intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

身辺雑記(4)

2007-05-31 | ライフサイクル
いやらしい話ですが、アクセス数がぐんぐん上がっています。


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「身辺」を謳いながら、なにやら芸能ニュースばかりになってしまった。その反省(?)も踏まえて、もう少し個人的に。


W.リップマン『世論(上)』(岩波文庫)をゆっくり読んでいる。その第3部・第6章のタイトルは、ずばり「ステレオタイプ」だ。


「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。」


シンプルな言葉ながら、その真意は多岐に渡る。たとえば、アルバイト先の生徒(マンガに精通している)に「『あずまんが大王』を読みなさい」とすすめてみたところ、答えは「先生、そんな一面があったんですね」だった。事情がわからない人も多いだろうから、このあたりは精緻に語っておきたい。


『あずまんが大王』は、以前このブログでも取り上げた『よつばと!』の作者・あずまきよひこの(事実上)デビュー作である。連載は月刊誌「電撃大王」(メディアワークス)で、「アニメやゲームからのコミカライズ作品」(ウィキペディア)が中心となっている。これが、まさに萌え系マンガの宝庫なのだ。


はじめは、友人に言われるがままアニメ版『あずまんが~』をyoutubeで見ただけだったが、最終話に近付くころにはハマっていた。なかでもスポーツ少女・神楽の純なところは、冗談なしで自分の生き写しかと思ったほどだ。それはともかく、その後じわじわとあずまきよひこ作品に親しんでいくことになった僕は、『あずまんが』全巻、『よつばと!』1~5巻、ついには『あずまんが』DVD初回ボックスをオークションで落札してしまった。だが、言うまでもなく、他の電撃コミックスには一切目もくれないのである。


…と、ここまで書いてなんかバカバカしくなってきた。全然精緻じゃないし。えいっと抄訳すれば、その生徒はステレオタイプの「あずまんが読者」と、今まで見てきた僕の実像に齟齬を感じて、どこか腑に落ちない気分になっている。それだけの話である。


それがいいことか悪いことか、そんなことはどうでもよい。ただ、――被害妄想かもしれないが――僕が高校生だったときに、こういうことを教えてくれる先生がなぜいなかったのだろうか、としばしば思う。いや、多分いたのだろう。話もしてくれていたのかもしれない。なら、なぜ僕の心には何も残らなかったのだろう。森有正のいう「経験」の意味とは、このあたりにありそうである。


ここまで支離滅裂な文章を書いていたら、アクセス数も減るんだろうなあ。


MUSIC: Pretty Woman / VAN HALEN
サビの清涼感あるギターサウンドから連想されるのは、ポリス再結成に尽きる。


身辺雑記(3)

2007-05-30 | ライフサイクル

 ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広にて
 きままなる旅にいでてみん。
 汽車が山道をゆくとき
 みづいろの窓によりかかりて
 われひとりうれしきことをおもはむ
 五月の朝のしののめ
 うら若草のもえいづるこころまかせに。(萩原朔太郎『旅上』)


皐月が終わる前に、この詩を胸に。







身辺雑記(2)

2007-05-29 | ライフサイクル
二日目。もうすぐ雨の季節です。


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浅尾美和の活躍ぶりに違和感を抱いている人は、僕だけではあるまい。


たしか、今週号のAERAだったか。「リア・ディゾンはわかるが、浅尾はわからん」みたいなことが書いてあった。これを見るかぎり、同じような感想を持っている人はいるようだ。個人的には、リア・ディゾンの良さもさっぱりわからんが。


「プロスポーツ選手たるもの、本業だけに専念しておればいいのだ」みたいなイチャモンは、古いしきたりのようでいて、わりあい的を得ていると思う。こういう言い方はあまり好きではないが、オリンピックに出場するような選手となれば、国からの支援を受けることになるわけで、そこには不作為の責任が生じる。だって、彼/女らは、僕たち私たちの税金の恩恵を賜っているのだから。


このあたりは、コラムニストの中野翠さんが、アテネオリンピック代表当時の福原愛を以下のように評したのと状況が似ている。


(北島康介の「チョー気持ちいい!」を指して)あのコメントを耳にした時、「今どきの若者……」と笑いながらも何か腑に落ちない気分がかすめた人は少数だろうが、いたと思う。オリンピック勝者のコメントがこんなに日常的で個人的、いや、私的なものでいいのだろうか、と。[中略]

