大学、私立名門大学に到るまで、大学を問わず決して少なくありません。スタートアップマインドがとっくに確立されている人達は大勢います。すでにその次の展開のビジョンを求めていますし、良いクラスメートに巡り会えればコラボレーションも図りたい。とりわけ際立った人達は、実際、大学あるいは院生時代に仲間とさっさと起業して学校を去り、大きく成功してそのまま中退してしまった話など、かなりあるのではないでしょうか。

大学を卒業するとはすなわち信用保証を得ること。この学位こそが信用を保証するものと判断されるのですよね。なので、韓国の受験事情が導入に使われた理由が今ひとつ分かりかねています。で、これも巡り巡ってゆくゆくは将来の人脈にも繋がるけれど、必ずしも狙ったものが得られるとは限らない。コネを獲得することは大学を卒業する主要目的ではない。より直接的には、ある種の資格証明、能力証明と受け止められるもので、必要条件として求人でも用いられるもの。コネに対する認識も日本的なウェットな信頼関係の絆という意味合いから離れているように感じます。ドミトリーとかファミリーとか、ある種のルール制約下におかれていますよという宣言。それは前提を共有している/ルールを踏み外さないことの表明として機能するのがコネなのではないかと思える節があるのですよね。

結局の所、どのような主義が広まったとしても、それは、人と人との繋がりを表明する仕組みなのだろうなと。極端な話、家柄で表記されていた権力譲渡証が、見た目だけを変えてみたものなのかもしれません。成果主義すらも、突き詰めるとそこに辿り着いてしまうかもしれませんが。人と人との繋がりが明示されるのが何よりの安心ですからね。

実は真に皆が望むものは「安心」なのであって、自分が安心するための指標として、価値基準となるのがお金であり、それを操る経済であり、ビジネスであると。

安心を担保する為に求められるものが「成果・業績」
コンスタントにその供給を保証するのが「能力・実力」
能力や実力を評価/保証する指標としての「学歴・信用」


と、こういったことなのかなあと思い到った次第です。

「日本人」という病

2008-11-23 23:30:36 | 感想
「何も選ばない」生き方のすすめ:NBonline(日経ビジネス オンライン)
この記事を読んで「日本人という病」、という言葉が頭に浮かんだ。これをテーマにここしばらく考えていたことについて何か書いておきたいと思ったのだけど、なんとなく予感がして検索してみたら案の定、とっくに語られていた。河合隼雄はとても有名な方なので、名前はもちろん知っていたし、その思想にもとても興味を惹かれていたにも関わらず著書を拝読したことがない。とりあえず今は、恐らく先人達に考察され尽くされているとしても、自分なりに考えたところまでまとめておきたい。いずれ著書を読む時に、答えを合わせをするようなつもりで。
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<病んでいるのは誰なのか>
病には先天的なものと後天的なものがある。ここでは、自覚できるものと自覚できないものと言うべきだが、医者(観察者)の立場と当事者の立場では、その意味する所が違ってくる。後天的なものは、自分が知っている通常の状態と比較して何かしらの変化を認知するし、それゆえ自己の異常を受容できるものである。それに対して、先天的に持って生まれたものは、それが病であっても当事者にとっては、物心ついた時に自らに既に与えられた条件であり、それが当たり前の状況なのである。自分と他者を比較するなり、第三者の意見として何かが違うと認められたときに、何が違うかは認知できないまま、自分の異常を知らされる。周囲と異ならなければ、周囲が気付かなければ、それは病とは看做されない。しかし、じゃあ一体誰が病んでいるのかという問いを突き詰めれば、多数派工作と異分子排除のメカニズムが生理反応レベルで染み付いている人間の本質が露になるのだろう。ああ、それが、自分がより優位に生きる環境を求める生物として、正常な人間である証なのか。

上の記事のインタビューで、日本人は、
●時間に正確でないことが
●理由のない(論理的でない)行動が
●責任の所在がはっきりしないことが
●自分の価値基準が周囲と異なる(皆と違う)ことが
フラストレーションになっていると指摘されている。つまり、より時間に正確で、つねに正当な根拠に基づいて行動し、責任感を持って、皆と協調して生活することが正常だと感じていることになる。どこか見覚えのある「症状」だ。

これは、病んでいる人が、より症状の進行している人を病人扱いすることで安心する構図だ。現実には広い範囲に違ったレベルで分布する何ら境界を持たない集団なのであるが、それでは病める者と正常な者を区別することができない。そこで、極端な領域を切り分けることで、多数派と少数派に二分し、多数派をノーマルとするのである。それは実に統計学的なやり口である。しかし、マジョリティとマイノリティの境界線を、一体何が分けているのか、誰が分けることを望んでいるのか。

