最近、偉そうに語る自分がとみにイヤに思えて仕方ありません。ある鋭い友人の指摘で、コミュニケーションに限らず社会全体に対する姿勢が「オレの話を聞け!」式になっていることを見透かされてしまい、どうにもならない気分になることもしきりです。
ところで。以前このブログでも紹介した『ローリングストーンズのライブを見たあとで友達Bに「イマイチだったね」といったら「お前とはもうライブなんか行かない!」と言われてしまったAくん』の話をある友人Xにしたのですが、意外な見解を得ました。彼の言い分は「ろくに理由も聞かずにAを断罪したBにも『聞かない権利』があるんじゃないか?」というもの。
このXの主張はいわゆるプルーラリズム(多元主義)的な根拠にもとづくもののようです。「みんなちがって、みんないい」式の視点であるともいえます。言うも言わぬも、聞くも聞かぬも個人次第。「Bよ、そう安易に切り捨てないで少し理由を聞いてくれ!」というAの思いは、時に迷惑でおせっかいでしかない。
こういう悩み、つまり「私と他者の関係」といった果てしない命題は、初夏の陽気にやられ気味の僕にべったりと張り付いています。とにかく、今思っていることを吐き出さねば!
まず、コミュニケーションにおいて理由を求めてはならないのでしょうか。あるいはその「手間」を惜しまないことは、正当化されるのでしょうか。理屈をいってはいけないのでしょうか。「おせっかい」は常に悪なのでしょうか。
もちろん、誰でも「話したくない」瞬間がいくらでもあると思います。もううんざりだ、顔も見たくない、できることならこの世から(せめて私の行動範囲から)いなくなってほしい、と思うこともしきりでしょう。
しかし今件に限って、AとBは友人です(以下、ここでは「友人関係」における「手間」に絞って話をします)。ライブに行くまでは、あるいはライブを見ているときまでは、なんら普通の人間付き合いをしていたはずです。それなのに、ひとつ意見が食い違うだけで、なんら理由も聞かずに相手を断罪することは「みんなちがって…」の枠内で片付けられることなのでしょうか。つまり、「一切の理由を聞こうとしない」人の意志と「せめてこっちの言い分を聞いてほしい」人の意志は同程度に扱われてしかるべきなのでしょうか(ここ、表現が難しい)。
ここで僕は「手間」というプロセスを重視したいのです。簡単に言えば、一度でいいのでAに弁明の余地を与えてあげてほしい。それを聞いてから判断してあげてほしい。そのかわり、どういう返事・レスポンスであれその結論は甘んじて受ける。これは、あらゆる「発信者」に共通する想いであると信じています。それは人間の純然たる欲求だから(いや、ホントにそうだろうか)。
ただ、その発信の方法論については熟考の余地があるでしょう。たとえば私事になるけれど、先日図書館に入る館内放送に対して口頭および投書による抗議をしました。簡単にいうと、静粛の場であるべき図書館に無神経な館内放送(轟音!)を入れることはおかしい、ということを主張したのですが、このときも「抗議したいな」「文句いおうかな」「そろそろガマンできんな」「ムキーーッ!」という、小さいながらも不満の種を自分の中で育ててから行動に移しました。つまり、発信のしかた(「凶器を持って殴りこみはしない」)やそのプロセス(「数ヶ月は我慢した」)に自他がある程度納得できるぐらいの配慮ができれば、そして実際に発信した後に襲われる(はずの)自責の念があれば、その欲求は許されるべきだと思うのです(ただし残念なことは、この許容範囲には明確な規定がないことです)。
少し話をずらして、コミュニケーションに「手間」をかけることの素敵さについて、英英辞書の例を用いてプレゼンしてみましょう。
過日、これまたある友人の誕生日に贈る寄せ書きにメッセージを載せました。何を書こうかしらん、と悩むフリをしていたのですが、すでに頭の中には答えは出ていました。
With all the gratitude I could muster.
かつて読んだ小説にこんな一節があったので、使ってみようと思ったわけです。しかし、よく考えてみるとそのまま使うには「ん?」と首をかしげるところがあることに気付いた。“gratitude”でいいんかいな。
ここで、OXFORD現代英英辞書を紐解く。
-gratitude
the feeling of being grateful and wanting to express your thanks:
(ありがたく思い、感謝の気持ちを表したくなるような気持ち)
誕生日の人に「感謝」してもしょうもないなあ…。
そこでいろいろ辞書を引き引きして辿りついたのが、この単語。
-felicity
great happiness / the quality of being well chosen or suitable:
(大きな幸せ/選ばれたもの、適格であること)
これだ!とつい声があがりましたよ。スパングル~のレーベル名だったんですが、いいことばです。
よりわかりやすい例をもうひとつ。あなたはどちらの「誠実」?
