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子供の頃、科学者になりたいと思っていた。

2013-12-30 12:10:01 | Weblog
人生は、必ず「やりかけ」で終わってしまうものだから。 - いつか電池がきれるまで
共感した。

子供の頃、科学者になりたいと思っていた。それがどういうことかはよくわからなかった。それでも漠然と科学者になって研究をしている人になりたかった。今、研究者として十余年、不惑を迎えようとしている。小学生の頃の夢は、研究を仕事にできたことで叶った。もし今この瞬間に人生が終わったとしても、幸せな人生だ。

職業に関して、確かに夢は叶った。けれど、後悔ややり残しがないかといえば、そんなことはない。取り返せない失敗とやりかけの仕事にまみれてる。確かに自分は研究に携わっている。広い意味でやりたいことを職業にできている。でも二つの意味でまだ夢の途中でもある。

一つは、研究者としていまだに独立できていないこと。プロジェクトを自分で立ち上げ、予算を獲得し、成果をきちんと世に出す。これが出来てようやく一人前の研究者。プロフェッサーと呼ばれたり主任研究員と呼ばれたりする肩書きで仕事ができるようになって、ようやく研究者なのだと考えている。

もう一つは、自分が本当に興味を持って進めたい研究にまだ取り組めていないこと。研究を生業にするには、自己満足じゃない世の中に還元できる成果をあげる必要がある。だから、人の健康や病気の理解に役立つ発見をすることが目下の研究テーマになっている。新しい治療法や診断法の開発に役立つよう考えて仕事を組み立てる。それはそれで大変意義深くてやりがいのある仕事だ。でも振り返れば、自分がこの道を選んだ理由は、命とはなにかという疑問に答えるためだった。自分が本当に知りたいのは、「生きる」とはどういうことか。生命を維持する複雑で繊細な仕組みを理解したい。そして自分なりに命の定義を見出したい。それは生物学のテーマの中でもさらに根源的なテーマだ。そのままの形では世の中の役に立たない、利用できないから仕事として評価されない。そこに飛び抜けた発想や技術が伴って、ようやくそういった仕事を手がけることが認められる。それだけの優れた能力や発想が今の自分には到底足りない。

子供の頃、漠然と描いていた科学者になるという夢は、近づいてみるほど、もっと細かく、もっとレベル高く、いくらでも突き詰めていくことができるものだった。どれだけ階段を上ってもまだ先がある。ある意味で、自分の夢は叶った。けれど、そうするとまたその先にたどり着くべき姿が見えてくる。昔見た夢の場所、たどり着いてみればそこはいつだって夢の入り口。どこまでいっても半人前で、本当にやりたいことにまだ手が届かない。やりかけの人生、課題が沢山ありすぎて、もし寿命を全うできるとしてもきっと片付かないだろう。だけど、それもまた幸せな人生だと思う。