対話練習帳

私的情報収集、自習ブログ

価値がありそうでありながら、なぜか違和感を覚えたので

2008-02-06 16:15:39 | 感想
勉強せずに英語を身につける方法
価値がありそうでありながら、なぜか違和感を覚えたので、読解力もしくは論理的思考のよき教材として活用させて頂きます。
私が自分に課した問いは以下の二点。

1.主題はどこにあるか?

2.

「英語を翻訳するバイトを雇う理由がわからん」というツッコミです。
「英語を翻訳させるのではなく自分で読めばいい」という意味のツッコミもありました。

から

「なぜ自分で英語を勉強しないのか?」

に至るまでのロジックとは?

以下、自分なりに整理(意訳)する。

学生時代から仕事を始めた当初、ずっと英語でコミュニケーションを取る必要に迫られていた。
結果、ネイティブスピーカーに英語が上手いと認められるほどになった。
それは文法や理解力の問題ではなく、躊躇いがないという点が評価されてのことだった。
それは常にいわゆるガイジンと触れていなければならない環境にいて、抵抗がなかったからであろう。

英語の国であるアメリカで英語が話せない人間でも仕事を得ることはできる。
(つまり、英語の能力とは、最終的にコミュニケーションが取れるか否かということに集約される)

英語でスピーチをすることになった時には、大勢の聴衆を集め彼らに分り易いスピーチだったと評価された。
このスピーチが成功した理由は、充分な準備と練習をしたからである。
具体的には、原稿を日本語で書き、それを在米経験の長い(英語に堪能である)部下に翻訳してもらい、さらにその正しい読み方の音声ファイルを作成してもらい、それを繰り返しシャドーイングするというものだった。
このスピーチの成功がきっかけで、さらにハードルの高い場で講演する機会を得た。
その講演では、聞き取り辛い不明瞭なスピーチもあったが、あまり問題にはなっていなかった。
つまり、英語力とはその程度のもの。
(つまり、言語として正しいか否かではなく、伝える内容に価値があるか否かがより重要である)

英語圏での仕事のオファーがあったが、うまくやれそうな(英語でのコミュニケーションには困らないだろう?)気がした。実際にうまくやってきた。
同僚のアメリカ人達とは今でもメールでやり取りをしているのが証拠。
独立したとき、彼らが最初に仕事をくれたこともそれを証明している。
海外からくるメールは難しくはない。それはこちらがネイティブではないと分かって加減してくれているからだろう。
(つまり、自分は既に自らのビジネスに必要な英語力は保持している)
もしくは
(必要であれば、相手がこちらの英語力に合わせてくれるので、自分はこれ以上の英語力を必要としない)

英語は慣れれば誰にでも読む(翻訳する)ことができる。勉強するまでもなく。
それでも、母語でない英語を読むのは日本語を読むよりも時間を消費する。

英会話は現地に行けば誰にでも出来るようになる。新入社員でも(誰でも)いきなり現地に行っても通用する英語力は既に持っている。
それでも、英語の情報源の中から大事な情報を見つけ出すのには苦労する。日本語ではそのような苦労を感じない。
母語以外の言葉で抵抗無く情報を見つけ出せるようになるには、さらに多くの時間が必要。

英語が出来るか否かはそもそもビジネス(やキャリア)に於いて成功の条件ではない。
なので成功の為に英語で情報収集する能力を自ら身に付けるよりも、(育成した)専門の人間に任せた方がコストが低い。
(従って、自分のスタッフにとっても(自発的でない)英語学習は時間の無駄である)

同一言語を使っている人間が多い方が集合地の世界では有利。つまり、英語>日本語。
しかし自分は日本人であり、日本語を使用せざるを得ない。

シリコンバレーよりも東京の方が優秀な人材を集めることができる。
なぜなら人口密度が高いから。あるいは、単純に、人口が多いから。
アメリカでは優秀な人材が全国に分散してしまうが、日本では首都圏に集中している。
すなわち東京は「知性密度」が高い。
この環境を有効に利用するためには、それぞれの専門分野を優先的に、社員の能力を伸ばす方がビジネスとしてのメリットが大きい。
(日本人である自分が東京でビジネスをしているという状況に於いて、英語をわざわざ自分で読むよりも、専門のスタッフを置く方が得である)

