intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

難しい…のか…

2008-12-24 | opinion
忘年会の季節である。


札幌近郊に十教室を抱える学習塾。講師陣が一同に介する機会は、年末のこの時期を除けばほとんどない。席上、初対面とは思えないほどに盛り上がった、ある女性講師とのやりとりを紹介しよう。


担当は英語。二歳の双子の子供をもつママさん先生で、なんと韓国出身だ。なぜ日本に、と訊ねるやいなや、関西人顔負けのマシンガントークが幕を開けた。


初来日は大学二年次。在籍校の姉妹校である山口大への交換留学だった。一年で帰国するも、翌年には広島大へ編入学。研究テーマは、なんと「アダルトビデオ」。


「ツタヤでもどこでも、若い女の子が裸で写ってる。男もそれ普通に買ってる。韓国ではありえない。日本人、変態!」


戦後、韓国では「倭色」として忌避されてきた日本文化。韓流ブームよろしく、日韓の文化交流は着実に進んでいるように見える。


だが彼女は、性意識には「かなりの隔たりがある」と、流暢な日本語で分析する。そういえば、今年話題になった『ラブホテル進化論』(文春新書)の著者・金益見も、「在日」ではあるが韓国人、しかも女性だ。


日本の性文化の多様さはよく語られるところだが、見方を変えれば開放的に過ぎる面もある。たしかにここ数年、児童ポルノの規制は厳しくなってきたし、深夜番組からあからさまな性表現は消滅したようだ。こうした取り組みはきちんと評価されるべきだろう。


――という建前だけで性は語りえる、とあなたはお考えだろうか。答えは否である。


例えば、韓国に愛人のいる作家の岩井志麻子はこう述べていた。韓国ではただのアジュンマ(おばさん)だが、日本には熟女文化がある。だからこそ、自分は四十代半ばでも「現役」でいられるのだ、と。高齢化の世の中にあって、あっぱれな話ではないか。


また性教育という観点から見ると、いまの日本は後進国だとされている。HIV感染者の増加や、セックスに関する話題がタブー視される傾向はその証左だ。ここに紹介した女性たちの、性に正面から向き合う姿勢こそ、私たちはきちんと評価しなければなるまい。


広島大を卒業後、彼女が新宿・歌舞伎町を目指したのは当然の流れだろう。そんな女性が現在、母親と先生の二役をこなしているのだから、人生とは不思議なものだ。この忘年会での出来事は、当分忘れられそうにない。
 


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毎週異なるテーマでエッセイを書く、という試みをこの秋から続けている。上記の題目は「変」。変=性とはあまりに安直だが、1200字/90分という制限を設けるとこんなものにしかならない。


ところで、以前「キミのブログは読みにくいよ」と言われたことがある。ここには二つの意図があって、ひとつはレイアウト、もうひとつは内容だった。前者は文字サイズの変更で解消されたと思うのだが、後者はなかなか大変だ。


ようするに、この「試み」内でも同様の指摘があったわけです。読んでもわからん、と。うーん。それは僕の筆力のせいなのか、それとも(誠に失礼ながら)その読者の読解力のせいなのか……いやいや、まず自分を疑うのが筋でしょう。


かつては井上章一やましこひでのりにならって、文体を軽くしたこともあった。それでもといやってみるか、と思うと同時に、それじゃあ根本解決にならんやんけ、とも思う。苦悩は続く。



アンチ・テキスト論

2008-12-05 | ライフサイクル
所用があって東京モドリ。品川の京品ホテルには全国ユニオンからの応援メッセージが並んでいた。ただ、今日の段階で営業(自主営業)していたのは「いの字」のみ。そのいの字も、クレジットカードが利用できないなどの不便があるようだ。また京王では、国領が島式ホームになっていたのに驚いた。調布も駅高架化が完了。「あの建物は前なんだったっけな」現象である。


機内でずっと考えていたことがひとつ。いわゆるテキスト論についてだ。たとえば、未婚・子なしで30を迎えた女の心境を諧謔的に綴ったのは酒井順子だが、それを恋愛至上主義からの刺客かのようにあえて誤読したのは本田透である。次元は異なるが、ナチ時代に映画という芸術作品の美を追求したのはレーニ・リーフェンシュタール『オリンピア』だが、その美意識をナチズムの美(特にアスリートの健康美)と関連づけたのはゲッベルスであり、映画の観衆である。


どうしても解せないのは、ある作品が作者の意志と無関係に扱われることが本当にアリなのか、ということだ。勝手にいじくんなよ!と。リーフェンシュタール自身は「ナチスの思想には共鳴していなかったと生涯主張していた」(飯田道子『ナチスと映画』)にもかかわらず、戦後はある種戦犯のように扱われた。酒井順子も、オタクから見ればいわば「政敵」だろう。しかし、彼女自身は必ずしもオタク男性を貶めるような意図はなかったと『性愛格差論』で明言している。にもかかわらず、彼女たちはそれぞれの「罪」を背負い込まなければならないとすれば、どうにも納得できない部分が残る。


テキスト論に対して僕が抱えるこの違和感は、自己責任ということばに置き換えればある程度説明できる。つまり、Aさん宅にドロボーが入った。悪いのは明らかにドロボーなのだが、世間は「用心していなかったAさんが/も悪い」とのたまう。この<が/も>のニュアンスは大切で、酒井さんやリーフェンシュタールを罪人扱いする人間ほど、「が」を使いたがるように思われる。しかし、それって本末転倒じゃあるまいか?


性善説に過ぎることは自覚しているつもりだが、それでもやはり僕には彼女たちの「罪」を責めることができない。少なくとも、同情心を抱いてしまう。せめて存命であるうちぐらいは、作者の言っていることとテキストを切り離して考えるのはやめにしてあげられないものか。もっともこれは、創作活動によって収入を得ている人間の定めなのかもしれないが…。



MUSIC:Brainwascht/Ben Folds