intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

美の自主規制?

2006-09-17 | ライフサイクル
ヤフーニュースより以下引用。




>やせ過ぎモデル規制の動き、英、伊にも広がる=著名スーパーモデル締め出しも
 
【ロンドン16日】スペインでこのほど、やせ過ぎのモデルがファッションショーへの出演を禁止されたが、英国でも同様の動きが出ている。報道によると、世界のファッションの発信地、イタリアのミラノでも規制の動きがみられるという。
 ロンドン・ファッションウィークが18日から始まるが、16日付の英各紙によると、食事障害防止団体や閣僚がやせ過ぎのモデルへの懸念を相次いで表明し、主催者は規制導入への大きな圧力を受けている。彼らは、スペインのマドリードのショーの場合と同様に、身長と体重の比率が一定の数値を満たさないやせ過ぎのモデルは、ショーに出さないよう求めている。同様の規制がミラノでも検討されているという。
 ガーディアン紙によると、食事障害協会のスポークスマンは、規制は増大している拒食症や病的飢餓のレベルを減らすのに有益であると語った。同紙はまた、テレサ・ジョウェル文化相がやせ過ぎモデル規制に賛成する議員の署名リストの先頭に立ち、もっと現実的な体型の健康な女性になるよう呼び掛けていると報じている。同相は「若い女性の行動や感情を形づくる上で、ファッションが果たす力を一瞬たりとも過小評価してはならない」と語っている。
 また、デーリー・メール紙は、もし体型の規制が導入されれば、リリー・コール、エリン・オコーナー、アレック・ウェック、エバ・ハーツィゴバらのスーパーモデルがショーから締め出されるだろうと指摘している。
(時事通信) - 9月17日12時38分更新



僕の好みしか話はできないし、そのつもりしかないのだが、やっぱりヨーロッパの知行合一ぶりにはいろいろな意味で頭が下がる。ともあれ、これは多くの女性と一部の男性を救う動きではないだろうか。


まず前者。現代、女性の多くはまず間違いなく「やせなければ」という強迫観念にとらわれ、現状変革(=今よりやせること)を迫られている。いや、迫られているというより、時代の要請によってそう思い込まされている。いやいや、もっと正確にいえば、本来、医学的・生物学的にはまったくやせる必要もないのに、多くの女性にとって「やせなければいけないこと」が至上命題になり、彼女たちに対する「やせなくてもいいんだよ」という純粋な善意の表出が、ただのサーカズム(皮肉)にしか聞こえないような社会通念が醸成されている。今回の記事は、そんな現状を打開する動きを伝えている。なお、サーカズム<sarcasm>は、同じ訳語であるアイロニー<irony>とは区別される。後者が直接的な、わかりやすい皮肉(「アンタ、足太すぎ」「オマエほど短くないけどね」)を指すのに対し、より遠まわしで婉曲的な、良くいえば巧妙な、悪くいえば狡猾な皮肉のことをいう。


他方後者。この動きが本格化し、この「極西」の島国にまで伝播すれば、僕を含む、「女性はそんなにやせなくていい」と思う男性諸君にとって、ニンマリしてしまうような状況が(中・長期的に)生まれるかもしれない。そうなれば本当に喜ばしい。もちろん、僕にもいろいろ好みのモデルさんがいるが、みんなとにかくやせすぎだ。「そんなにやせなくていいのに」といくらやさしく囁いたとしても、またたとえそれが僕の知人に対する誠実なセリフであってもそれが単なるサーカズムにしかならないような―ワイドショーよろしくの決まり文句なのであまり使いたくはないのだが―時代の閉塞感には、ぽっちゃり支持派の僕にとってうんざりなのだ。


ただし、どこまでがやせていてどこまでがちょうどよく、またどこからが許容範囲外の太りすぎなのかは、残念ながらここでは説明ができない。なぜなら、それは極めて僕の感覚的主観でしかなく、その場の「直観」でしかないからだ。だから、自省の意味をこめてひとこと。もうやせないでくれとはいわない。不必要にやせすぎた女性が、僕は嫌いだ。


ただし、もっと大切なことは、この動きが将来的にやせ型の人、やせたいと願う人の人格を否定するようなものであっては決してならないということ。そこまでの想像力を持ち続けることを、僕は怠りたくない。


なお写真は、その演技とおっぱいが魅力のレイチェル・ワイズ(Rachel Weisz)。もちろん、そのプロポーションはよすぎるくらいだが。

麻原 死刑確定は虚妄

2006-09-16 | opinion
取り急ぎ。ひどいでっちあげだ。


オウム真理教元代表の松本智津夫被告が、最高裁の「訴訟能力を認める」という判断から、地裁判決のみの判決だけで死刑が確定した。


オウム、および森達也さんの片棒を担ぐつもりはないが―十分担いだような発言になるが―、僕と同年代(今20代前半)の人々が、森さんの『A』『A2』を見たうえでこれらの報道を眺めれば、多少でも違和感を感じない人はそういないのではないだろうか。「しょーこーしょーこー」というメロディを、リコーダーで吹いていたころの自分が気付かなかった、この事件の別の(「本当の」ではない)側面が大いに見えてくるのではないだろうか。


