社会が悪いのか、自分が悪いのか。
自分にはできないというと「もっと努力しろ」と叱られる。努力したところで「どうしてそんなこともできないんだ」と返される。この板挟み状態を打開するためには、ASがいわば面従復背のような形で社会との関わりあいを維持するための方法=「ASだと悟られない」ための戦略を示すことが重要だ――これが、博士の方の意見であった。社会の側の変革に期待するのではなく、自分たちが適応するための術を身につけることに希望を見出そうというわけである。
就職活動になぞらえると、就活でうまくいく人・いかない人の違いは(面接時の)「コミュニケーション能力」の差にあるといわれるが、これに似た能力がASには欠如していることが多い。そこで重要なのは、あらゆるAS持ちの人に有効な「面接テクニック」を示すことだ――これが彼女のいう「適応戦略」のひとつといって差し支えないだろう。なお学術的にはゴフマンの演技(ドラマトゥルギー)やスティグマ論が参考になるとも言っていたが、このあたりはひとまず措く。
正論をいえば、どっちも変わらなければならないのだろう。社会とAS、両者が歩み寄ることを抜きにして、真の解決はありえない。もちろんこの博士の方のように、AS患者の立場に寄り添えば寄り添うほど、後者(社会の変化よりAS患者の適応を目指す)のアプローチを取るのも無理はないし、スタートとしては現実的な一歩といえる。
そこを理解したうえで、私なりの解決策として浮かぶのが「在日留学生」という制度である。一言でいえばこうだ。AS患者は「空気が読めない」。その読み方を習うためのテクストとして過去の日本人論を採用しようと、いうのである。いってみれば、AS向けに最適化された新しいテクストを作ること
もちろん、日本人ないし日本社会だけに有効な指針を作っても意味はないし、社会的差別を文化的要因のみに落とし込むような粗雑な議論に、学術的な価値があるとは到底いえまい。ただ現実問題として、日本社会にある(とされる)「空気」や「世間」に近いものは、程度の差こそあれ、あらゆる文化圏においても確認されるものではないか。
現に中島の学生だったインド人のK君は、「寒いので温度をあげてほしい」という意志を非言語的な動作(両腕をさする)によって表明している。文脈から見るかぎり、無意識に、「日本にいる」という感覚の外で起きた動作である。繰り返すように、こうした例はどの社会にでもある。日本の伝統的な人間関係の型といわれる「世間」「空気」には、あらゆる人間関係のありかたに関する重要な示唆がある。ASの支援を考えるとき、その適応戦略を文書化してまとめるときの先行研究としてこれらの概念を扱うことは、学術的にも決して間違いでないように思う。
もうひとつ重要なことは、適応するさいの心構えにある。中島と留学生との対話には「笑い」がある。日本文化に対する皮肉にも似た感情だ。ここに「自分をも笑える」滑稽さが加わるとき、アスペルガーは――陳腐な言い方をすれば――病気から個性へ、さらには文学へと昇華されるだろう。ハンセン病だって精神病だって、その悩みは文学となっている(漱石や太宰の後期作品を、松本清張『砂の器』を見よ)。AS患者の悩みが文学表現となるとき、アスペルガーはもはや公認されにくいマイノリティでも公認されたマイノリティでもない、ひとつの文学として成立するのだ。
日本にいるAS患者を在日留学生と呼ぶ理由はここにある。AS患者の方がこの拙文を読んでくれたとしたら、中島義道の前掲書を読むことからでも始めてみてはどうだろうか――社会という名の学校生活を。<おわり>
自分にはできないというと「もっと努力しろ」と叱られる。努力したところで「どうしてそんなこともできないんだ」と返される。この板挟み状態を打開するためには、ASがいわば面従復背のような形で社会との関わりあいを維持するための方法=「ASだと悟られない」ための戦略を示すことが重要だ――これが、博士の方の意見であった。社会の側の変革に期待するのではなく、自分たちが適応するための術を身につけることに希望を見出そうというわけである。
就職活動になぞらえると、就活でうまくいく人・いかない人の違いは(面接時の)「コミュニケーション能力」の差にあるといわれるが、これに似た能力がASには欠如していることが多い。そこで重要なのは、あらゆるAS持ちの人に有効な「面接テクニック」を示すことだ――これが彼女のいう「適応戦略」のひとつといって差し支えないだろう。なお学術的にはゴフマンの演技(ドラマトゥルギー)やスティグマ論が参考になるとも言っていたが、このあたりはひとまず措く。
正論をいえば、どっちも変わらなければならないのだろう。社会とAS、両者が歩み寄ることを抜きにして、真の解決はありえない。もちろんこの博士の方のように、AS患者の立場に寄り添えば寄り添うほど、後者(社会の変化よりAS患者の適応を目指す)のアプローチを取るのも無理はないし、スタートとしては現実的な一歩といえる。
そこを理解したうえで、私なりの解決策として浮かぶのが「在日留学生」という制度である。一言でいえばこうだ。AS患者は「空気が読めない」。その読み方を習うためのテクストとして過去の日本人論を採用しようと、いうのである。いってみれば、AS向けに最適化された新しいテクストを作ること
もちろん、日本人ないし日本社会だけに有効な指針を作っても意味はないし、社会的差別を文化的要因のみに落とし込むような粗雑な議論に、学術的な価値があるとは到底いえまい。ただ現実問題として、日本社会にある(とされる)「空気」や「世間」に近いものは、程度の差こそあれ、あらゆる文化圏においても確認されるものではないか。
現に中島の学生だったインド人のK君は、「寒いので温度をあげてほしい」という意志を非言語的な動作(両腕をさする)によって表明している。文脈から見るかぎり、無意識に、「日本にいる」という感覚の外で起きた動作である。繰り返すように、こうした例はどの社会にでもある。日本の伝統的な人間関係の型といわれる「世間」「空気」には、あらゆる人間関係のありかたに関する重要な示唆がある。ASの支援を考えるとき、その適応戦略を文書化してまとめるときの先行研究としてこれらの概念を扱うことは、学術的にも決して間違いでないように思う。
もうひとつ重要なことは、適応するさいの心構えにある。中島と留学生との対話には「笑い」がある。日本文化に対する皮肉にも似た感情だ。ここに「自分をも笑える」滑稽さが加わるとき、アスペルガーは――陳腐な言い方をすれば――病気から個性へ、さらには文学へと昇華されるだろう。ハンセン病だって精神病だって、その悩みは文学となっている(漱石や太宰の後期作品を、松本清張『砂の器』を見よ)。AS患者の悩みが文学表現となるとき、アスペルガーはもはや公認されにくいマイノリティでも公認されたマイノリティでもない、ひとつの文学として成立するのだ。
日本にいるAS患者を在日留学生と呼ぶ理由はここにある。AS患者の方がこの拙文を読んでくれたとしたら、中島義道の前掲書を読むことからでも始めてみてはどうだろうか――社会という名の学校生活を。<おわり>