生魚も食べられない。ナマ臭いとか飲み込むのかがわからないなど理由をあげればキリはないが、これを言うとやはり「損だね」「日本人なのに」とか言われることが多い。まあ好き嫌いの話は誰も傷つけないのだから特に怒ったりはしないが、やはり寂しさはある。ちなみにすし屋に行って食べ(られ)るのは、玉子、かんぴょう巻、穴子(火が通っていればOK)、こんなものである。ちなみにガリも食べたことがないので食べれない。福神漬けも。
全国最大級のハンセン病療養所である多磨全生園を初めて訪れる。西武池袋線清瀬駅で降り、バスで10分。周囲は病院だらけで異様な空気感が周囲を覆っていた。西武バスが「次はハンセン病資料館」となっていたのは(それ以外に表しようもないのだが)包み隠さず曝け出す行政及び西武の姿勢と受け取られた。
園内では回復者の方の「語り部」を聞き、非常に心を揺さぶられる。戦後史に興味を持ち始めたのも最近だが、今まで自分の身寄りにも戦争の話を聞かされることがほとんどなかった(今のうちに話してもらわなければ、と僭越ながら思っているが)ので、こういった機会は貴重かつ強く希望していた。結果として、空襲の記憶はもちろんハンセン病という体験を身体で感じることができて光栄だ。近・現代史を特に戦後補償の面から考える上で空白・断絶の歴史を埋めていくには、口承による後世への伝達は不可欠だ。
隣接する高松宮記念ハンセン病資料館が2001年3月23日の熊本地裁判決に対する控訴断念の決断をした小泉首相の「より国民に深い理解を」の一言で拡張が決まり、現在休館中だった。工事は2007年2月まで続くので、その間の代替措置として療養所の生活を復元した仮展示があった。ビデオによる全生園の紹介ビデオもあったが、自主制作でしかも10年以上前に作られたもの。そのため資料面では物足りない部分が否めないが、新資料館の無事の完成を祈りたい。
しかし、である。
紹介ビデオ(「語り部」さん、または園内の人の話だったかもしれない)の紹介の中で、このような趣旨のくだりがあった。
「園内は(隔離を強制するらい予防法の廃止に前後して)一般解放され、朝の通勤・通学の時間帯には多くの人が園内の道路を日常的に利用しています。これも全生園が地域に理解され、受け入れられていることをよく示しています」
ここで我々は一歩立ち止まらなければならない。事実、東村山市は市を挙げてハンセン病に対する理解を進める教育を行っており、園の職員によると周辺の小・中学校から見学に来る生徒がひっきりなしなのだ、とも言っていた。おそらく親の立場にある近隣住民にも最低限の関心はあるだろうし、知識という面でも相対的に言って高い水準にあることは確かだろう。しかし僕が気になってしまうのは、住民が「道路を日常的に利用」していることは短絡的に「地域に理解され、受け入れられている」ことを意味するものではないように思うからである。
今はいい。高齢となり数も少なくなった患者さんがいる限り、訴訟によって勝ち得た補償は続けられなければならないのだから。だが、あと20年もすれば間違いなく全生園はその本来の役割を全うし、閉園する。資料館は戻っても、現代史の中でひっそりとしかし決して絶やすことのできない灯火として燃え続けたハンセン病の火は形の上では消える。もちろん記憶として、資料として、語り継ぐ責任が我らにはある。
とすると、地域住民でさえ「なぜこんな妙にでかい敷地に細い道路があるのだろう」「この無機質にならぶ団地はなんだろう」という意識になる。これなら疑問を持っている分まだまともかもしれないが、さらに悪くなればハンセン病療養所としての存在価値を無視した形で地域住民に「理解」され、「受け入れ」られてしまわないだろうか。つまり、人々の中からハンセン病というひとつの「意識」が無形化し、いわゆる無関心を生み出す。公用道路の話から、ふとこんな危惧を持ってしまう。
新しくなる資料館と、我々日本人の「無知」「思考停止」に対する関心の充実を、心から祈って止まない。