「語ることは大事ではなく、大事なのは何をやるかである」(フジテレビ『ワッツ!?ニッポン』より)


教団側に、6億円以上もの補償金の支払い完遂を暗に促した松本四女の後見人こと江川昭子氏の発言だが、僕は彼女および大塚アナ、白鴎大の何とかいう教授などに対し、以下の質問を持って、最大級の疑問と反論を表明する。


つまり、被告側の控訴趣意書の提出を「裁判を引き伸ばそうとする姑息な手段」と決め付けるのも、「語ることなどどうでもいい」からだろうか?精神鑑定を行わないのも、「(罪を認めない)あらゆる言説などどうでもよい」からだろうか?せめてそうはっきり言うべきだ(はっきり言わないところが汚い。それが「客観性」だというのか?噴飯だ)。ただまず、被害者への病的な感情移入をいいかげんやめにしないか?はたして、領土問題に憤慨する韓国人もびっくりの熱の上げようで、「公正中立」の客観報道など成り立つのか?


オウム信者も、「(麻原死刑を追認するような)事実」という名の供述を行った者以外はほぼ全員、いまだにテロ集団の構成員扱いであるし、裁判所の判決を無条件に「妥当ですね」と妄信する「一億総ヒラメ判事」状態のコメンテーターもやはり、公権力の番犬―でも噛み付くどころか、吠えさえしない―たる「第四の権力『様』」の脳無しサポーターでしかない。猪瀬直樹のおよび腰ぶりにも、失望した。


ではなぜ、僕が麻原およびその弁護人の片棒を担ぐのか?


森さんの著書を読んでみてくれ、としかいえないが、そのとっかかりとしてふたつの「事実」を記しておく。


①麻原は、すでに拘置所で薬漬けにされているとの噂がある。心身薄弱状態を示す証拠としては、午前と午後で法廷に現れる麻原のズボンが違うことが何度かあったそうだ。簡単にいえば、失禁して大小便垂れ流し状態だから。傍聴人の多く、およびプレス、弁護人などの裁判関係者には周知の話とのこと。


②「推定無罪」という概念がある。「疑わしきは罰せず」のことだが、松本被告には基本的に自白を含めたあらゆる本人供述が欠落している。前述の薬漬けにその理由があると思われるが、いわばこれは「口封じ」。ただし世間語を使えば「黙秘」および「起訴事実を否定」。穿った見方をすれば(基本的人権とやらを尊重するなら、人が殺されるかもしれないとき、あらゆる可能性を検証し、たとえそれがウソでも、徹底して彼の人を弁護しようとするのが人間の勤めではないのか?)、幹部の供述をうまく利用して、彼だけに罪をなすりつけることは十分可能だ。これは東京裁判におけるA級戦犯の論法とさして変わらないと思うのだが、どうだろう(となると、さしずめ我々は責任を逃れた、天皇制という「国体」だろうか)。


唯一の望みは、杉浦正健法相が就任以来、死刑執行に一度もサインをしていないこと。法相の英断を仰ぎたいが、目の前の政権交代でそれもおじゃんだろうし、国民の「期待度」を無視できないとすれば、長期的にみてもあと5年前後で執行だろう。これから国民総出で「殺せ」の大合唱が始まるのかと思うと、死刑制度の必要性をある程度是認していた僕自身の立場が変わってくるのを感じずにはいられない。


倒れたものを踏み潰すのは簡単だ。だが、「くさいものにフタ」式の、その軽率な行為が、あなたの思考を大いにすり減らしていく。



参考(推奨)文献:
森達也、森巣博著『ご臨終メディア』集英社新書、2005年



*補記。17日の朝の番組で、作家の室井佑月がやはりコメント(徳光さんの番組)を求められた。徳光はじめ他のコメンテーターは雪崩を打ったように「麻原憎し」に終始していたが、室井さんは「こいつはホントに憎らしくて顔も見たくないし、何度殺しても足りないくらいだと思うけど、大小便垂れ流しとか、あんまり報じられないところを突き詰めないで(注・精神鑑定のことをさしている)、死刑にするのはおかしい」というようなことをいっていた。結局、この意見は黙殺(誰も同調、批判さえしない!)されたが、あそこでこういう発言をした彼女の姿勢に、僕は同意する。

新宮誕生 テレビ報道が伝えない「温度差」

2006-09-06 | opinion
2006年9月6日 秋篠宮妃が男児出産


僕とその友人計5名は、都内各地で「特派員」として取材を行った。そのすべてを語ることはできないが、過熱するテレビ報道と冷めた民衆のコントラストについて、最低限の情報を提供しよう。


*以下<>にて、白→目白、秋→秋篠宮邸、銀→銀座・有楽町、皇→皇居前広場、の各特派員からのメッセージである。


Date: 2006年9月6日(水) 午前9時02分 <白>
をのこなりけり
あと○○にですが、かわしまていのあるマンションは取り壊し予定で現在住人は0だそうです。アーメン。
それでは渋谷むかいます


