旦地区の窯業の歴史は古く天保末年
(1840年)陶工甚吉が登り窯を
開いたのが製陶業繁栄に繋がった
窯業が盛んな頃旦地区一体は皿山と
呼ばれていた
この窯も繁栄の一端を担ったわけで
一部しか残っていないので登り窯の
全容を知ることができないが雰囲気
は充分伝わってくる
(1840年)陶工甚吉が登り窯を
開いたのが製陶業繁栄に繋がった
窯業が盛んな頃旦地区一体は皿山と
呼ばれていた
この窯も繁栄の一端を担ったわけで
一部しか残っていないので登り窯の
全容を知ることができないが雰囲気
は充分伝わってくる
木々を焚くのでしょうね・・・
こうして硫酸瓶を 作っていたのですね
何事も 手間暇がかかりますね!
皿山の本ができて初めて昔のことを知ったようなわけです。
萩焼などの窯元は燃料に赤松の木をよく使いますが
果たしてこの窯もそうだったかどうかはわかりません。
中学校へ通うとき学校の近くの上り窯で
薪を器用に投げ込む職人芸をよく見かけました。
昔は日用雑器なども作っていかもしれません。
子供のころ小野田橋の近くに船田溜りがあって
硫酸瓶を積み込む様子を見たことがあります。
今は皿山という言葉を聞くことはありませんが
昔は「皿山で仕事をしている・・・」などよく
聞いたことがあります。
立派な窯で廃窯にしておくのは
なんだかもったいない気になりますね
今日も素晴しい五月晴れです。
この辺りを整備して保存をしようとする
動きがあり大変良いことだと思っています。