ここで別の記事を読んで気付いた。以下引用、

 通常、この制度にあっては、目標の価値と達成度で評価される成果が部署なりグループなりの中で相対評価されて、その相対評価に応じてボーナスなどで「差を付ける」仕組みになっている。しかもボーナスは、会社が事前に払ってもいいと思っている程度の金額を配分するものであり、仮に大いに成果を上げても、その絶対額は大きなものにならない。

 外資系の会社の報酬制度を経験すると、日本の会社が強調する「同期でも、上下に数十万円、場合によっては、数百万円の差が付くのだ」というポイントは、「たかだか、そんなものか」「しょぼい」という印象になる。支払いが「しょぼい」くせに、成果・報酬の優劣をあたかも人の優劣の差であるかのように強調するから、雰囲気が何とも「陰気」なものになる。Business Media 誠:山崎元の時事日想:給料に不満を感じる理由――日本に根付く“陰気な成果主義”とは?


そうか、逆に見れば、本来誰一人何もかも同じ人等いないにも関わらず、団結していられるは、互いの差が小さいから仲間意識を保てているだけなのだ。皆それぞれ個性的ではあっても、その差が「しょぼい」から、誰も集団から離れるリスクを取れないんだ。

多数派であることはアドバンテージだ。それだけで権力にもなる。「常識」はそれが通用するコミュニティにおいてのみ、信用コストや判断コストを下げてくれる。脳を使わせないで済む環境は、経済的なコスト以外に、心理的な圧力も軽減する。常識を共有していない者にとって、それは圧力になる。厄介なことに、多数派は常に境界線を引いているわけではない。自己と他者の差をできるだけ「しょぼい」ものとして扱えるように、基準値なり理論式を都合良く組み替えているだけである。それは、より大勢を自陣に引き入れようとする力である、しかし極端の領域にいる者にとって、「常識」という中央値ははるか遠くにあって容易に受けれがたい。そこに見えない圧力を感じ取ってしまうことになるのではないか。境界線は実は少数派によって引かれているのではなかろうか。

<多数派を分断する>
境界線を引かなければ、あるいは線の引き方によっては、勢力の分布を変えることができる。さて、ではどうすればよいか。多数派が多数派であることを疑わせればよい、少数派に近い領域を自陣に取り込めば良い。多数派の仲間意識を分断することが必要である。少数派が突くべきは、自分達とその他大勢の差ではなく、自分達の均質性に対する多数派のばらつきであろう。「自分はAなのに、あなた達はBであるのはなぜか」ではなく「自分達はAなである。ところが、あなたはBであり彼はCであり、あの人はDである。これはなぜか」と問い続けていくことがポイントである。このばらつきの指摘が、単一グループを複数に分けることになる。その中から自分達の基準に近いグループを取り込んでいけば良い。

しかし,一旦生じた仲間意識の分断は容易ではない。これは利害関係でもあるからだ。多数派であることのアドバンテージを誠実さだけで放棄するのは人間の本能に反する行為だろう。そこで、より戦略的には、グループの再編成によるコストの削減、多数派であることの経済的損失を指摘するのである。

<コストに含まれるもの>
合理的であるかどうか、その判断基準は、持っている情報量やその種類によって異なる。論理的、経済的に合理的であることが全てではない。当事者にとっての判断は、常に合理的である。それが不条理なものに思えるならば、あなたに見えていない情報がそこに介在しているというだけである。ギャンブルがなぜ成立するかといえば、経済や論理以外に消費するコストを所有する人が居るからである。

常にロジカルで経済的な判断を下せる人は存在する(参考記事:People With Autism Make More Rational Decisions, Study Shows)。これは、そういう能力をヒトが持ちうること、人体の取り得るシステムとしてそういう適応が可能であることを保証する。しかも巷では、「適応」といえば「機械モード」思考回路の構築を意味する(参考記事:取り違え回避のやりかた - レジデント初期研修用資料)。お役所仕事などというのはその典型だ。

一般的に、生体のエネルギー消費もコストに含まれる。体を動かすことは疲れることである。脳みそを使うことは疲れることである。継続する作業の中で判断力は劣化する。だから、考えること、判断を下す過程をシンプルにすることはコストを下げることになる。それは、効率を上げるだけでなく、均一条件における行動の精度をあげる。とりわけ、常識を共有するもの同士ではその効果は倍増する。しかし、相手と前提を共有しない場合、人間の誤作動によるトラブルが引き起こされる。

基本的に、四六時中隙間無くヒトはストレスに晒されている。そのような環境下では、機械モードで判断する行為はコスト的に見ても合理的な判断なのである。

ストレスとは抵抗である。何の抵抗もなしには流れは何ら変化を生じない。何らかの抵抗が介在したときに、流れの早さや向きが変化し、それが五感(第六感も含むか)によって知覚される。感覚とは、人間が何らかの情報を感知することであるが、それは抵抗を感知することである。つまり、情報とはストレスそのものである。情報を提供することはストレスを与えることなのである。

