intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

テレビ時代の墨ぬり教科書

2007-01-16 | opinion
先日、フジテレビ系列「ジャンクSPORTS」をたまたま視聴した。すると、なにやら司会の浜田雅功が「アホ」(バカ?)という単語を発すると、「DANGER」という吹き出しが入るとともに、サイレンのような効果音が被せてあるのである。


プライバシーという不文律をタテに、いまやあらゆる番組に必須といっても過言ではないほど「自主規制の宝庫」となった日本のテレビ業界。しかし、これにはさすがにびっくりした。「アホ」すら言えぬ世の中になったのか。どう考えても、これは由々しき事態だろうに。


日本に限らず、近代以降の言論史は、表現の自由とプライバシーの侵害という対立概念の闘争史だった。戦前には発禁や伏字など、リベラル派の言論活動は厳しく弾圧、抑制された。戦後になっても、一次産業からサービス業への移行や核家族化の進展など、民衆が新たな個人主義的志向へと傾斜するにつれて、文人たちはさらなる苦境に立たされるようになった。その最たるものは、筒井康隆の「断筆宣言」に代表される言葉狩りの風潮である。


無論、――こうした考え方は個人的に好かないが――利益を上げなければならない企業の立場に立てば、自主規制は当然の成り行きだろう。実際に苦情を受ければ、少なからず損失をこうむる。組織である以上、そのツケは社員一人一人に回ってくる。となれば、ムリに危険な橋を渡る必要などないはずだ。


だが、ここには明らかに自己欺瞞が潜んでいる。つまり、「アホ」と連呼するいちタレントの無節操によってクレームが来るのであれば、そんなタレントは最初から起用するべきではない。万が一、予期せぬ状況でこうした自主規制語を発してしまったとすれば、カフを入れるといったみみっちいことはよして、編集で該当シーンをすべて削ればいいのである。もちろん、これは倒錯的意見であって、絶対にそんなことはしない。なぜなら、その「政治的に正しい」(politically correct)番組は、理屈ぬきで「数字が取れない」番組だから。


もしかしたら、テレビ業界に暮らす人々は、モザイクやカフといった自主規制装置を使用せざるを得ない状況を、検閲の目に怯えながらも自分自身の反ファシズム体制的エートスを保つために伏字を用いた、戦前の知識人たちの境遇と重ねているのかもしれない。「オレたちだって、息苦しさを感じながら番組を作っているんだ!」ということを、こういう演出によって示そうとしているのかもしれない。考えすぎかもしれないが、そう読みとれないこともない。もっとも、この仮定が妥当性を持つとすれば、現代の言論界は戦前の社会水準に立ち戻ったことになるわけだが。


おもろうて、やがて悲しき芸人は、どこへ行ったのか。


MUSIC:Sunday Morning (by Maloon 5) / 土岐麻子


HATSU-MODE 2007 KASHIMA ①…色の聖地

2007-01-03 | traveling
2005年の仙台・平泉、2006年のおいせ参りに引き続き、今年は茨城・鹿島神宮へ足を運んでみた。同行者を伴ってのツアー形式は頓挫したが、存続の危機に瀕している「カシテツ」こと鹿島鉄道を含め、気の向くままに電車を乗りまわすことができた。見聞録まがいにメモしたものをベースに、紀行文風に書き連ねてみたい。


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一月二日、午前九時二分。西武多摩川線上り電車に飛び乗った僕は、まだ眠気を引きずっていた。

武蔵境に到着すると、JR東日本ホリデーパス(¥2300)を購入した。これで千葉県の成田、および茨城県の土浦までがフリーエリアとなる。錦糸町での接続を考慮し、三鷹から中央・総武緩行線に乗り換える。四十五分ほどで錦糸町に到着。下車し、総武快速線ホームへ。待ち時間、この町で働く友人になんとなくメッセージを送る。内容は無い。

成田空港行き・快速エアポートは、乗客もまばらに快調に飛ばしていたが、千葉でどっと人が乗り込んできた。まさか、とは思いながらも、酒々井(しすい)を過ぎたあたりで気付く。「これは、成田山にいくのでは…?」

十一時四十一分、成田着。予感は的中する。乗客の八割強はそのまま改札へと向かい、五番線に停車中の鹿島神宮行きに乗り換える人は少数。やはり、千葉県民にとっては常陸の国一ノ宮など眼中になかったのだ――そう、去年「おいせ参り」で目の当たりにした群衆の津波が、悪夢のように僕の脳裏をかすめていったのである。千葉で感じたこの一抹の不安は、ボックスシートに腰掛けるとともにすっと消え去っていった。四人掛けの座席に二人ずつほどの乗車率に、僕は思わずほくそ笑むのである。

