背番号の話、今回は「10」についてです。
背番号のなかで最多となる3チームで永久欠番になっているのが「10」。
一人目は“初代ミスター・タイガース”藤村富美男。
投打の「二刀流」として活躍し、投手として34勝11敗、防御率2.35。
打者として打率.300(5648打数1694安打)、224本塁打、1126打点を記録。
首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回と打撃タイトルを獲得、
MVPに1回、ベストナインに6回輝く名選手。
阪神の歴史上、背番号「10」は藤村だけが背負っており、
1つの背番号が1選手だけでチームの永久欠番となっているのも唯一。
なお、入団時にイロハ順で背番号を割り振り、10番目だったため「10」を着用。
“物干し竿”と呼ばれた長尺バットを巧みに操り、
本塁打を放てば客席に向かって帽子を取って振りながらスキップでベースを回り、
三振すればオーバーに尻餅をついてみせ、
躍動感にあふれた三塁守備では、猛烈なゴロを素手で捕っての送球は名物だったそうで。
二人目は中日の服部受弘。
投手として112勝65敗、防御率2.81、
野手として打率.239(1867打数447安打)、33本塁打、208打点の成績で1941年には本塁打王を獲得。
永久欠番のエピソードとして、“フォークボールの神様”杉下茂が
「西沢道夫とともに、引退させるために永久欠番」という内幕があったとコメント。
そして楽天では「(ナインに続く)10番目の選手」という意味で、ファンの背番号として永久欠番としています。
永久欠番とはなっていませんが、3チームで「10」を背負い続けたのが張本勲。
23年で積み重ねた通算3085安打はプロ野球記録。
そして、通算成績で打率3割、300本塁打、300盗塁の“トリプルスリー”を達成。
張本は1959年に東映へ入団し「10」を背負う。1年目から115安打を放って新人王。
“駒沢の暴れん坊”と呼ばれた東映の中軸として活躍し61年に159安打、打率.336で初の首位打者に。
翌62年には初の全試合出場でチームの初優勝、日本一に貢献してMVPに。
首位打者は四年連続を含む通算7度。
70年には打率.383をマーク、シーズン打率でプロ野球の頂点に立ち、72年には通算2000安打にも到達。
一方、チームは73年に日拓、翌74年には日本ハムに。その年が張本にとって最後の首位打者。
チームは東映カラーの払拭を図り、かつての“暴れん坊”たちを次々に放出。
主軸の張本も例外ではなく、75年オフに巨人へと移籍する。
新天地で「10」を背負い続けた張本の加入で巨人打線は息を吹き返し、
親友でもある王貞治との“OH砲”は猛威を振るう。
移籍1年目は自身三度目の全試合出場、中日・谷沢健一と激しく首位打者を争い、
1毛差でタイトルは逃すものの、打率.355と真価を発揮。
チームも前年最下位から一気にリーグ優勝へと駆け上がり、翌年もリーグ連覇。
再び僅差で首位打者を逃すも、打率.348と貢献した。
しかし、故障もあって79年は77試合の出場に終わると、
通算3000安打まで残り39安打に迫っていたにも関わらずロッテへ放出される。
3球団目のロッテでも「10」を着け、前人未到の3000安打を達成したものの、
その「10」が永久欠番になることはなかった。
張本以外にも「10」には左の好打者が多い傾向であり、
阪急黄金時代に活躍した加藤秀司、巨人と横浜で「10」を背負った“満塁男”駒田徳広、
広島で「10」を着けていた金本知憲らも通算2000安打を達成した左打者。
なお、金本は広島時代、背番号「10」でトリプルスリーを達成しています。
巨人・阿部慎之助も名球会の仲間入りを果たしていますが、捕手が多いのも「10」の特徴。
西武では高木大成も入団時は捕手、現役の森友哉も捕手で、ともに左打者。
横浜も捕手が多く、現役の戸柱恭孝も左打者。日本ハムの清水優心も捕手。
個人的には西武ライオンズ日本一時に田淵とクリーンナップを組んだ、
三番サードのスイッチヒッター、スティーブ・オンティベロスでしょうか。
MLBではユニークな二人が永久欠番になっています。
一人はNYヤンキースのフィル・リズート。
現役時代は1661試合に出場し、打率.273(5816打数1588安打)、38本塁打、563打点。
その後、約40年間にわたってヤンキース戦の中継で解説・アナウンサーを担当し、多くの名実況を生み出し、
1985年には背番号「10」が永久欠番となりました。
また1970年代に「ビッグレッドマシン」と呼ばれた強力打線で一世を風靡したシンシナティ・レッズを率いた
スパーキー・アンダーソン監督も背番号「10」。1970年に監督就任すると、リーグ優勝を達成し、
その後1978年までの9年間で二度のワールドシリーズ優勝など輝かしい成績を誇った名将です。
SSSBではメガネの司令塔・ソーネさんが背負っています。
捕手のイメージ? 監督のイメージ? 主将のイメージ?
