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医学は科学ではない

2008-11-23 23:32:27 | 考え中
(inspired by Kousyoublog | 現代日本人はなぜ「死という病」から逃れられないのか)

元来、医学は科学ではない。親和性が高いので一緒くたに捉えられがちだが、医学的説明が科学的に公正であるか否かの判断には注意が必要である。

医学において「死」は最も忌避すべき病である。したがって、死をいかに遠ざけるかという方向を善とする前提がある。バイアスのない観察者として科学的な視点は不可欠だが、それでいて研究者は単なる観察者ではいられないジレンマを抱える。人命救助という倫理が現象の客観的説明よりも優先されるからである。時に、重要視されるのは過程ではなく結果となる。より確からしければ、十分な証拠のない仮説でも受理される。仮説の証明や検証は最優先事項にはならない。それを行うのは科学であって医学ではない。重要なのは、それで人命を救えるか否かなのである。医学とて科学的手法をどんどん取り入れて、見た目はますます科学に近づいているが、目指すところは科学とは異なる。そもそも科学には目指すところなどない。ただそうあるべくしてその現象が存在することを共有しうる知識として記述する一連の行為にすぎない。科学に誠実にあろうとするならば、死を含む全ての病は生理現象の一つの工程として等しく扱われるべきである。ましてや一個体の死に特別の意味を与えるべきではない。善悪や正誤が評価の基準であってはならない。ところが、科学でない学問はみなそれぞれ固有の目的を有している。そこで、評価に善悪や正誤を与える規準が前提として入り込む。そして、そこに思惑の付け入る隙が生じる。

人は利益を求める。だから社会はあらゆる行為に目的を要求する。知識とて例外ではなく。社会生活に、我々の環境に、知識を還元しようとするならば、そこには目的が介在する、思惑が生じる。人間の能力は限られていて、個人で扱える知識の範囲などたかが知れている。ならば、個人で取り扱われる知識を分担せざるを得ない。それは、誰もが欠けた部分を保持することを意味する。欠けた知識を補いたいという要求が生まれる。そこで科学の範疇を超えた判断基準が持ち込まれるのである。権威として、パフォーマンスとして、技術として、姿を変えて科学が評価される。そしてそのトランスフォームさせるための圧力を意図的である無しに関わらず、恣意的に捻じ曲げる者がいるとき、科学の名を借りた、科学でないものが姿を現すのである。

(追記)
意識していなかったのだけど、どうもこちら「疑似科学批判者がしてはならないこと」 - 地下生活者の手遊びにまつわる一連の記事に影響を受けていたような気がする。やっぱり下地のある人はまとめ方が綺麗で丁寧に考えられていることが伝わるものだなあ。

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