 私は卓球の福原愛選手にまったく関心がなかったが、四回戦で敗退した時にメディアが「楽しみましたか?」と質問したのに対して、「楽しむために来たのではないので」と答えたので「おやっ」と思った。まともな根性というものじゃあないか。(『ここに幸あり』毎日新聞社)


社会のしがらみや、国家主義の要請に縛られない生き方はひとつの理想だし、清々しいものだと思う。ただ、オリンピック代表選手が水着姿――「ユニフォームで出ているだけだ!」と言われれば反論の余地はないが、そのために海外でロケまでする必要はあるまい――で男性誌の巻頭グラビアを飾るというのも、やっぱりヘンな感じがしてしまうのだが、どうだろう。


テレビなどのマスメディアで騒ぐ分には構わない(スイッチをつけなきゃいい)けれど、中吊り広告であそこまで視覚を攻撃されると、さすがにかなわない(目を閉じたまま電車に乗るのは怖い)。この違和感を軽減させるには、浅尾さんにビーチバレーかグラビアか、どちらかに専念してもらうとか……。今のところ、そんな手段しか思いつかない。どうせなら、「適当伝説」を標榜した高田純次のように、責任の伴わない生き方を選んでみるのもいいんじゃないかなあ。他人事ですが。


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“今しみた 親指のつけ根
 新しいクツ あなたのためにはいたわ
 水がしみて 君が消えた
 水がしみて 君は遠く消えた
 アワになって”(『サリー』)


最近は女性ボーカルの詞ばかり、こんなふうに染み渡ってきます。



身辺雑記(1)

2007-05-28 | ライフサイクル
今日から一週間、気まぐれに集中連載します。


そんな折、このニュースが入ってきたわけです。


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>松岡農相:首をつって自殺 議員宿舎で

 28日午後0時18分ごろ、東京都港区の衆院赤坂議員宿舎の自室で松岡利勝農相(62)が倒れているのを迎えに行った秘書官らが見つけ、警察に通報した。首つりによる自殺を図ったもので、救急隊員らが現場で応急処置をした後、午後1時に東京・慶応大病院に運んだが同2時死亡が確認された。松岡農相は自らの事務所の政治資金問題や、官製談合事件が告発された農水省所管の「緑資源機構」の関連団体からの献金問題で野党から追及され、世論からも批判を浴びていた。

(中略)松岡農相は自らの資金管理団体が事務所の光熱水費をめぐる不明朗な処理で世論批判を受け、野党から追及されていた。安倍晋三首相は「法的な責任を果たしている」と擁護していた。しかし、官製談合事件で刑事事件に発展した緑資源機構の関連団体から献金を受けていたことも発覚。自民党内からも辞任を求める声が出ていた。

 松岡農相は衆院熊本3区選出。1990年、衆院選に立候補し初当選。05年に6選を果たし、昨年9月の安倍内閣発足時に農相に就任した。

 農林水産省によると、松岡農相は28日午後1時40分から、国会内で開かれる参院決算委員会に出席する予定で、午前中に東京・霞が関の農水省内で同省幹部と事前の打ち合わせをするはずだったが、姿を見せなかったという。
(毎日新聞 2007年5月28日 13時09分)


今日(28日)の夕刻すぎに『NNN特番 松岡農水相自殺』というタイトルで、日本テレビが単独で放映していたのを見て知ったわけだが、確かにびっくりした。現職閣僚の自殺は初のケースとのこと。遺書も見つかっているという。


これから記す考察も、明日になればもっと調べが進んで陳腐なものになるだろう。ただ、この事件を目の当たりにするにあたって、――同じ画面を見ていた母親から漏れ聞いた話ではあるが――湧き出た理不尽な思いを書き留めておきたい。


批判の矢面に立たされていた彼を、安部首相は「擁護していた」とある。もともと、農林水産業に精通した頭脳とともに、弁舌の巧みさを買われて閣僚入りしたとのことだが、「ナントカ還元水」(この言葉も「不謹慎だ」として使われなくなるだろう)問題に対して答弁する彼の論調は、本来の姿とは程遠かったに違いない。それゆえに、疑惑の追及は死後も続くだろう。


だが、その特番で目を見張るシーンがあった。


それは、農林水産省前から中継した某女性記者のレポートだった。彼女はなんと半ベソで、嗚咽をかみ殺すように話を続けていくのである。なんとか平静を保とうとするのだが、カメラマンも――プロの嗅覚がそうさせたのだろう――潤んだ目元にクローズアップ。必死にレポートを終えた彼女は、カメラのランプが消えたとき、何を思っただろうか。


