intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

パ○ウェーブ!

2009-06-28 | music
ZAZEN BOYS TOUR MATSURI SESSION
(於 日比谷野外大音楽堂)


1. Ichiro's Dream
2. Idiot Funk
3. Honnoji
4. Weekend
5. Himitsu Girl's Top Secret
6. Daruma
7. Tanuki
8. Maboroshi in my blood
9. Ikasama Love
10. 安眠棒
11. You make me feel so bad
12. Asobi
13. Matsuri Free Session
14. Kimochi
15. Cold Beat
16. Friday Night
17. Riff Man
<Enc.>
1. The Drifting / I Don't Wanna Be With You
2. Sabaku


既視感溢れるライブだった。悪い意味で。

とにかく新鮮味がない。4thの曲を生で見るのは初めてだったが、四人が密着してのパフォーマンスが傑作なM2を除けば、ひとつも驚きがない。M13の即興セッションもうなるほどではなかった。ベストをあえて挙げるなら、四つ打ち導入でダンス感の増したM10か、鉄板のM15かなあ。あとは売れ線ばっかりだし、選曲に関しては意外性ゼロである(この年はYURETA~とかやってるのに!)。

他方、野音のオーディエンスは大人でよい。雨降りしきる中での野音は初めてだと向井も言っていたが、当然濡れるし、演奏中に席を立つ人も多いので気を取られる。しかも、これがライブハウスだとオイ!オイ!となってしまうのでゲローとなる(M17とか)。その点、お客はみな雨にも負けずいいテンションを保っていた。

雨にテンションを奪われていたのは、むしろザゼンのほうだ。いつから一曲終わるごとにお辞儀をするようになったのか。やけに丁寧で、緊張感と鋭角性が減ずる。第三期となる現メンバーのアンサンブルには文句のつけようがないが、逆にどこにもスキがない感じがしてつまらない。向井の世界観を忠実に再現するには最高のメンツになったが、向井にはない要素を付加するような可能性は、現時点ではほとんどない。葛藤が見えないのである。

聴きやすいし、四つ打ちで踊りやすい。けど、このままじゃあいかんでしょう。私見では、プリンスにザゼン次回作のヒントがある。そう、ポップへの回帰だ。

 


【まとめ:もっとマイナーな曲を聴かせてほしかったです】



備忘

2009-06-24 | ライフサイクル
5月某日から6/24までの購入図書。金欠のため古書多し。



●文庫
桐野夏生『OUT(上・下)』講談社文庫、2002
高橋弥七郎/いとうのいぢ絵『灼眼のシャナ』電撃文庫、2002
北海道新聞取材班『追跡・夕張問題』講談社文庫、2009
本田靖春『誘拐』ちくま文庫、2005

●新書
臼井幸彦『映画の中で出逢う「駅」』集英社新書、2006
岡並木『都市と交通』岩波新書(黄版)、1981
原武史『松本清張の「遺言」』文春新書、2009
御厨貴『オーラル・ヒストリー』中公新書、2002

●雑誌・ムック・楽譜
Journalism 6月号(特集:出版サバイバル)』朝日新聞出版、2009
東浩紀・北田暁大『思想地図 vol.3』NHKブックス別巻、2009
佐藤優編著『現代プレミア ノンフィクションと教養』講談社MOOK、2009
『NHK知る楽 [月]探究この世界(鉄道から見える日本)』日本放送出版協会、2009
ケイエムピー編集部『Guitar songbook 玉置浩二 ベスト曲集』kmp、2006

●マンガ
あずまきよひこ『あずまんが大王 1年生』小学館、2009
あらゐけいいち『日常(4)』角川コミックス・エース、2009
ヒロユキ『マンガ家さんとアシスタントさんと(1)』スクウェア・エニックス(ヤングガンガンコミックス)、2008

●単行本
絲山秋子『沖で待つ』文藝春秋、2006
犬養道子『男対女』中央公論社、1975
江藤淳『妻と私』文藝春秋、1999
W・J・オング『声の文化と文字の文化』桜井直文他訳、藤原書店、1991
木内勝『工作図鑑 作って遊ぼう!伝承・創作おもちゃ』福音館書店、1988
谷崎潤一郎『痴人の愛』新潮文庫、1947[2003、116刷改版]
スージー・J・タネンバウム『地下鉄のミュージシャン』宮入恭平訳、朝日新聞出版、2008
土門秀明『地下鉄のギタリスト』水曜社、2006
渡邊十絲子『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』ポプラ社、2007
 


