「ヒト・モノ・カネが一瞬で移動する時代になり…」というのはもはやテストの回答の常套句になったが、今日一日でそれをまた強く認識した。
まず第一に、占いを信じる人がいればいて座の運勢は最悪だったことでしょう。特にレジャー運。買いたてのチャリで渋谷まで出かけたのですが用賀まできたところで側道から出てきた車の出現に慌ててブレーキをかけたせいでジャックナイフ状態になり、チャリは転倒。それだけでなんと、サドルのシートの部分がはずれ、ギアがイカれました。
桜新町までとりあえず立ちこぎで進み、交番で道を聞いてローカルな自転車へ駆け込む。事情を説明すると、彼らの手の及ぶような壊れ方ではないと言われてしまい、泣く泣く新品のサドルを購入(ギアはとりあえず走れたので申告せず)。ダサイのに¥3000が消えていった。
その店長に言われた言葉の重みといったら。
「ホントにねー最近はサドルのシートの皮があり得ない感じにやぶけちゃったりね、おたくみたいにシートはずれちゃったりとかね、もうホント我々の常識からは考えられないようなことが起きてるんだよねー。アンタの自転車も値段はいいけど細かいとこは一番安いような部品でできてるし、今こーいうやつがホント多いんだよね。(ネットで2万で買ったので)だからね、次買うときは家の近くの自転車屋さんで買いなね。長期的に見れば面倒みもいいし、親切なはずだから。」
サンフランシスコにいったときもウォルマートでチャリを(70ドルくらいで)買ったのだがこれも同様に3日でパンクした。これを修理してもらったフィッシャーマンズワーフ付近の自転車屋さんの若店主も「これはチープだね」といっていたことを思い出した。
なんでも安く、どこでも手に入る世の中だが、そこにいたはずの職人達の技は確実に消え去りつつある。次は絶対調布のサイクルプラザコバヤシで買うわ。
さてもう一点、グローバル化の象徴といえば「スーパーサイズ」。やっと見れました。これもぶっ飛んだ映画だったのだが、やはり一定の効果はあったようですね。実際にスーパーサイズがなくなったというし。しかし最近街中に外国人観光客が本当に多いですが、アメリカ人は一目でわかるもんな。
MUSIC:Fly/スパルタローカルス
まず第一に、占いを信じる人がいればいて座の運勢は最悪だったことでしょう。特にレジャー運。買いたてのチャリで渋谷まで出かけたのですが用賀まできたところで側道から出てきた車の出現に慌ててブレーキをかけたせいでジャックナイフ状態になり、チャリは転倒。それだけでなんと、サドルのシートの部分がはずれ、ギアがイカれました。
桜新町までとりあえず立ちこぎで進み、交番で道を聞いてローカルな自転車へ駆け込む。事情を説明すると、彼らの手の及ぶような壊れ方ではないと言われてしまい、泣く泣く新品のサドルを購入(ギアはとりあえず走れたので申告せず)。ダサイのに¥3000が消えていった。
その店長に言われた言葉の重みといったら。
「ホントにねー最近はサドルのシートの皮があり得ない感じにやぶけちゃったりね、おたくみたいにシートはずれちゃったりとかね、もうホント我々の常識からは考えられないようなことが起きてるんだよねー。アンタの自転車も値段はいいけど細かいとこは一番安いような部品でできてるし、今こーいうやつがホント多いんだよね。(ネットで2万で買ったので)だからね、次買うときは家の近くの自転車屋さんで買いなね。長期的に見れば面倒みもいいし、親切なはずだから。」
サンフランシスコにいったときもウォルマートでチャリを(70ドルくらいで)買ったのだがこれも同様に3日でパンクした。これを修理してもらったフィッシャーマンズワーフ付近の自転車屋さんの若店主も「これはチープだね」といっていたことを思い出した。
なんでも安く、どこでも手に入る世の中だが、そこにいたはずの職人達の技は確実に消え去りつつある。次は絶対調布のサイクルプラザコバヤシで買うわ。
さてもう一点、グローバル化の象徴といえば「スーパーサイズ」。やっと見れました。これもぶっ飛んだ映画だったのだが、やはり一定の効果はあったようですね。実際にスーパーサイズがなくなったというし。しかし最近街中に外国人観光客が本当に多いですが、アメリカ人は一目でわかるもんな。
MUSIC:Fly/スパルタローカルス
よってチョコラBB投入す。
テストと酒盛りでノックダウン寸前の昨晩、高校からの友人であり、ceroという3ピースのバンドをやっているタカギさんからTELが入った。久々やな、と思う間もなく、
「ウェイ?」
「田淵ひさ子にあったよ」
「キュィ!」
「あんまり話食いついてくれなかった」
「あらー」
「スカートはいてた」
「にゃんにゃ!」
など。また屋久島、最近作ったCD、ストイックさなどの話をして会話は終わった。
There is no blame.