そもそも、報道記者と政治家との関係は、視聴者が思っている以上に近い。もちろん、メディアという劇場に立てば、それぞれの役を演じなければならない部分もあるのだろう。しかし、記者クラブ主催のゴルフコンペがあったり、食事会があったりと、人間同士の付き合いだってあるのである。それは、昭和天皇の死に際して涙した、皇室担当の記者たちとて同じ心境だったに違いない(『皇室報道の舞台裏』角川oneテーマ21、2002年)。


いわんやこのケースも、である。たとえば会見の際、松岡大臣は全員の記者の名前を暗記したうえで、「今の○○記者の発言についてお答えしますと…」などと受け答えしていたという。じじつ、某女性記者の報告の半分以上は彼の擁護に近いものだった。僕自身、塾の講師をやることにあたって、元保母さんの母親に「子供は名前を覚えてあげるのが一番なのよ」と言われたことを、思い出さずにはいられない。


疑惑に対しては「法律に則った処置をしている」と繰り返し答弁した、強面ながらも気配りのできる人格者。安部首相は特に前者の顔を守りたかったようだが、遺書の文面まで守りきれるだろうか。


「疑惑を晴らしていれば死なずに済んだのに…」という弔辞を背に、不器用な男は棺桶へと向かう。初報の印象だけで書き連ねてきたが、たぶん、本人は喋りたかったんだろうなあ、と邪知をこめて結論づけておきたい。


さて、喋らせなかったのは誰だろうか?



“足を引っぱらずに 手を引っぱって
 探っていくのはもうたくさん
 つないだ手が離れてしまう前に”(『手の中の残り日』)


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※追記。案の定、翌日になってこんな話が出てきている(『朝日新聞』5月29日など)。

『今となっては24日夜、熊本の地元の人が出てきたので会食につきあって欲しいと早くから言われていた会合でゆっくり話したのが最期となってしまった。その時私は松岡大臣に「明日決算行政監視委員会で私が質問するから、国民に心からのお詫びをしたらどうか。法律にのっとっている、法律に基づいてきちんとやっていますと説明しても、国民は理解していない。ここは国民に土下座し、説明責任が果たされていませんでしたと率直に謝った方がいい」と進言したら、力無く「鈴木先生、有難いお話ですが今は黙っていた方がいいと国対からの、上からの指示なのです。それに従うしかないんです」と、弱気な言いぶりだった。私はなお、「これからも何かにつけこの話は続くので、早く国民に正直に説明した方が良いと思うよ」と重ねて話すと、「そこまで言ってくれるのは鈴木先生だけです」と、にっこり微笑んでくれた事を想い出す。』(ムネオ日記


もちろん、ムネオ氏の挿話をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないだろう。だが、少なくともこういう詮索がこれから多分に行われるであろうことは確かである。「(自殺の真意について)全部知っている」と名指しされた、松岡氏の「家内」の受難は続く。


無意味なものにならないで

2007-05-20 | ライフサイクル
村澤博人『顔の文化誌』(講談社学術新書、2007年)が面白い。


顔に対する美意識の変化をテーマに、古代から現代までの日本文化の変遷を追ったのが本書。時間の都合上(読まねばならん本が多すぎるのだ)、戦後以降の章だけをパラパラと読んでみたのだが、なるほど、と思わされる部分が大いにあった。


著者は、「男性においては、「顔じゃない、心だよ」という伝統的な価値観が一九八〇年代になるまで主流を占めており、男性が自分の外見を気にすることはよくないという風潮」(p.204)があった、という。80年代生まれの人間としては、そういう「風潮」がすでに希薄になった時期に育っているせいもあって、通学前に整髪料とドライヤーで髪型をセットするなんてとんでもないとか、ヒゲや胸毛の薄いヤツは男として一人前ではないとか、そういう社会通念があったことは、なんとなくは想像できても言われてみないとなかなか気付かない。いわゆる「男らしさ」の誇示は、決して太古の因習ではなかったのだ。


ところが、男女雇用機会均等法を嚆矢とする女性の社会進出によって、「そのような価値観が八〇年代になるとあいまいになりはじめ、「男も顔」の時代になっていく」(同)。手っ取り早いのは――著者は、特に女性の場合、安室奈美恵の影響とみている――、太さ=若さを示していた眉を、人工的で細いものにすることであった。また、YMOや忌野清志朗、はてはSHAZNA(IZAM)にいたるまで、男性性を消し去ったメイクアップが(一時的ながら)流行する。さらに、切れ長で一重まぶたの「しょうゆ顔」、堀が深いモデル顔の「ソース顔」など、外見に対する意識の変化が起こってくる。これまた若さの象徴だった黒髪も、茶髪におされてくる。