情報を提供するにあたっては、与えるストレス以上にコストを削減するものであるか、もしくは、今すでにそれ以上に無駄なコストを費やしていることを相手に伝えなくては相手は耳を貸さないだろう。

さて、ここまで書いてきてなんだが、肝心の脳みそを使うコストを節約する例示を思いつく前にエネルギーが尽きてしまったようで、思考は一旦ここまで。

失敗から学ぶか、成功から学ぶかという話題

2008-11-18 17:11:53 | 感想
学習の仕方について情動は認知に作用するのではと考えを巡らせているところで気になった記事に出会ったので、その感想をここに。

「社会的評価の連合学習」
Associative learning of social value : Abstract : Nature
誰をどの程度信用するべきかといった社会的な人間関係の評価で、ヒトはわりとシンプルな学習機構を利用しているらしい。ピンと来ないのだけれど、連合学習(Associative learning)というのがキーワードのようだ。
連合学習 - Google 検索
いろんな実験が行われていて興味をそそられた。
例えば、かなり原始的な生物でも連合学習の仕組みを持っていること。
連合学習の解析
情動よりもさらに原始的な生理現象として、報酬体験を行動に取り込む仕組みの方が先にあったということか。
視覚刺激と運動との連合学習の神経機構
サルに、いくつかの図形を提示されたときに一対一対応でそれぞれ特定の動作をするように訓練した後、使用した図形の内の一つを未知の図形に入れ替えて提示するとすぐには対応を修正できなかったけれど、数回から数十回の繰り返しで修正できたとのこと。

この結果が示唆するところで気になることが二点あった。まず、「図形の提示」→「(限定された)動作」とリンクさせるという部分での連合学習はスムーズに行われていること。過去に適用されたルールを踏襲しているのは一見自然なことのように思えるけれど、考えようによっては、全然違う動作やリアクションが要求されているのかもしれないと戸惑ってもいいはずの場面であるのに。一方で、入れ替えられなかった図形から差し引きすることで、未知の図形の動作を推測するという判断がなされなかった(らしい)。これが二点目。過去に学習したルールに則していることが推測されるなら、二、三回の内に、まず唯一対応を失った動作をそれに当てはめてみようとするものではないだろうか。ところが正解できるまでに数回から“数十回”掛かっているという点で、このような判断を下していないことが読み取れる。

学習刺激
Learning From Mistakes Only Works After Age 12, Study Suggests
失敗から学ぶか、成功から学ぶかという話。

被験者はあるコンピュータディスプレイ上のテスト(ゲーム)を行うように指示される。テストには二つの形(車と魚)、二つの色(赤と緑)の2x2の組み合わせが用意されており、そのうち、色を選択するか形を選択するか、二つのルールのどちらであるかを推測してタッチパネルで回答するようになっている。あるグループでは、まず、画面上に緑の車と赤の魚が提示され、続けて緑と赤の線が表示される。このとき被験者はどちらか一方の色を選択するように指示される。次に色と形のいずれかが入れ替えられたものが提示され、被験者はそれを色を基準にするか、形を基準にするか、ゲームのルールを予想して答える。ここで、正解であった場合に、動作を引き続き練習で繰り返させるグループと、不正解であった場合に引き続き繰り返しの練習を行わせるグループに分けて、その練習過程での被験者の脳の活動領域をfMRIで観察したというもの。
(実験方法の解読に充分な自信がなく、説明はかなり曖昧です)
成長過程にある8才から12才までの間に、脳の学習戦略が変化するという話。8才までは成功体験(ポジティブなフィードバック)から、「こうすればいい」というアプローチで自分の行為について学習する傾向が強いが、12才になるまでに失敗体験(ネガティブなフィードバック)から「こうしてはいけない」という行為を学習する能力が発達する。

非常に大胆に結論を活用するならば、小学校低学年までは、上手に褒めて能力を伸ばす方が効率よく、高学年になってからは叱る、間違いを指摘するということでより正確に物事を伝える教育方針を採ることができるということ。成功体験というよりも報酬体験という方が正確なのかな。アメとムチも年相応にバランスを取って、ということか。

褒められるか叱られるかという認知が、ソーシャルスキルの学習には最も影響が大きいものではないかと推測されるのだけれども。ソーシャルスキルの教育って、結局のところ多数派工作だといえるもので、所属の集団にとって快か不快かが基準になる。環境から学習する、周囲の人間の振舞から学習するというのは非常に自然な流れに思える。

