雨にもかかわらずこれだけの規模の集会・デモ行進があっても多分大手メディアは報じないでしょうから、「ブログもメディアの新興勢力」と粋がってみます。
「5・27国民大行動」と銘打たれたこのデモ行進は、全国労働組合連絡協議会(全労連)と単一産業別組合(単産)が中心となり組織された政府への抗議を示すものです。「憲法改悪を許すな!」とか「愛国心教育やめろ!」などの怒号とともに、全長数キロはあろう人々の列はこのあと国道246号線を東に向かっていきました。
いわゆる「左」(断っておきますが、右とか左とか、リアリストとかイデアリストといった二分法による世の中の説明の仕方は非常にわかりやすく便利であることは間違いないでしょう。しかし、それは必ずしも万能ではなく、不当なレッテルやスティグマを生む可能性を常に孕んでいます。僕自身の認識としては、このような議論の仕方を好む人はおしなべて怠惰な思考回路をお持ちであると思っています。)寄りの論調です。よって冒頭に述べたとおり、都会のど真ん中であれだけの規模で展開されても、新聞・TV・ネットといった大手メディアにおける扱いは微微たるものでした。メディアが彼らを取り上げないのは政治報道的ヒエラルキーの最下位に属すべき共産勢力がそのバックにいるため、というのは言うまでもないでしょう。
それはさておき、憲法改正にしても愛国心論議にしても、僕としては彼らの訴えに共感するところが多かった。多かったのだが、やっぱり「うるさい」のは許しがたいのである。
他人に自分の思想を伝えるというのは少なからず聞き手に迷惑をかけることは当然のことで、「それでも伝えたいことがある」という動機自体はいたって純粋であり、誰にでもその権利はある。しかし、今回のデモにしても、結局はスピーカーの轟音にまかせて「はんたーい!」「そうだー!」と叫ぶだけ。渋谷の買い物客をはじめとした一般市民にその思いはまず届かないだろう。
僕の印象では、行進者たちの肉声、どこかうなるような声が聞こえたときは「ありゃ何を訴えてやってるんだ?」と耳を傾けたくなった。そこから「知ろう」とする姿勢が芽生えるように思えるのだが、スピーカーによってはっきりと内容が聞き取れてしまうと、不思議と人は耳を貸さなくなるように思える。
またこれだけ大規模に(地球上で最も人手の多い街で!)デモ行進をするのだから、多少なりとも「迷惑をかけている」といった呵責があってもよさそうだが、期待するだけムダというもの。なぜなら彼らは「公認されたマイノリティ」であるから、爆音で政府を糾弾しても「正義」なのです。一方的に「正義」を訴えることほど傲慢なものはないはずなのですが、結局彼らには自分と敵以外の人々、つまり彼らの行動にまったく無関心な人々や、僕のような「うるさい」のが苦手な、言い換えれば「非公認のマイノリティ」の気持ちなどまったく眼中にないのです。
これに関しては、図書館の館内呼び出しも同様。学生証を忘れたりするのは基本的に自分の責任なんだから、それくらい自分で気付いて探せ!といつも思う(今度自分が呼び出されたら、「必要ありません」と言うつもりだ)。なぜなら、そんな一個人の過失によって本人以外の圧倒的多数にスピーカー(概して音量はでかすぎで音質は最悪!)砲撃を浴びせかけるのは、やはり不合理だと考えるから。
話がややずれたが、結局今回の一件も、中身はよくても方法が(僕にとっては)よくない。これだけ科学技術が発達しているのだから、もっと音量・音質に配慮した拡声器でもできないのだろうか。
写真は5月27日午後2時ごろの国連大学の前を通り抜けるデモ。
「5・27国民大行動」と銘打たれたこのデモ行進は、全国労働組合連絡協議会(全労連)と単一産業別組合(単産)が中心となり組織された政府への抗議を示すものです。「憲法改悪を許すな!」とか「愛国心教育やめろ!」などの怒号とともに、全長数キロはあろう人々の列はこのあと国道246号線を東に向かっていきました。
いわゆる「左」(断っておきますが、右とか左とか、リアリストとかイデアリストといった二分法による世の中の説明の仕方は非常にわかりやすく便利であることは間違いないでしょう。しかし、それは必ずしも万能ではなく、不当なレッテルやスティグマを生む可能性を常に孕んでいます。僕自身の認識としては、このような議論の仕方を好む人はおしなべて怠惰な思考回路をお持ちであると思っています。)寄りの論調です。よって冒頭に述べたとおり、都会のど真ん中であれだけの規模で展開されても、新聞・TV・ネットといった大手メディアにおける扱いは微微たるものでした。メディアが彼らを取り上げないのは政治報道的ヒエラルキーの最下位に属すべき共産勢力がそのバックにいるため、というのは言うまでもないでしょう。
それはさておき、憲法改正にしても愛国心論議にしても、僕としては彼らの訴えに共感するところが多かった。多かったのだが、やっぱり「うるさい」のは許しがたいのである。
他人に自分の思想を伝えるというのは少なからず聞き手に迷惑をかけることは当然のことで、「それでも伝えたいことがある」という動機自体はいたって純粋であり、誰にでもその権利はある。しかし、今回のデモにしても、結局はスピーカーの轟音にまかせて「はんたーい!」「そうだー!」と叫ぶだけ。渋谷の買い物客をはじめとした一般市民にその思いはまず届かないだろう。
僕の印象では、行進者たちの肉声、どこかうなるような声が聞こえたときは「ありゃ何を訴えてやってるんだ?」と耳を傾けたくなった。そこから「知ろう」とする姿勢が芽生えるように思えるのだが、スピーカーによってはっきりと内容が聞き取れてしまうと、不思議と人は耳を貸さなくなるように思える。
またこれだけ大規模に(地球上で最も人手の多い街で!)デモ行進をするのだから、多少なりとも「迷惑をかけている」といった呵責があってもよさそうだが、期待するだけムダというもの。なぜなら彼らは「公認されたマイノリティ」であるから、爆音で政府を糾弾しても「正義」なのです。一方的に「正義」を訴えることほど傲慢なものはないはずなのですが、結局彼らには自分と敵以外の人々、つまり彼らの行動にまったく無関心な人々や、僕のような「うるさい」のが苦手な、言い換えれば「非公認のマイノリティ」の気持ちなどまったく眼中にないのです。
これに関しては、図書館の館内呼び出しも同様。学生証を忘れたりするのは基本的に自分の責任なんだから、それくらい自分で気付いて探せ!といつも思う(今度自分が呼び出されたら、「必要ありません」と言うつもりだ)。なぜなら、そんな一個人の過失によって本人以外の圧倒的多数にスピーカー(概して音量はでかすぎで音質は最悪!)砲撃を浴びせかけるのは、やはり不合理だと考えるから。
話がややずれたが、結局今回の一件も、中身はよくても方法が(僕にとっては)よくない。これだけ科学技術が発達しているのだから、もっと音量・音質に配慮した拡声器でもできないのだろうか。
写真は5月27日午後2時ごろの国連大学の前を通り抜けるデモ。