講談社文庫の道新取材班シリーズは毎度面白い。グローバル(リーマン・ショック)→国内政府(総務省)→都道府県(北海道庁)→市区町村(夕張市)→地域住民と、異なる階層を行き来しながら問題の真相が描かれていくのがスリリング。市民レベルの視点の豊さは地方紙ならではの魅力だ。


『痴人の愛』は初読。読書をはじめて日が経っていないことがよくわかりますね。借りて読んだけど買い直したケース(オング、渡邊)もあるが。そういえば最近、とある信頼できる筋から「キミは高校生のような文章を書くね」とのお言葉をいただきました。よく言えば初々しい、悪く言えば背伸びしすぎで熟しきっていない、ということ。ぷげら~。


犬養、江藤の両著はジャケ買い。前者は二種類の木綿?生地を対置して男と女を表現。「男」の藍染めがいいのだよ。後者は装幀のサイズに一目惚れ。四六版だけどヨコが少しだけ短いのだ(育ちのよい新書版みたいになる)。ただし、従来の新書版よりヨコを長くして目立たせるという、装幀に工夫の施しにくい他の新書との差別化をはかるためのアイディアを、先月創刊のハヤカワ新書juiceに先取りされてションボリしたのは今日まで秘密でした。


支援

2009-06-24 | ライフサイクル
2つほどご紹介。


PLEGLICO/出れんの!?サマソニ!?(e-meets.jp)
ドラムのケーニッヒ氏とは長い付き合いです。ひねくれポップの真骨頂、プレグリコに清き一票を。


パヤパヤ☆シャララ/大人が聞くべき「初音ミク」最強20曲(ASCII.jp)
ネットDTM界のプリンス、やよいちゃんによるアレンジ曲がノミネートされています(ここ)。鉄風Pさんの原曲ver.の荒削りな感じも大変よいです。





男性ボーカルソロ活動の系譜

2009-06-20 | music
“明星”(2009.06.03発売)


“田園”(1996.07.21発売)


(参考“田園”at六本木


この二曲を並べて、日本の音楽シーンにおけるメジャーなロックバンド出身の男性ボーカリスト――奥田民生や田島貴男などとは異なる流れというか、世間で「芸能人」としてのイメージが先行しがちなミュージシャン――が、ソロ活動を行うことの意義(長え)を考えた。このPVを見るかぎりでは、漢字二字のタイトル、応援歌的な歌詞などの共通点よりはむしろ、セットスタジオでひとりで歌う扮装者・玉置の内向性と、ロケ先でみんなと声をあげるペプシの広告塔・トータスの外向性という、両者の趣きの違いのほうが強く印象付けられる。ゼロ年代も最後の年になって、こういうポジションの後継者がようやく出てきた、と思いたいところだが、そんなにうまくはいかないようだ。


【意訳:この二曲、なんか似てるよね。好きなんだぜ】


楽器は弾くな、叩くんだ!

2009-06-18 | music
"Ginza"



偉大なるジャズドラマー、アート・ブレイキーが元ピアニストだった(らしい)という事実を知るにあたって、この持論になんとなくお墨付きをもらえた気がする。ベン・フォールズは間違いなくそうだし、エリック・サティなんかもそうだったんじゃないかな。ジャンルも時代もバラバラなんだけど、この三人の音楽に共通性があるとすれば、<ピアノを打楽器のように扱っている>。それこそ、自分が音楽そのものに惹かれる理由なのだろう。


もちろん、ピアノは弦楽器か打楽器か、みたいな話をしたところで意味はない。アコギなら(タッピングってやつだ)、マイケル・ヘッジス、ピエール・ベンスーザン、中川イサトおよびその門下生=押尾コータローなどがいるし、バイオリンだって、金属のマレットで叩けば「川」の字のような広がりをもつ音(説明不可)が鳴る。結局はそれを演奏する人間が、そしてそれを聴く人間が、おのおの感じとるしかない。でも少なくともぼくには、ここに挙げた演奏家たちは「叩いている」ように聴こえてくる。


さて、それでは文章は? 叩く文学とか叩くルポとか、あるんだろうか。バッシングじゃなくってね。


※ところで、叩くことと日本的なものにはどこか親和性があるように思われる。じじつ、アート・ブレイキーもベン・フォールズも知日派だし、邦楽の打楽器って多彩だし……まあ、日本人としての自意識を自分の音楽的嗜好にムリヤリ反映させている気もするけれど(今日は印象論や推量ばかりだなあ)。