また、必要に迫られれば、英語力は自然と身に付くものである。
(だから、スタッフ育成の観点でも、英語学習を押し付ける必要はない)

どんなに日本語が堪能なアメリカ人でも完璧ではない。
日本人の英語もどれだけ努力しても完璧にネイティブのものと同じにはならない。
「日本人であることを止めることは出来ないのです」
母語であっても完璧に扱えるとは限らない。
母語でも教育されて磨きあげられなければ不十分なものとなる。
ましてや英語圏向けの製品の説明書など(英語を商品として成立させること)はとてつもなく難しいこと。
そのレベルに達したいのであれば、大変な覚悟が必要。外国人と結婚するくらい(=人生を正しい英語の鍛錬につぎ込むくらいの覚悟?)
(英語力の向上とは、それくらい非常に手間と労力と時間のかかるものである)
(現時点で、費用対効果において、英語を自ら読むこと英語学習を社員に課すことの必要性が認められない)

(英語での情報収集と翻訳のための)バイトの採用基準は、辞書を用いた長文読解ができること。正社員に於いても同様。
長文読解が出来る人は、おそるおそる書く人。正しく読み解けない人というのは、自信満々な人。
英語での長文読解の能力は日本語の読解力も反映する。
(すなわち、英語ではなく、言葉、文章を読み解く力がビジネスでは必要とされる。その能力は英語を勉強しても培われない)
(だから英語よりも先に勉強すべきこと(身につけるべき能力)がある)

それでも英語力を鍛えたいのであれば、興味ある分野に特化するか、誰でも興味を持てるようなゲームやSBMなどを教材として翻訳してみること。
字幕無しで映画をみて台詞を真似て実際に発声してみること。子供が言語を習得するプロセスと同じである。
(つまり、特別な英語の勉強法というものはない、敢えて学習する必要もない)

読み解いてみて、文章の主格がどうやら「自分自身(の能力)」と「(自分の会社に必要な)社員、もしくは(自分のビジネスに必要な能力を持つ)人材」の少なくとも二つ、入り交じっていることに気付いた。このことが、複数の主題が同等に入り交じっている印象を与えます。自分が読み取った主題は三つ。
「英語をわざわざ自分が読む必要はない」
「英語をわざわざ勉強する必要はない」
「英語をわざわざ勉強させる必要はない」

そして、「なぜ英語を自分で読まないのか」に対して「なぜ英語を自分で勉強しないのか」と応じる間の繋がりは、
「(あなたは英語が読めるはずなのに)なぜ読まないのか」
「今自分が求める英語の情報は自分の英語力を超えているから」
「ならば勉強して能力を上げれば良いのではないか」
という流れを汲み取ってのことであると理解しました。
そして、これだけのことをいちいちここまで書き出さないと気付けない自分の読解力の低さに愕然とする始末。

以上を読み解いて湧いてきた疑問。
「情報収集という目的に特化した英語翻訳専門の部隊」を育成するコストはいかほどなのだろうということと、それがバイトである場合、そのシステムの維持はどのように行われるのだろうということ。
能力は独り占めするよりも、そこにいる人材に適度に分散された方がリスクが低いことは想像できるが、人が入れ替わる時に受け継ぐことが難しいスキルはどのようにコストとして勘定されるのだろうということ。
特に専門的な分野の英語に関しては、その分野に精通している人間、つまり開発の現場の人が学んだ方が個々人のスキルアップにも繋がり、より効率的であるように思われるのですが、それでも敢えてそれを外から取り寄せ、開発の研究を優先させる方が良いものなのでしょうかということです。
ひょっとして、その辺は、短期的中期的長期的な戦略で違ってくるものなのでしょうか。
(追記)
あ、そうか。違和感を覚えたのは、必要に迫られれば自然と身に付くということは、暗に、必要に迫られなければ身に付かないことを示唆していて、それなのになぜ英語にさらに慣れていく機会を活用しないのはなぜか、という部分だ。
それと、理論に裏付けされている学習教材とその効果について、実際、私が体験的に知っていることが、結びの部分で示された学習法に不完全さを感じとってしまうことも違和感の源かもしれない。