-sincere
showing what you really think or feel / saying only what you think or feel
(本当に思っている、感じていることのみを述べること)
-honest
always telling the truth, and never stealing or cheating / not hiding the truth about something
(常に真実を述べ、盗んだりズルしたりしないこと/真実を隠さないこと)
もちろん、この逆の例(英語ではひとつでも、日本語では豊かな表現)もたくさんあります。
ずいぶんと脱線した気がするけれど、ともかく相手のことばを読み取ろう、あるいは自分のことばを巧みに操ろうとする「手間」を惜しむことだけは、ちょっと受け入れがたいなあ、ということを「聞いてほしい」がためにこんな乱筆の長文となりました。はあ。
あとがき
全体を見直しても、まとまりがなさすぎる分校正が効きませんな。おわびに日本語が豊かな一例を。
「しんそう」は、「深層」とも「真相」とも読めます。
真実はやっぱり深いところにある、と信じたいものです(ホントは深くも浅くもないところ(=はざま)にあると思ったりするが、少なくとも浅いところにはないはずだ)。
ところで。以前このブログでも紹介した『ローリングストーンズのライブを見たあとで友達Bに「イマイチだったね」といったら「お前とはもうライブなんか行かない!」と言われてしまったAくん』の話をある友人Xにしたのですが、意外な見解を得ました。彼の言い分は「ろくに理由も聞かずにAを断罪したBにも『聞かない権利』があるんじゃないか?」というもの。
このXの主張はいわゆるプルーラリズム(多元主義)的な根拠にもとづくもののようです。「みんなちがって、みんないい」式の視点であるともいえます。言うも言わぬも、聞くも聞かぬも個人次第。「Bよ、そう安易に切り捨てないで少し理由を聞いてくれ!」というAの思いは、時に迷惑でおせっかいでしかない。
こういう悩み、つまり「私と他者の関係」といった果てしない命題は、初夏の陽気にやられ気味の僕にべったりと張り付いています。とにかく、今思っていることを吐き出さねば!
まず、コミュニケーションにおいて理由を求めてはならないのでしょうか。あるいはその「手間」を惜しまないことは、正当化されるのでしょうか。理屈をいってはいけないのでしょうか。「おせっかい」は常に悪なのでしょうか。
もちろん、誰でも「話したくない」瞬間がいくらでもあると思います。もううんざりだ、顔も見たくない、できることならこの世から(せめて私の行動範囲から)いなくなってほしい、と思うこともしきりでしょう。
しかし今件に限って、AとBは友人です(以下、ここでは「友人関係」における「手間」に絞って話をします)。ライブに行くまでは、あるいはライブを見ているときまでは、なんら普通の人間付き合いをしていたはずです。それなのに、ひとつ意見が食い違うだけで、なんら理由も聞かずに相手を断罪することは「みんなちがって…」の枠内で片付けられることなのでしょうか。つまり、「一切の理由を聞こうとしない」人の意志と「せめてこっちの言い分を聞いてほしい」人の意志は同程度に扱われてしかるべきなのでしょうか(ここ、表現が難しい)。
ここで僕は「手間」というプロセスを重視したいのです。簡単に言えば、一度でいいのでAに弁明の余地を与えてあげてほしい。それを聞いてから判断してあげてほしい。そのかわり、どういう返事・レスポンスであれその結論は甘んじて受ける。これは、あらゆる「発信者」に共通する想いであると信じています。それは人間の純然たる欲求だから(いや、ホントにそうだろうか)。
ただ、その発信の方法論については熟考の余地があるでしょう。たとえば私事になるけれど、先日図書館に入る館内放送に対して口頭および投書による抗議をしました。簡単にいうと、静粛の場であるべき図書館に無神経な館内放送(轟音!)を入れることはおかしい、ということを主張したのですが、このときも「抗議したいな」「文句いおうかな」「そろそろガマンできんな」「ムキーーッ!」という、小さいながらも不満の種を自分の中で育ててから行動に移しました。つまり、発信のしかた(「凶器を持って殴りこみはしない」)やそのプロセス(「数ヶ月は我慢した」)に自他がある程度納得できるぐらいの配慮ができれば、そして実際に発信した後に襲われる(はずの)自責の念があれば、その欲求は許されるべきだと思うのです(ただし残念なことは、この許容範囲には明確な規定がないことです)。
少し話をずらして、コミュニケーションに「手間」をかけることの素敵さについて、英英辞書の例を用いてプレゼンしてみましょう。
過日、これまたある友人の誕生日に贈る寄せ書きにメッセージを載せました。何を書こうかしらん、と悩むフリをしていたのですが、すでに頭の中には答えは出ていました。
With all the gratitude I could muster.
かつて読んだ小説にこんな一節があったので、使ってみようと思ったわけです。しかし、よく考えてみるとそのまま使うには「ん?」と首をかしげるところがあることに気付いた。“gratitude”でいいんかいな。
ここで、OXFORD現代英英辞書を紐解く。
-gratitude
the feeling of being grateful and wanting to express your thanks:
(ありがたく思い、感謝の気持ちを表したくなるような気持ち)
誕生日の人に「感謝」してもしょうもないなあ…。
そこでいろいろ辞書を引き引きして辿りついたのが、この単語。
-felicity
great happiness / the quality of being well chosen or suitable:
(大きな幸せ/選ばれたもの、適格であること)
これだ!とつい声があがりましたよ。スパングル~のレーベル名だったんですが、いいことばです。
よりわかりやすい例をもうひとつ。あなたはどちらの「誠実」?
-sincere
showing what you really think or feel / saying only what you think or feel
(本当に思っている、感じていることのみを述べること)
-honest
always telling the truth, and never stealing or cheating / not hiding the truth about something
(常に真実を述べ、盗んだりズルしたりしないこと/真実を隠さないこと)
もちろん、この逆の例(英語ではひとつでも、日本語では豊かな表現)もたくさんあります。
ずいぶんと脱線した気がするけれど、ともかく相手のことばを読み取ろう、あるいは自分のことばを巧みに操ろうとする「手間」を惜しむことだけは、ちょっと受け入れがたいなあ、ということを「聞いてほしい」がためにこんな乱筆の長文となりました。はあ。
あとがき
全体を見直しても、まとまりがなさすぎる分校正が効きませんな。おわびに日本語が豊かな一例を。
「しんそう」は、「深層」とも「真相」とも読めます。
真実はやっぱり深いところにある、と信じたいものです(ホントは深くも浅くもないところ(=はざま)にあると思ったりするが、少なくとも浅いところにはないはずだ)。