気持ちがまとまらないので、箇条書きで吐き出す。
・<無法地帯から破滅へ(重引)>事件を知ってから、(被害者への冥福とは別次元として)まず願った/いまも願い続けているのは、歩行者天国の存続だった。たしかに、秋葉原を「アキバ」ならしめたのは、『電車男』「メイドカフェ」を契機としたオタク文化のマス受容=大衆化である。しかし、その影響力はいまや東京、日本国内にとどまらない。海外メディアの取り上げ方にも問題はあるが、取り上げたという事実は直視すべきだと思う。とすれば、オタクを含む「アキバ」住民たちは決起して秋葉原住民に掛け合うべきではないか。「頼むから、元のアキバでいさせてくれ」と。
・<オタクにとっての9.11>今から2年前の3月、ぼくは世界貿易センター跡地(グラウンド・ゼロ)にいた。そこでは、新たなビル建設がはじまっていた。ニューヨークのビルは本当に背が高く、道路にもなかなか日が当たらないので寒いなあ、という印象が残っている。こうした風景を見るにつけ、アメリカ人のもつ生命力というかプライドというか――それがイスラムをはじめ世界各地から大きな反発を招いていることを承知したとしても――、ある「強さ」を見せつけられた気がした(無論、今回の事件は国際的・宗教的紛争とは位相もまったく異なる)。
・<どうなる、歩行者天国>「葬式テツ」というのがいる。鉄道マニアの中に、廃線・廃止の決まった路線・車両を目当てに全国各地を乗り回す連中のことを指すのだが、いまぼくは彼/女らに対して持っているのとよく似た感情を、「アキバ」住民に対して抱えている。無くなってから行動するんじゃ遅いこともある。でも、無くなるとわかったからこそ、できることだってあるんじゃないだろうか、と。
・<歩行者地獄>そして、秋葉原住民にも提言したい。大惨事ではあったが、「事件があったから歩行者天国も中止」「売り上げが心配だから継続を」(「生活がかかっている」といわれればそれまでだが、都心の一等地で商っている人々の暮らしが一日や二日働かないだけで急変するだろうか?)といった短絡的な結論でなく、どうか慎重に、大局的にことを運んでほしい、と。アキバの命運、いや、オタク文化の命運は、この週末で決まる。
補記:犯行手口、犯人による「実況中継」、メディア報道についても長々。
・「4名はひと刺しで失血死」という話が出てきた。刺したあと、刃を持ち上げるようにすると、内臓へのダメージおよび致死率が格段に増すとのこと。そうした残忍な手口もナイフ関連のサイトを見れば載っているらしいが、ことはそんなに簡単だろうか。10人もの人間を殺めた犯人は「トラックを降りて、一人目を刺した後は覚えていない」旨の供述をしている。初犯だろうから、まさか練習をしたわけでもあるまい。ましてやほぼ無意識の状態である。ナイフを振り回す犯人の顔を想像すると、背筋が凍りついて眠れなくなる。
・同情論について。ぼく個人は、今回のケースに限っては原因と結果の連関をひとまず度外視して考えたいと思っている。つまり、犯人の生い立ちがどうだとか、派遣労働の実態がどうだとか、そうしたことについて議論することは、捜査上価値はあったとしても事件の本質をとらえることはできないような気がしている。
その理由を端的にいえば、ぼくも同情的な立場をとりたい気持ち(理性的にはそれを断ち切っている)を有してしまっているから。報道に関していちばん憤りを覚えたのは、読売新聞の社会面(10日朝刊)。高校進学後から自分の人生は狂い始めた、というくだりを引用していわく「両親に責任を転嫁している」。彼女がいれば、といった文言もこの手の「人のせいにするな」批判に含めることができるだろう。しかし、そうした一連の書き込みを、犯人の殺意ないし犯行の動機と結びつけて報道することに、いったい意味があるのか?それがジャーナリズムの追求する正義といえるのか?
人間って、そんなに強いのか?