MUSIC:Cafe/Art Blakey Quintet


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2009-06-09 | ライフサイクル
次の世代を担うニューヒーロー誕生。




世代論は基本的に嫌いである。なぜなら、その定義がいいかげんだからだ。とりあえず確認のためココから拝借すると、


・団塊の世代(1946~49年)
・団塊ジュニア(1971~74年)
・ポスト団塊ジュニア(1975年~)


以上の三つは広く共有されていると考える。加えて「ハナコ世代」「ばなな世代」、昨今では「ゆとり世代」などが挙げられよう。Hanakoも吉本ばななも読まない/知らない人間までがその世代にくくられてしまう…まあ、これだけでもかなりいいかげんだ。


しかし、もっとタチが悪いのは団塊ジュニア。うちの父親は1949年生まれの団塊世代だが、ジュニア(私)が生まれたのは35歳のとき(=1Q84)である。あれっ、ぼく、団塊ジュニアじゃないの…?


「団塊」は人口統計的な、「ゆとり」は教育政策的な根拠に(一応)もとづいて名付けられているが、大半の世代名はいいかげんに過ぎる。また「ゆとり」には蔑称としての用法もあり、こうした世代論は、右翼とか左翼のようなイデオロギーに根ざしたレッテル張り以上に悪質だ(思想・信条は選べても、生まれ年は選べない)。こういうネーミングにはマスメディアが少なからず絡んでくる。一介のブロガーとしても、こういう危険性には自覚的でいたいものだ。


「            」

2009-06-08 | ライフサイクル
たまには読者がタイトルをつけてもいいじゃないか週間。


6/6
読書がてらに駅そばの名店・弥生軒へ。下北沢から多摩急行で千代田線を経由し、常磐線で終点の我孫子まで。13時過ぎだが満員。一万円札の両替を頼むのもはばかられる。しかし味にぬかりなし。その後松戸まで折り返し、新京成に初乗車。噂通りのくねくね路線である(気が向いたら後日詳述)。

6/7
9:30起床、10分で外出。11時、渋谷イメージフォーラム。『キングコーン』を見る。コーンがわれわれの食生活にどれだけ浸透しているかを検証する、アメリカの典型的社会派ドキュメンタリーだ。

主演の大学生二人は「検証」のため、アイオワ州に自腹で畑を借り、プチコーン農場をつくる。育ったコーンはとうもろこしとしては食べることができない(ムチャクチャまずい)。全米中のコーン生産量の約七割は牛などの肥料や、シロップ・スターチといった甘味料の原料となり、最終的にはハンバーガーやソーダ(炭酸飲料水)として消費者の体の一部となっているのだ。

アメリカ国内における収入に占める食費の割合は、現在およそ16~7%。これは100年前の数字の約二分の一にあたるという。コーン農場の経営者たちはこうした数字をタテに、効率efficiencyや生産性productivityの向上といった文言で自分たちの農業、すなわち産業としての農業を肯定する。

しかしそれは、彼ら自身も認めるように、大量生産=低価格との引き換えに食物としての質の低下を招いている。牧草を一切口にせず、まともな運動もさせずに高濃度のとうもろこしを与えられ続けた牛たち。その肉のもつ栄養がどのようなものか、それを食べる人間がどのようになるのか――いまの平均的アメリカ人の体型を見れば、想像することは難しくない。

コーンを通して世界を見る。食物としてのコーン、肥料としてのコーン、甘味料としてのコーン。昨今では、バイオエタノールという天然資源としてのコーンも誕生している。映画を見ながらパクついていた歌舞伎揚げのパッケージにも、「コーン油」の文字。コーン、恐るべし。

鑑賞後に思ったのは、日本のスーパーやコンビニでも流行りのPB(プライベートブランド)のこと。製品の共同開発や包装の簡易化などによって低価格を実現したというが、本当にそうなのか。あるいはいつかタカがはずれて、商品そのものの質を下げる形でのコストダウンに走る日が来るのではないか。BSEの問題を例に出すまでもなく、日本人は食に敏感といわれる。しかし低価格というアメリカ的なわかりやすい価値観によって、こうした感覚も失われていくのではないか、とちょっと不安になった。