「総武房総路線図」を掲げる111系列車は、都会の車両に慣れた身体に単線らしい揺れを敏感に感じさせる。ただ、車外にはなんの変哲もない田園風景が繰り返され、車内にはけだるい空気感が漂っている。乗客もみなどこか「茨城気質」のようなものを身にまとっていた。車内に、茨城県民の日常と都会っ子の非日常が錯綜する。

総武線~成田線~鹿島線と、二時間強もの時間をかけた「かい」を与えてくれるのは、湿地に次ぐ湿地の果てに現れる霞ヶ浦だろう。この日、空はグレーの厚い雲に覆われていたが、なぜか二年前に見た仙石線の仙台行き列車から見た、果てしない地平を覆いつくす朝焼けを想起させるものがあった。

北利根川を越え、日本のヴェニス・潮来へ。すれたダッフルコートの親子が乗り込んでくる。一時間に一本というダイヤのせいもあって散策できなかったのだが、同じ「水郷」対決なら、長良川に軍配があがりそうだ。

線路をまっすぐ走ってきた列車は、延方を過ぎるとゆるやかにカーブした高架橋をつたって、北浦を越える。鹿嶋市の公式ホームページによれば、古代までは「現在の台地以外はすべて海で、筑波や銚子の方角から見ると独立した島のように見え」たという。水鳥が羽をはためかせながら一斉に逃げるようすを見ながら、離れ小島に向かう感覚は、天界への道を行くようだった。

とはいえ、こうした水辺の風景が現れるまでは、単調極まりない。そういえば、JRは各線にラインカラー(山手線=緑、中央線=オレンジ)をつけており、鹿島線のそれはおうど色である。季節のせいもあるが、車窓から望む色彩は否が応にもうんこのそれを想像させる。

十二時三十六分、鹿島神宮着。あくびすら出ない。味気無い旅だった。

HATSU-MODE 2007 KASHIMA ②初恋

2007-01-03 | traveling
駅前の案内板を読む。鹿島港、住友金属の鹿島製鉄所、鹿島アントラーズのクラブハウス、云々。「鹿嶋」という地名は、1995年に当時の鹿島町と大野村が合併して鹿嶋市となったことに由来する。「鹿島臨海工業地帯」は、現役の日能研生なら押さえておきたい単語だろう。

地元のスネた高校生が、駐車場整理のバイトをしている。坂道を駆け上がり、賑わう屋台の軒並みを通り抜け、神宮本殿へ向かう。

十円玉と五円玉を一枚ずつ賽銭箱に放り込み、ただ手を合わせる。ふつうは願い事をするのだろうが、明治以来の「作られた伝統」である二礼二拍手一礼の作法とともに、何を願うべきなのか?そんな要領を得ない思いがいつもあって、ただ首を垂れることにしている。
*追記 「ただ首を……」とかいいつつ、しっかり周りの人の動作から大きくずれないように、礼と拍手をしていたことは言うまでもない。僕も所詮、日本人なのだ。

本殿から先は土床になっている。当然、かつては玉砂利だった(らしい)。戦国期、「剣聖」とも呼ばれた塚原ト伝(ぼくでん)の生誕地でもある鹿島。武力の神といわれる武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祭神とする神宮も時代の波には勝てず、過去の威厳よりも利便性ないし合理性におもねったということか?

説明も親切な看板に従うように歩いていく。「君が代」にも登場するさざれ石(正しくは石灰質角礫岩。石灰石が長い年月のうちに雨水で解けたもの)、アントラーズよろしくの鹿園、地震の守り神といわれる要石などを見物。人はそこまで多くない。

奥宮の横道を下ると、御手洗(みたらし)へ。いわば水たまりで、かつて参拝者はここで身体を清めてから参殿した。みそ味みたらしだんご(¥300)、焼きそば(目玉焼き付、¥500)を喰らいながら、「勝守」というお守りを買っておく。ギャンブルなどにご利益があっても仕方ないのだが、プリントされた武甕槌大神がちょっとカッコよかったので。

ところで、このだんごやさんの売り子のおねえさん。ニット帽をやや深めにかぶり、小粋な声で客引きをする彼女に、僕は一瞬で恋をしてしまった。グッときたところは次のとおり。だんごやの隣には土産店があり、そこにはラーメンを売っているボウズ(高校生くらい)がいた。反抗期とおぼしきシャイボーイは、売り子の声をあげたがらない。それを見かねたのか、おねえさんは、