Date: 2006年9月6日(水) 午前10時32分 <銀>
号外入手。朝日、スポニチ、ジャパンタイムズ。


Date: 2006年9月6日(水) 午前11時08分 <皇>
ぽつぽつ右翼がきてます。お世辞にもうまいとはいえない国歌斉唱後、天皇陛下・皇后陛下・皇尊殿下、バンザーイ×3。怖さはない。非常に平穏です。


Date: 2006年9月6日(水) 午前11時17分 <白>
学習いん中学の始業式下校と号外がバッティング、かなりのひとごみ。
△△、携帯の電池がピンチ。


Date: 2006年9月6日(水) 午前11時37分 <秋>
10時に赤坂、秋篠宮邸前に着。門前にはすでに30人ほどの撮影クルー。アナウンサーと思しき女性三人。警備はさほど厚くない。
11時15分、警備の数が20人前後に。警視庁の警官は赤坂署ではなく本部から派遣の模様。この頃、生誕を祝う旗をいくつか抱えた右翼が10名ほど現われる。青山通りには一台それらしき車あり。


Date: 2006年9月6日(水) 午前11時48分 <秋>
46分、小泉首相が入った様子。


Date: 2006年9月6日(水) 午後0時17分 <皇>
取材クルーも昼休みで昼食をとる姿が目立つ。その他まったく変化なし。みんなも休憩いれてください。
目白、銀座、どうなってますか?


Date: 2006年9月6日(水) 午後0時14分 <銀>
有楽町、マスコミ各社道行く人に取材。新聞各社ずっと号外配付。銀座松坂屋で祝賀ののぼり登場。
××、ケーキに舌鼓。
ケータイの電池が一個に。


Date: 2006年9月6日(水) 午後0時42分 <白>
1100くらいから町内会のおどりが15分おきに駅前でおこなわれる
1230、雨足つよまると同時に踊り子撤退、酒なども撤去され、現在はかなり閑散としている
川島はんはどうやらまだ住んでいたらしい。報道陣と黒塗りでおもおもしい雰囲気。1150頃電報配達車が到着。それいがいは動きは確認できず


Date: 2006年9月6日(水) 午後0時46分 <銀>
有楽町の動きが死んだので銀座へ。取材クルーの残党がちらほら。祝賀垂れ幕は松坂屋のみ。松屋などは入口に小さなプレートでお祝い。あと国旗がちらほら。あやかり商品探してます。


Date: 2006年9月6日(水) 午後1時12分 <秋>
取材スタッフが昼食に出たので、いったん商店街に移動しました。歩いてみたところ、生誕を祝う垂れ幕や国旗は見当たりません。街ゆく人の話題にもあまり上っていない様子。町内会の有無を確認し、町の行事を確認したところ、今日ではなく明日、商店街に日の丸の掲揚を行うということです。


Date: 2006年9月6日(水) 午後1時27分 <皇>
各地とも動きが止まってきているようです。(中略)電源がやばい人、どっかでチャージしてください。


Date: 2006年9月6日(水) 午後1時39分 <秋>
赤坂、秋篠宮邸前、取材陣らに動きなし。周囲に記帳所らしきものは無し。御用地内には要人用の記帳所があるらしく、小泉さんを初め海外の偉い人が記帳していた様子。日の丸を控えめに掲揚している店舗を一軒確認。


Date: 2006年9月6日(水) 午後2時40分 <秋>
車の左前方に外国の国旗をつけた、ずいぶん高そうな黒い車が何台か入っていきます。取材陣、警察の数もピークを過ぎたよう。門前にいる一般人は少数。うち一人のオバサマは、結構詳しい。なにやら、警察6人が新規投入され、古く汚いカラーコーンを新品に交換。なにか始まるのでしょうか。


Date: 2006年9月6日(水) 午後2時33分 <皇>
今○○と合流しました。15時半に××集合、了解した人は返事ください。



取材は朝10時から17時頃までの予定だったが、他の取材陣が正午すぎを境にほぼ引き上げていったのに合わせて我々も引き上げることになった。皇室に子供が生まれるたびに皇居前広場で行われる「国民の集い」もなかったようで、非常に盛り上がりに欠けた。挿話としては、1960年2月に浩宮徳仁(ひろのみやなるひと。現皇太子)が生まれたときに行われた「国民の集い」は、宮内庁発表で2万5千人参加。実態は、その五分の一程度だったという。


ともかく五人の特派員の胸に去来するのは、テレビ報道と現実世界との乖離であった。テレビはその圧倒的なネットワークで、都内でも日本橋や新橋をはじめ、秋篠宮の地元である静岡、ゆかりのある和歌山やら熊本からの「お祝いの声」。地方で行われた、たった数100人規模の提灯行列。大阪、名古屋における小手先の「号外さわぎ」。などを次々に垂れ流す。札幌の天皇・皇后のようすはどうなのかはわからないが、少なくともこの日の東京が「秋の澄み渡った空を思わせる(安部官房長官)」ような空模様ではなかったことは断言できる。


明日以降にこの報道が、民衆の(多少なりとも)自発的な祝賀モード、あるいは「可視化された天皇制ナショナリズム」を生み出していくのかが見ものだ。


ただ、その可能性は極めて低い。