その後、韓国料理を喰らう。辛いのは苦手だが、サムゲタンがうまかった。名前がフレンドリーなので食えた感じだ。朝鮮人参が入っていて初めて食べたが、精はついたのだろうか。味はよくわからない。
全国最大級のハンセン病療養所である多磨全生園を初めて訪れる。西武池袋線清瀬駅で降り、バスで10分。周囲は病院だらけで異様な空気感が周囲を覆っていた。西武バスが「次はハンセン病資料館」となっていたのは(それ以外に表しようもないのだが)包み隠さず曝け出す行政及び西武の姿勢と受け取られた。
園内では回復者の方の「語り部」を聞き、非常に心を揺さぶられる。戦後史に興味を持ち始めたのも最近だが、今まで自分の身寄りにも戦争の話を聞かされることがほとんどなかった(今のうちに話してもらわなければ、と僭越ながら思っているが)ので、こういった機会は貴重かつ強く希望していた。結果として、空襲の記憶はもちろんハンセン病という体験を身体で感じることができて光栄だ。近・現代史を特に戦後補償の面から考える上で空白・断絶の歴史を埋めていくには、口承による後世への伝達は不可欠だ。
隣接する高松宮記念ハンセン病資料館が2001年3月23日の熊本地裁判決に対する控訴断念の決断をした小泉首相の「より国民に深い理解を」の一言で拡張が決まり、現在休館中だった。工事は2007年2月まで続くので、その間の代替措置として療養所の生活を復元した仮展示があった。ビデオによる全生園の紹介ビデオもあったが、自主制作でしかも10年以上前に作られたもの。そのため資料面では物足りない部分が否めないが、新資料館の無事の完成を祈りたい。
しかし、である。
紹介ビデオ(「語り部」さん、または園内の人の話だったかもしれない)の紹介の中で、このような趣旨のくだりがあった。
「園内は(隔離を強制するらい予防法の廃止に前後して)一般解放され、朝の通勤・通学の時間帯には多くの人が園内の道路を日常的に利用しています。これも全生園が地域に理解され、受け入れられていることをよく示しています」
ここで我々は一歩立ち止まらなければならない。事実、東村山市は市を挙げてハンセン病に対する理解を進める教育を行っており、園の職員によると周辺の小・中学校から見学に来る生徒がひっきりなしなのだ、とも言っていた。おそらく親の立場にある近隣住民にも最低限の関心はあるだろうし、知識という面でも相対的に言って高い水準にあることは確かだろう。しかし僕が気になってしまうのは、住民が「道路を日常的に利用」していることは短絡的に「地域に理解され、受け入れられている」ことを意味するものではないように思うからである。
今はいい。高齢となり数も少なくなった患者さんがいる限り、訴訟によって勝ち得た補償は続けられなければならないのだから。だが、あと20年もすれば間違いなく全生園はその本来の役割を全うし、閉園する。資料館は戻っても、現代史の中でひっそりとしかし決して絶やすことのできない灯火として燃え続けたハンセン病の火は形の上では消える。もちろん記憶として、資料として、語り継ぐ責任が我らにはある。
とすると、地域住民でさえ「なぜこんな妙にでかい敷地に細い道路があるのだろう」「この無機質にならぶ団地はなんだろう」という意識になる。これなら疑問を持っている分まだまともかもしれないが、さらに悪くなればハンセン病療養所としての存在価値を無視した形で地域住民に「理解」され、「受け入れ」られてしまわないだろうか。つまり、人々の中からハンセン病というひとつの「意識」が無形化し、いわゆる無関心を生み出す。公用道路の話から、ふとこんな危惧を持ってしまう。
新しくなる資料館と、我々日本人の「無知」「思考停止」に対する関心の充実を、心から祈って止まない。
その後、韓国料理を喰らう。辛いのは苦手だが、サムゲタンがうまかった。名前がフレンドリーなので食えた感じだ。朝鮮人参が入っていて初めて食べたが、精はついたのだろうか。味はよくわからない。