もう「モンク」の叫びは聞きたくないので、しばらく学校には行きたくありません。そのかわり少年アシベを見よう。夏休みでよかった。
「テレビとか ビデオとか
電話とか そんなにいいのかい
ぼくの方がいいのに ぼくがここにいるのに」
MUSIC:ぼくの方がいいのに/ウルフルズ
テストと酒盛りでノックダウン寸前の昨晩、高校からの友人であり、ceroという3ピースのバンドをやっているタカギさんからTELが入った。久々やな、と思う間もなく、
「ウェイ?」
「田淵ひさ子にあったよ」
「キュィ!」
「あんまり話食いついてくれなかった」
「あらー」
「スカートはいてた」
「にゃんにゃ!」
など。また屋久島、最近作ったCD、ストイックさなどの話をして会話は終わった。
There is no blame.
もう「モンク」の叫びは聞きたくないので、しばらく学校には行きたくありません。そのかわり少年アシベを見よう。夏休みでよかった。
「テレビとか ビデオとか
電話とか そんなにいいのかい
ぼくの方がいいのに ぼくがここにいるのに」
MUSIC:ぼくの方がいいのに/ウルフルズ
「Blue in Green」で涙するキセツもそろそろ明けて、bonobosとスクービードゥーで跳ねた夏がやってきます。
この夏が終わると皆こぞってスーツという名のsocial codeを身にまとうのでしょう。今日はちょっとその話を。
前にどこかで書いた気もしますが、僕の持論では「見かけで人を判断するな」はウソです。ことファッションに関してですが、そこには必ずその人なりの個性やアイデンティティを反映するものがあって、たとえそのオレンジ色のフリースが、色の薄いジーンズが、ユニクロのトランクスが親などが買ってきたものであったとしても、それを是としている自分なりの価値観が反映されているに違いないからです(それを拒否するだけのこだわりがあるのなら、死活的な金銭的問題がない限り自分なりの服を選ぼうとするからだと思う)。
だから学校で見るピンクのキャンパスバックを持ってる女の子を与することは、僕にとっては第二の電車男が生まれるくらいの確率でない。
よって、服装は十分にsocial codeを表すものであるといえます。そう、大人になったらスーツを着てればいいのです。礼儀正しさはもちろん大事ですが、まともな人と判断されるには会社でも営業でも結婚式(これはちょっと異論アリですが)でも同じ格好をしていればいいのです。ああ、なんてつまらないんでしょう。
ならば学生服はどうか、とも考えます。でもこれは(僕は決して「愛国心」的な思想を一概に支持するものではありませんが)一応その所属校を表現するという点でオリジナルであるといえるので、僕の懸念するsocial codeとは一線を置くものだと考えます。もちろん人によっては「なんでこんなスカスカしたスカートはかにゃならんのだ」とかいう思いを経験してきた人がいることも理解できますが。
スーツというものは違う。少なくとも僕にとってはまったく気に入らない存在で、あれが日本人の働く姿だと思いたくもないし外の人にそう思ってほしくもない。みな一様に襟付きのシャツでボタンは3つが限度のジャケットを着て、ダサい靴下に硬くて歩きにくいクツを履かなければ「はい失格」の世界。本当にイヤだ。こういう話をすると「じゃあ(就職は)アパレル関係だね」とかいわれますが、そういう問題ではない。こういう社会全体に僕は嫌悪感を覚えるものなのです。礼儀と服装、そりゃある程度はピシッとしているのが望ましいですが、それを画一化する必要って本当にあるんでしょうか。みなさんは無抵抗にスーツを着られてるんでしょうか。それが「大人」みたいに思ってるんでしょうか。本当に疑問。
ちなみに、僕の敬愛するファッションリーダー(下半身)は勝俣洲和。また昨今のクールビズ、これも現状変革のひとつとして評価したい。
この夏が終わると皆こぞってスーツという名のsocial codeを身にまとうのでしょう。今日はちょっとその話を。