この記事から導かれる結論はひとつしかない。「自分の弱さを他人に押し付けた、甘ったれ男の犯した愚劣な凶行」。彼が「弱い」ことは、乗用車ではなく大型トラックを使ったことからも明らかである。しかし、そんなことを弾劾するばかりでは、われわれが学びとれることはなにひとつなかろう。心弱き、悩める25歳の少年――同世代の人間として、あえてそう呼ぼう――のルサンチマンを頭から否定することは、「甘えのない人間による美しい社会をつくろう」式の新たな暴力・圧力となって、新たなひきこもりや自殺者、そして殺人犯を生み出すだろう。
責任転嫁? したっていいじゃないか。それで気がおさまるのなら。それで自らの命を絶たずに、他人の命を奪わずに済むのなら。決して間違ってはならないのは、その怒りや哀しみや苦しみや不信や欺瞞や傲慢や自己弁護や他者嫌悪を、行動にあらわすときの「手法」のはず。犯人が(おそらく極刑をもって)問われるべき責任とは、殺人という手法を用いた、その一点においてのみではないか。
結局、ぼくも「甘ったれ」で「われ関せず」な人間なのだろう。ただ、これだけは信念を持って言える。いま、社会からの支援をもっとも必要としているのは、被害者およびその遺族と同様、加害者の両親なのだ、ということを。
・ヒントはやはり、かの犯罪大国にある気がする。
・<無法地帯から破滅へ(重引)>事件を知ってから、(被害者への冥福とは別次元として)まず願った/いまも願い続けているのは、歩行者天国の存続だった。たしかに、秋葉原を「アキバ」ならしめたのは、『電車男』「メイドカフェ」を契機としたオタク文化のマス受容=大衆化である。しかし、その影響力はいまや東京、日本国内にとどまらない。海外メディアの取り上げ方にも問題はあるが、取り上げたという事実は直視すべきだと思う。とすれば、オタクを含む「アキバ」住民たちは決起して秋葉原住民に掛け合うべきではないか。「頼むから、元のアキバでいさせてくれ」と。
・<オタクにとっての9.11>今から2年前の3月、ぼくは世界貿易センター跡地(グラウンド・ゼロ)にいた。そこでは、新たなビル建設がはじまっていた。ニューヨークのビルは本当に背が高く、道路にもなかなか日が当たらないので寒いなあ、という印象が残っている。こうした風景を見るにつけ、アメリカ人のもつ生命力というかプライドというか――それがイスラムをはじめ世界各地から大きな反発を招いていることを承知したとしても――、ある「強さ」を見せつけられた気がした(無論、今回の事件は国際的・宗教的紛争とは位相もまったく異なる)。
・<どうなる、歩行者天国>「葬式テツ」というのがいる。鉄道マニアの中に、廃線・廃止の決まった路線・車両を目当てに全国各地を乗り回す連中のことを指すのだが、いまぼくは彼/女らに対して持っているのとよく似た感情を、「アキバ」住民に対して抱えている。無くなってから行動するんじゃ遅いこともある。でも、無くなるとわかったからこそ、できることだってあるんじゃないだろうか、と。
・<歩行者地獄>そして、秋葉原住民にも提言したい。大惨事ではあったが、「事件があったから歩行者天国も中止」「売り上げが心配だから継続を」(「生活がかかっている」といわれればそれまでだが、都心の一等地で商っている人々の暮らしが一日や二日働かないだけで急変するだろうか?)といった短絡的な結論でなく、どうか慎重に、大局的にことを運んでほしい、と。アキバの命運、いや、オタク文化の命運は、この週末で決まる。
補記:犯行手口、犯人による「実況中継」、メディア報道についても長々。
・「4名はひと刺しで失血死」という話が出てきた。刺したあと、刃を持ち上げるようにすると、内臓へのダメージおよび致死率が格段に増すとのこと。そうした残忍な手口もナイフ関連のサイトを見れば載っているらしいが、ことはそんなに簡単だろうか。10人もの人間を殺めた犯人は「トラックを降りて、一人目を刺した後は覚えていない」旨の供述をしている。初犯だろうから、まさか練習をしたわけでもあるまい。ましてやほぼ無意識の状態である。ナイフを振り回す犯人の顔を想像すると、背筋が凍りついて眠れなくなる。
・同情論について。ぼく個人は、今回のケースに限っては原因と結果の連関をひとまず度外視して考えたいと思っている。つまり、犯人の生い立ちがどうだとか、派遣労働の実態がどうだとか、そうしたことについて議論することは、捜査上価値はあったとしても事件の本質をとらえることはできないような気がしている。
その理由を端的にいえば、ぼくも同情的な立場をとりたい気持ち(理性的にはそれを断ち切っている)を有してしまっているから。報道に関していちばん憤りを覚えたのは、読売新聞の社会面(10日朝刊)。高校進学後から自分の人生は狂い始めた、というくだりを引用していわく「両親に責任を転嫁している」。彼女がいれば、といった文言もこの手の「人のせいにするな」批判に含めることができるだろう。しかし、そうした一連の書き込みを、犯人の殺意ないし犯行の動機と結びつけて報道することに、いったい意味があるのか?それがジャーナリズムの追求する正義といえるのか?
人間って、そんなに強いのか?
この記事から導かれる結論はひとつしかない。「自分の弱さを他人に押し付けた、甘ったれ男の犯した愚劣な凶行」。彼が「弱い」ことは、乗用車ではなく大型トラックを使ったことからも明らかである。しかし、そんなことを弾劾するばかりでは、われわれが学びとれることはなにひとつなかろう。心弱き、悩める25歳の少年――同世代の人間として、あえてそう呼ぼう――のルサンチマンを頭から否定することは、「甘えのない人間による美しい社会をつくろう」式の新たな暴力・圧力となって、新たなひきこもりや自殺者、そして殺人犯を生み出すだろう。
責任転嫁? したっていいじゃないか。それで気がおさまるのなら。それで自らの命を絶たずに、他人の命を奪わずに済むのなら。決して間違ってはならないのは、その怒りや哀しみや苦しみや不信や欺瞞や傲慢や自己弁護や他者嫌悪を、行動にあらわすときの「手法」のはず。犯人が(おそらく極刑をもって)問われるべき責任とは、殺人という手法を用いた、その一点においてのみではないか。
結局、ぼくも「甘ったれ」で「われ関せず」な人間なのだろう。ただ、これだけは信念を持って言える。いま、社会からの支援をもっとも必要としているのは、被害者およびその遺族と同様、加害者の両親なのだ、ということを。
・ヒントはやはり、かの犯罪大国にある気がする。