「ラーメンもいいですよぉ、あったまりますよぉ」

ああ、今でもその姿をありありと思い出すことができるのだから、ぞっこんだ。なんとかしてお近づきになれぬものか。

それにしても、屋台の女性はどうして魅力的なのだろう。その理由までは、どこの案内板にも書いていなかった。

HATSU-MODE 2007 KASHIMA ③灯り

2007-01-03 | traveling
神宮を後にした僕は、十四時二十一分発の鹿島臨海鉄道大洗線・水戸行き列車に乗り込んだ。

同乗者には、自動テープによるアナウンス(ローカル線のそれは概してしつこい!)をまるごとリピートする障害者(自閉症かなあ)がいた。後ろのおじいさんがうるさいうるさいと半分キレていて、ちょっと不穏なムード。でも申し訳ないけど、たしかにうるさかった。「ちょうじゃがはましおさいはまなすこうえんまえ」なんていう駅に停車した日には、耳を塞ぐ術もない。

果てしなくまっすぐなレールに、時より片側一面ホームが寄り合っている。沿線風景はさらに単調で、萎えることしきり。北浦湖畔の前あたりで、山々の合間を進むようになり、やっと「見どころ」と思える地点に。だが、こんな遠くまで来なくても、八高線や秩父鉄道で事足りる風景だった。

新鉾田駅に到着。人の良さそうな駅長さんに、記念にきっぷをもらいたい旨を伝えるとともに、カシテツの駅までの道のりを尋ねる。下調べの段階でだいたいの目星はついていたが、接続に余裕がないため念を押したのだ。案の定、「歩いて20分」と聞いていたにもかかわらず、駅前商店街にはなんの標札や矢印もなく、焦るハメに。

やっと発見した鉾田駅は、噂通りの佇まいだった。カシテツを愛する学生が作った横断幕には、「かしてつ応援団」「かしてつを救え」の文字。到着したKR505車両からは、トレインスポッター(鉄道マニア)たちがぞろぞろ。人込みを避けたい僕にとって、鉾田始発はこれまた大正解だった。

中吊りもまばらな車内。異彩を放っているのは、『鹿島鉄道応援ソング「鉾田線~いろんな夢がある」1000円』の広告だ。四曲入りCDの内容は以下の通り。

 1.鉾田線
 2.飛鳥寺
 3.未来へ走れ 鹿島鉄道
 4.鉾田線(カラオケバージョン)

フォーク系が多いのだろうか。個人的にはM2を聴いてみたい。

十五時二十六分、カシテツは軽快かつ小粋に走り出した。思いのほかスピードが上がっていく。いきなり原生林の中へ入っていくと、坂戸に到着。鹿島臨海鉄道で浴びせかけられたアナウンスの洪水もなく、音量は――まあ、あれが最大出力だったようだが――限りなく絞られていた。

唸りをあげるディーゼルエンジン。横揺れとともに心地よい振動が伝わる。途中、何度か車内備え付けのカーテンの「びりびり」に、被っていたニット帽がひっかかる。

カシテツへの愛はここそこに溢れていた。駅舎(玉造町など)や車両にはイルミネーションが施され、鉄道マニアばかりが乗り合わせている電車に「バイバーイ」と手を振る子供(と、それに応えるマニアたち)。カシテツ応援団加盟16生徒会による、チープながら憎めない演出だ。

車窓は、浜を過ぎたあたりから再び霞ヶ浦を望む。霞みの向こうには山の稜線が威風堂々とした姿を披露してくれた。あの双子の山は、どこの山だったのだろう。時おり、エンジンをふかさずに惰性走行するカシテツは、優しいレール音を響かせる。これがまた眠気を誘う。桃浦から先、浦にそって土手が続いていく。自転車や軽トラックが夕陽をバックに走っている。デートで歩ける。

十六時三十六分。列車は定刻通り、イルミネーションに包まれた石岡駅ホームに滑り込んだ。殺風景なJR線ホームに移動し、常磐線で土浦まで戻ると、腹は減らねど駅そばを喰らう。茨城県内に店舗を展開する華月庵の天ぷらそば(¥350)にチャレンジ。麺にコシはあるが、天ぷらはやわらかすぎて喰いごたえがない。つまり、すべてにおいてパンチがないのだ。「どれも何といおうか、記憶に残らないチェーン店の味になってしまっている」(原武史「味覚の文化遺産「駅そば」ロマン紀行」『現代』2006年12月号)とは、知らなんだ。

窓の外はもう暗くなっていた。藤代―取手間の死電区間(直流と交流が切り替わるため、車内の電気が一度ストップする区間)にさしかかると、僕は非常電燈のほのかな灯りを眺めながら、カシテツと自らの行く末に思いを馳せた。ここで僕の記憶もストップする。眠りから醒めると、電車は松戸に停車していた。終点の上野が近づく。

鹿島神宮で引いたおみくじには、「願い事 一度は叶う」とあった。さあ、今年も生きていかなければ。

<了>