視点・論点「松本清張の「遺言」」

2009-06-04 | opinion
NHK「視点・論点」で佐藤卓己さんがテレビで喋っているの初めて見かけた(「輿論と世論の複眼的思考に向けて」5/26放送)と思ったら、その数日後に原先生も担当されていたらしい、という話を耳にする。検索をかけると5/29放送分だったことが判明。うーん、見たい。


そこで昨年12月に始まったNHKオンデマンドをのぞいてみると……あるではないか。10分番組で105円はやや高いと思いつつ、会員登録を済ませて視聴する。再三バッファ(イーモバイル・クオリティ)に泣かされながらも、元はとってやろうと二時間弱かけて書き起こしてみました。


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未完の大作
こんにちは、原武史です。

今年は国民作家といわれる松本清張の生誕100年にあたります。言うまでもなく清張は、『点と線』『砂の器』に代表される推理小説の書き手であるとともに、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』のような優れたノンフィクション作品も数多く残しています。

しかし、最後の作品となったのが、400字詰め原稿用紙で1700枚を費やしながら、死去のため未完におわった『神々の乱心』であったことはあまり知られていないように思われます。

『神々の乱心』は、小説でありながら、戦前の宮中で実際にあった動きを十分に踏まえています。いや、それだけではありません。戦後の宮中で実際にあった動きまでも踏まえている可能性があります。

清張が執筆していた当時には、そうした動きに注意を払っていたプロの学者や歴史家はほとんどいなかったにもかかわらず、戦前・戦後を一貫する宮中の世界を、あたかも目に浮かぶように、ありありと描いているのです。


小説家でありながら、ノンフィクションの手法を用いて昭和史や天皇制に迫った清張の仕事を、先駆的なものとして評価している。清張を国民作家たらしめたのは、小説のテーマに比してその文章の平易さにあると思うが、こうした読みやすい筆致についても評価されるべきだろう。


王権のありかを映す「鏡」
この小説が複雑なのは、さまざまな鏡が登場し、内行花文鏡とされた八咫鏡(やたのかがみ。三種の神器のひとつ)のほかに、多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と呼ばれる満州出土の凹面鏡が重要な役割を果たしているからです。ここには、邪馬台国をはじめとする清張の古代史研究の成果も活かされています。

月辰会の本部には「聖暦の間」と呼ばれる最も聖なる空間があり、そこでは、満州にいたときに教祖と駆け落ちし、月辰会で斎王代と呼ばれるようになった女性が、乩示(チシ)という神がかりの儀式を行います。凹面鏡はここに置かれているのです。

凹面鏡を設定したことで、王権におけるシャーマンや女性の問題がはっきりと捉えられています。皇位継承権を男子だけに定めた明治以降の皇室典範だけでは説明できない問題が、天皇制のなかにあることに、清張は気づいていたのではないでしょうか。

三段目の「問題」は、『昭和天皇』(岩波新書)で詳述されている。昭和天皇、秩父宮、貞明皇后の三角関係や、高谷朝子『宮中賢所物語』などをきっかけとした宮中祭祀における女官への注目から、現代の天皇制(特に女性天皇・女系天皇への皇位継承)の問題に迫る手法は、この清張の着眼点に啓発されたものと読める。


未完の「遺言」
わたくしは政治学者ですが、小説をよく読みます。それは、優れた小説の中に、学者には到底思いつくことのできない優れた着眼点が、たとえ法話的な形であるにせよ、認められることがあるからです。

しかし、その先駆けとなる小説を書いた作家こそ、松本清張であったことを忘れてはなりません。清張は『神々の乱心』という未完の大作を、いわば「遺言」として書きました。松本清張を単なる国民作家として見るのではなく、今なお解明されない天皇制の深層を見据えようとした、スケールの大きな思想家として見ることが必要だと思います。

松本清張の「遺言」は、今なお完全に読み解かれてはいないのです。


「法話的な形であるにせよ」という部分には賛否両論あるだろうが、この「遺言」を受け継ぐ最近の小説として、桐野夏生『女神記』、奥泉光『神器』を挙げている。たしかに、たとえば前者の場合、主題としてはこれまでの桐野ファン(『OUT』など)には馴染みにくい部分もあったと思われる。だが、清張と共通しているのはやはりその読みやすさだ。奥泉さんの小説はまだ読んだことがないので断言はしないが、同じことがあてはまるに違いない。



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【補記】
なお番組タイトルは今月発売の新著よりとられている様子(抜け目なし…)。