前にどこかで書いた気もしますが、僕の持論では「見かけで人を判断するな」はウソです。ことファッションに関してですが、そこには必ずその人なりの個性やアイデンティティを反映するものがあって、たとえそのオレンジ色のフリースが、色の薄いジーンズが、ユニクロのトランクスが親などが買ってきたものであったとしても、それを是としている自分なりの価値観が反映されているに違いないからです(それを拒否するだけのこだわりがあるのなら、死活的な金銭的問題がない限り自分なりの服を選ぼうとするからだと思う)。
だから学校で見るピンクのキャンパスバックを持ってる女の子を与することは、僕にとっては第二の電車男が生まれるくらいの確率でない。
よって、服装は十分にsocial codeを表すものであるといえます。そう、大人になったらスーツを着てればいいのです。礼儀正しさはもちろん大事ですが、まともな人と判断されるには会社でも営業でも結婚式(これはちょっと異論アリですが)でも同じ格好をしていればいいのです。ああ、なんてつまらないんでしょう。
ならば学生服はどうか、とも考えます。でもこれは(僕は決して「愛国心」的な思想を一概に支持するものではありませんが)一応その所属校を表現するという点でオリジナルであるといえるので、僕の懸念するsocial codeとは一線を置くものだと考えます。もちろん人によっては「なんでこんなスカスカしたスカートはかにゃならんのだ」とかいう思いを経験してきた人がいることも理解できますが。
スーツというものは違う。少なくとも僕にとってはまったく気に入らない存在で、あれが日本人の働く姿だと思いたくもないし外の人にそう思ってほしくもない。みな一様に襟付きのシャツでボタンは3つが限度のジャケットを着て、ダサい靴下に硬くて歩きにくいクツを履かなければ「はい失格」の世界。本当にイヤだ。こういう話をすると「じゃあ(就職は)アパレル関係だね」とかいわれますが、そういう問題ではない。こういう社会全体に僕は嫌悪感を覚えるものなのです。礼儀と服装、そりゃある程度はピシッとしているのが望ましいですが、それを画一化する必要って本当にあるんでしょうか。みなさんは無抵抗にスーツを着られてるんでしょうか。それが「大人」みたいに思ってるんでしょうか。本当に疑問。
ちなみに、僕の敬愛するファッションリーダー(下半身)は勝俣洲和。また昨今のクールビズ、これも現状変革のひとつとして評価したい。
夜通しSAKE飲んで酩酊電車は京王八王子行き。
世の中には二律背反なるものが多すぎます。人恋しいと思うとき多々あれば今日みたいに孤独を貫いたり、話を聞いてみたい、あげたいと思うときあれば「うわー、その自己顕示欲ウザっ」となることもしばしば。期待と不安がいったりきたり。
譲ったり、独り占めしたり。これもそうだ。でも周りに目が行ってしまうソンな性格の私はしょっちゅう、「いいひと」と「おひとよし」の狭間を彷徨い、結局酩酊に到る。今朝の空の青白さはとてもスキだ。「Kimochi」を中目黒の公園で一人歌う自分は、決していい状態とは思わないが。
きさまにーつたえたいーおれのこーのーきもちをー
Appetiteという言葉にすべて収斂されるように思う。
世の中には二律背反なるものが多すぎます。人恋しいと思うとき多々あれば今日みたいに孤独を貫いたり、話を聞いてみたい、あげたいと思うときあれば「うわー、その自己顕示欲ウザっ」となることもしばしば。期待と不安がいったりきたり。
譲ったり、独り占めしたり。これもそうだ。でも周りに目が行ってしまうソンな性格の私はしょっちゅう、「いいひと」と「おひとよし」の狭間を彷徨い、結局酩酊に到る。今朝の空の青白さはとてもスキだ。「Kimochi」を中目黒の公園で一人歌う自分は、決していい状態とは思わないが。
きさまにーつたえたいーおれのこーのーきもちをー
Appetiteという言葉にすべて収斂されるように思う。