こうして、「男らしさ」と「女らしさ」の境界線はどんどんあいまいになっていった、と村澤はいう。ということは、同時に、従来の「日本人らしい顔」像は瓦解し、かつてないほどの多様性が生まれていったことになる。


ジャニーズよろしく、確かに現代では、男と女を見極めるのはだいぶ困難になってきている。といってもその変化は、痩せ型で身長のある高校生しかり、ヘアピンで前髪を留める男子大学生しかり、「男が女になる」という一方通行的なものだ。あ、そういえば今年3月、房総半島の中腹を走る久留里線に乗ったときのこと。野球部とおぼしきボウズの男子生徒が、ブレザーの胸ポケットにカチューシャ?(「ダッカール」というらしい)のようなものを差していた。むろん、結える髪などないはずなのだが……。


なおここには、「都会と地方」という要因も働いているように思われる。つまり、都市生活者よりも中小都市ないし郊外に住んでいるほうが、より「細眉」率が高いということだ。個人的には、上下ジャージ(スウェット)でディスカウントショップに赴く「ドンキ族」、三浦展にならっていえば「(中の)下流」に属する人々の絶対数と比例関係にあるのではないか、とにらんでいる。いずれにせよ、秋田美人とか博多美人といった、土着文化にまつわる顔の言説に加えて、より社会学的な違いが「文化の鏡」としてのメイクアップ法に与える影響というのも、ぜひ知りたいものだ。


そういえば先日、「特に20代において、男性と女性ではファッションに対する意識が違う。その理由を述べよ」という題で作文を書かされた。そのときはまだこの本を読んでいなかったが、もし読んでいたらなおさら筆が進まなかっただろう。なんせ、「中性的であること」が時代の趨勢を占めているのでは?とますます思えてきてしまったのだから。


〝あの人をかぶせないで
 あの人を着せないで
 あの人を見ないで私を見てね〟 (“恋愛スピリッツ”)


まあ、男だってこんな気分になるものである。


ちなみに、僕は「女=顔」だとは思わない。顔も心も体も求めるからだ。あたり前か。


MUSIC:moimoi/Oranges & Lemons 
 

無題

2007-05-11 | ライフサイクル
2007/5/10 


今週末は「母の日」です。

さて、今年はどうしようかな、と考えていた矢先に出会ったのが、
この「よつばとひめくりカレンダー」(もうあげてしまった!)なのでした。

『よつばと!』(あずまきよひこ作)とは、
文化庁が主催するメディア芸術祭の優秀作にも輝いたマンガのタイトル。

原作は、主人公の少女よつばが、
父親とともに引っ越してくるシーンで幕を開けます。
隣の綾瀬家には三人姉妹が住んでいて、
よつばは毎日のように彼女たちを訪れるのですが、
島暮らしをしていた少女とって、この新生活はまさに初体験のものばかり。
そんな変哲もない日常を、清涼剤のような切り口で描いた作品なのです。

たとえば、こんなシーンがあります。

夏休みのある日、よつばがいつものように姉妹の家を訪ねると、
長女・あさぎの部屋に涼しい風が流れていることに気付きます。
エアコンの存在を知らないよつばは大はしゃぎで、
その事実を三女・恵那にも伝えます。

ただし、恵那の部屋にもクーラーはあるのですが、
なぜかスイッチは消されたまま。

理由を尋ねると、「地球温暖化っていうのがあってね……」という、
小学校入学前の少女には、ちょっと難しい話が返ってきました。
とりあえず「クーラー=ちきゅうのてき」と解釈したよつばは、
自宅に帰るやいなや「とーちゃん、このいえクーラーあるか!?」と詰問します。

自慢顔で「あるぞ」と答えた父親に、「みそこなった!!」と泣き叫ぶよつば。
あさぎの部屋のクーラーも止めようと慌てるのですが、こう切り返されて即転向。

「クーラーは地球を冷やしてるのよ?」

少女は目を輝かせて、

「やっぱりとーちゃんはわるくなかった!」

と駆けていくのでした。

年齢、性別を問わず、万人に開かれた本というのは、ジャンルを越えていくもの。
50代後半の母親も原作を読んで大笑いしていたので、喜んでいたようです。

一日だけ「お世話になりました」というのもなんだかゲンキンな感じなので、
日頃から感謝の気持ちを持たねばなあ……などと思いつつ、
今日もまた一枚めくるのでした。


アルバイト先で連載しているブログから転用・修正。