サッカーではファンタジスタや司令塔、ラグビーでも司令塔のスタンドオフですもんね。
すべてを兼ね備えているようですね。
参考記事
【背番号物語2019】
【背番号物語】張本勲「#10」
【背番号物語】阪神「#10」
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背番号のなかで最多となる3チームで永久欠番になっているのが「10」。
一人目は“初代ミスター・タイガース”藤村富美男。
投打の「二刀流」として活躍し、投手として34勝11敗、防御率2.35。
打者として打率.300(5648打数1694安打)、224本塁打、1126打点を記録。
首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回と打撃タイトルを獲得、
MVPに1回、ベストナインに6回輝く名選手。
阪神の歴史上、背番号「10」は藤村だけが背負っており、
1つの背番号が1選手だけでチームの永久欠番となっているのも唯一。
なお、入団時にイロハ順で背番号を割り振り、10番目だったため「10」を着用。
“物干し竿”と呼ばれた長尺バットを巧みに操り、
本塁打を放てば客席に向かって帽子を取って振りながらスキップでベースを回り、
三振すればオーバーに尻餅をついてみせ、
躍動感にあふれた三塁守備では、猛烈なゴロを素手で捕っての送球は名物だったそうで。
二人目は中日の服部受弘。
投手として112勝65敗、防御率2.81、
野手として打率.239(1867打数447安打)、33本塁打、208打点の成績で1941年には本塁打王を獲得。
永久欠番のエピソードとして、“フォークボールの神様”杉下茂が
「西沢道夫とともに、引退させるために永久欠番」という内幕があったとコメント。
そして楽天では「(ナインに続く)10番目の選手」という意味で、ファンの背番号として永久欠番としています。
永久欠番とはなっていませんが、3チームで「10」を背負い続けたのが張本勲。
23年で積み重ねた通算3085安打はプロ野球記録。
そして、通算成績で打率3割、300本塁打、300盗塁の“トリプルスリー”を達成。
張本は1959年に東映へ入団し「10」を背負う。1年目から115安打を放って新人王。
“駒沢の暴れん坊”と呼ばれた東映の中軸として活躍し61年に159安打、打率.336で初の首位打者に。
翌62年には初の全試合出場でチームの初優勝、日本一に貢献してMVPに。
首位打者は四年連続を含む通算7度。
70年には打率.383をマーク、シーズン打率でプロ野球の頂点に立ち、72年には通算2000安打にも到達。
一方、チームは73年に日拓、翌74年には日本ハムに。その年が張本にとって最後の首位打者。
チームは東映カラーの払拭を図り、かつての“暴れん坊”たちを次々に放出。
主軸の張本も例外ではなく、75年オフに巨人へと移籍する。
新天地で「10」を背負い続けた張本の加入で巨人打線は息を吹き返し、
親友でもある王貞治との“OH砲”は猛威を振るう。
移籍1年目は自身三度目の全試合出場、中日・谷沢健一と激しく首位打者を争い、
1毛差でタイトルは逃すものの、打率.355と真価を発揮。
チームも前年最下位から一気にリーグ優勝へと駆け上がり、翌年もリーグ連覇。
再び僅差で首位打者を逃すも、打率.348と貢献した。
しかし、故障もあって79年は77試合の出場に終わると、
通算3000安打まで残り39安打に迫っていたにも関わらずロッテへ放出される。
3球団目のロッテでも「10」を着け、前人未到の3000安打を達成したものの、
その「10」が永久欠番になることはなかった。
張本以外にも「10」には左の好打者が多い傾向であり、
阪急黄金時代に活躍した加藤秀司、巨人と横浜で「10」を背負った“満塁男”駒田徳広、
広島で「10」を着けていた金本知憲らも通算2000安打を達成した左打者。
なお、金本は広島時代、背番号「10」でトリプルスリーを達成しています。
巨人・阿部慎之助も名球会の仲間入りを果たしていますが、捕手が多いのも「10」の特徴。
西武では高木大成も入団時は捕手、現役の森友哉も捕手で、ともに左打者。
横浜も捕手が多く、現役の戸柱恭孝も左打者。日本ハムの清水優心も捕手。
個人的には西武ライオンズ日本一時に田淵とクリーンナップを組んだ、
三番サードのスイッチヒッター、スティーブ・オンティベロスでしょうか。
MLBではユニークな二人が永久欠番になっています。
一人はNYヤンキースのフィル・リズート。
現役時代は1661試合に出場し、打率.273(5816打数1588安打)、38本塁打、563打点。
その後、約40年間にわたってヤンキース戦の中継で解説・アナウンサーを担当し、多くの名実況を生み出し、
1985年には背番号「10」が永久欠番となりました。
また1970年代に「ビッグレッドマシン」と呼ばれた強力打線で一世を風靡したシンシナティ・レッズを率いた
スパーキー・アンダーソン監督も背番号「10」。1970年に監督就任すると、リーグ優勝を達成し、
その後1978年までの9年間で二度のワールドシリーズ優勝など輝かしい成績を誇った名将です。
SSSBではメガネの司令塔・ソーネさんが背負っています。
捕手のイメージ? 監督のイメージ? 主将のイメージ?
サッカーではファンタジスタや司令塔、ラグビーでも司令塔のスタンドオフですもんね。
すべてを兼ね備えているようですね。
参考記事
【背番号物語2019】
【背番号物語】張本勲「#10」
【背番号物語】阪神「#10」
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