しかし、自分は叱られることに一向に慣れないのですよね、これが。叱られても気にしない人や、ダメだしされても、自分に必要なことを吸収していける人の思考回路というか、学習メカニズムはどのように組み立てられてきたものなのだろう。単に、生まれついての連合学習の感度や傾向の差が現れているものなのだろうか。

ミラーニューロンセオリー

2008-11-15 00:49:12 | 感想
Looking Through The Broken Mirrorの記事から引用。

At the heart of the research is the idea that people with autism may have difficulty understanding other people's everyday actions and thoughts. For example, if you see someone pick up a tea bag and a mug, you can guess that they want a cup of tea. People with autism may have trouble with these everyday situations.
(この研究の肝は、自閉症を持つ人は他者の日常生活上での動作と思考を理解することに難があるという発想にある。例えば、もし誰かがティーバッグとマグカップを持っているのをあなたが見たとする。すると、あなたはその人がお茶を飲みたいのだろうと推測できる。自閉症の人は恐らくこのような状況でトラブルを抱えているだろう)
The ability to understand everyday actions relies on a series of brain regions collectively known as the mirror neuron system (MNS). These brain regions are active when we act, but they also 'mirror' other people's actions. For example, the same 'mirror' brain region is active when you pick up a mug and when you see someone else pick up a mug. The 'mirror' brain regions allow people to interpret and imitate each other's actions, and have also been linked to social abilities like language and empathy.
(このような日常の動作を理解する能力は、ミラーニューロンシステム(MNS)として知られる脳領域に依存している。この領域は自分自身の動作によって活発に活動するが、また他者の動作を反映(mirror)もする。例えば、自分がマグカップを手に取ったときに活発化する'mirror'脳領域は、誰かがマグカップを手に取ったのをあなたが見た時にも同様に活発化している。この'mirror'領域の機能に依って、人は互いの動作(の意図?)を解釈したり真似することができる。さらに、'mirror'領域の機能は、言語(によるコミュニケーション?)や共感といった社交能力とも関わっている)

ミラーニューロン - Wikipedia

これに関しては、指摘されれば確かにその通りなのだけど、自分が出来ているならば全く意識しないで処理しているはずだし、出来ていないなら、まずそのような連想の仕組みになかなか気付かないので、どちらにしても見過ごしてしまうものだなあ。一つ前の記事で、気配りについて考えていたけれど、その前提として当たり前になってしまって、見過ごしていることがまだまだたくさんありそうだ。

何かしら行動が現れるまでにいくつのステップを踏んでいるのだろうと毎度考えてしまう。出来ることならば、その初めから終わりまでを認知してみたいのだけれど、やはり意識の外で働いている生理現象を実感するなんていうのは、とても難しいことだし、恐らく不可能なことなのだろう。心理学では、いろいろな分類が試みられているようだ。

人間は、知覚-評価-情動-表出-行動の一連の連鎖が情動反応を決定するとしています。戦闘機のパイロットが、敵機を発見し、撃墜するという行動をとるとき、そこには情動が介在しています。まず、パイロットは接近してくる戦闘機を知覚し、次に味方の戦闘機か敵機かといった状況の評価がなされます。さらに、味方の戦闘機であれば快感情が、敵機であれば不快感情が喚起されます。そして、最終的に、味方であれば接近、敵であれば撃墜という行動が選択されるのです。したがって、情動は、刺激の評価に基づいており、有益と評価した対象に接近し、有害と評価された対象から回避しようとする感覚的傾向であるわけです。また、情動は、行動の動機づけとしても機能しているとした点も重要なところです。-「アーノルドの情動認知説」の章より引用


まず外部に刺激が発生する。それは五感のどれか、もしくは内部からの第六感が、刺激を感知して情報として受け取る。受信した情報を編集する。編集した情報に対して判断を下す。その判断に基づいて情動を励起させる。その情動を動機としたリアクションをとる、するとこれが行動として外に表れる。実感としてはこのような流れがある。情動には個人個人の傾向があって、それが評価や情報の編集に影響を与えているようにも感じる。

マグカップの話に戻ると、相手の動作の何を見ているのかという点。全体を見ていれば無限の変化が存在する訳で、その中からマグカップとティーバッグに注意が向けられるような、感性がある訳で。理由付けをするならば、過去に繰り返し見て来た光景を記号化して、それに当てはめているとも考えられるし、その日の気温が低いから自分が熱いお茶を飲みたいなと思っていることで、予測が絞られるなんてこともある。見る人が見れば、相手が持っているのが本人のマグカップか否か、紅茶のブランドが見慣れたものか否か、いつも定期的にお茶を飲んでいる人かどうか、そんなことまで細かく見分けてしまうことができるわけで。その辺の情報取り込み方の違いは興味深い。そこには情動が関わっているような気がする。興味の対象にどこまで注意を払うと自分が満足できるのか、安心できるのか、という差異が大きく影響しているようだ。