intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

表層と深層

2006-06-30 | ライフサイクル
最近、偉そうに語る自分がとみにイヤに思えて仕方ありません。ある鋭い友人の指摘で、コミュニケーションに限らず社会全体に対する姿勢が「オレの話を聞け!」式になっていることを見透かされてしまい、どうにもならない気分になることもしきりです。


ところで。以前このブログでも紹介した『ローリングストーンズのライブを見たあとで友達Bに「イマイチだったね」といったら「お前とはもうライブなんか行かない!」と言われてしまったAくん』の話をある友人Xにしたのですが、意外な見解を得ました。彼の言い分は「ろくに理由も聞かずにAを断罪したBにも『聞かない権利』があるんじゃないか?」というもの。


このXの主張はいわゆるプルーラリズム(多元主義)的な根拠にもとづくもののようです。「みんなちがって、みんないい」式の視点であるともいえます。言うも言わぬも、聞くも聞かぬも個人次第。「Bよ、そう安易に切り捨てないで少し理由を聞いてくれ!」というAの思いは、時に迷惑でおせっかいでしかない。


こういう悩み、つまり「私と他者の関係」といった果てしない命題は、初夏の陽気にやられ気味の僕にべったりと張り付いています。とにかく、今思っていることを吐き出さねば!


まず、コミュニケーションにおいて理由を求めてはならないのでしょうか。あるいはその「手間」を惜しまないことは、正当化されるのでしょうか。理屈をいってはいけないのでしょうか。「おせっかい」は常に悪なのでしょうか。


もちろん、誰でも「話したくない」瞬間がいくらでもあると思います。もううんざりだ、顔も見たくない、できることならこの世から(せめて私の行動範囲から)いなくなってほしい、と思うこともしきりでしょう。


しかし今件に限って、AとBは友人です(以下、ここでは「友人関係」における「手間」に絞って話をします)。ライブに行くまでは、あるいはライブを見ているときまでは、なんら普通の人間付き合いをしていたはずです。それなのに、ひとつ意見が食い違うだけで、なんら理由も聞かずに相手を断罪することは「みんなちがって…」の枠内で片付けられることなのでしょうか。つまり、「一切の理由を聞こうとしない」人の意志と「せめてこっちの言い分を聞いてほしい」人の意志は同程度に扱われてしかるべきなのでしょうか(ここ、表現が難しい)。


ここで僕は「手間」というプロセスを重視したいのです。簡単に言えば、一度でいいのでAに弁明の余地を与えてあげてほしい。それを聞いてから判断してあげてほしい。そのかわり、どういう返事・レスポンスであれその結論は甘んじて受ける。これは、あらゆる「発信者」に共通する想いであると信じています。それは人間の純然たる欲求だから(いや、ホントにそうだろうか)。


ただ、その発信の方法論については熟考の余地があるでしょう。たとえば私事になるけれど、先日図書館に入る館内放送に対して口頭および投書による抗議をしました。簡単にいうと、静粛の場であるべき図書館に無神経な館内放送(轟音!)を入れることはおかしい、ということを主張したのですが、このときも「抗議したいな」「文句いおうかな」「そろそろガマンできんな」「ムキーーッ!」という、小さいながらも不満の種を自分の中で育ててから行動に移しました。つまり、発信のしかた(「凶器を持って殴りこみはしない」)やそのプロセス(「数ヶ月は我慢した」)に自他がある程度納得できるぐらいの配慮ができれば、そして実際に発信した後に襲われる(はずの)自責の念があれば、その欲求は許されるべきだと思うのです(ただし残念なことは、この許容範囲には明確な規定がないことです)。


少し話をずらして、コミュニケーションに「手間」をかけることの素敵さについて、英英辞書の例を用いてプレゼンしてみましょう。


過日、これまたある友人の誕生日に贈る寄せ書きにメッセージを載せました。何を書こうかしらん、と悩むフリをしていたのですが、すでに頭の中には答えは出ていました。


With all the gratitude I could muster.


かつて読んだ小説にこんな一節があったので、使ってみようと思ったわけです。しかし、よく考えてみるとそのまま使うには「ん?」と首をかしげるところがあることに気付いた。“gratitude”でいいんかいな。


ここで、OXFORD現代英英辞書を紐解く。


-gratitude

the feeling of being grateful and wanting to express your thanks:

(ありがたく思い、感謝の気持ちを表したくなるような気持ち)


誕生日の人に「感謝」してもしょうもないなあ…。



そこでいろいろ辞書を引き引きして辿りついたのが、この単語。


-felicity

great happiness / the quality of being well chosen or suitable:

(大きな幸せ/選ばれたもの、適格であること)



これだ!とつい声があがりましたよ。スパングル~のレーベル名だったんですが、いいことばです。


よりわかりやすい例をもうひとつ。あなたはどちらの「誠実」?


-sincere

showing what you really think or feel / saying only what you think or feel

(本当に思っている、感じていることのみを述べること)


-honest

always telling the truth, and never stealing or cheating / not hiding the truth about something

(常に真実を述べ、盗んだりズルしたりしないこと/真実を隠さないこと)


もちろん、この逆の例(英語ではひとつでも、日本語では豊かな表現)もたくさんあります。


ずいぶんと脱線した気がするけれど、ともかく相手のことばを読み取ろう、あるいは自分のことばを巧みに操ろうとする「手間」を惜しむことだけは、ちょっと受け入れがたいなあ、ということを「聞いてほしい」がためにこんな乱筆の長文となりました。はあ。




あとがき

全体を見直しても、まとまりがなさすぎる分校正が効きませんな。おわびに日本語が豊かな一例を。


「しんそう」は、「深層」とも「真相」とも読めます。


真実はやっぱり深いところにある、と信じたいものです(ホントは深くも浅くもないところ(=はざま)にあると思ったりするが、少なくとも浅いところにはないはずだ)。

続・夢から出た真の性癖

2006-06-25 | ライフサイクル
普段から悲観主義的にモノを見ている僕にしてはずいぶんとハッピーエンドな夢を見たので、忘れないうちに書き記しておこうと思う。短いけど。


舞台は浜辺。僕はある女の子の帰りを待っていた。とにかく待っていたのだが、やっと帰ってきたのだ。


彼女は何かいいたそうにしていて、やたら恥ずかしがっている。僕はごまかしごまかし会話を続ける。ここまでは現実の僕にもよくあるパターン。<たとえば先日、混雑する休日の湘南新宿ライン逗子行き・ボックス席車両に乗車していた僕は、大崎あたりで南米の血がほんのり入っているような女の子に「もってかれた」。だって、褪せた黄色の鞄になぜかキノコのアップリケがワンポイントでくっついているんですよ?おかしいでしょうに。まあ顔もファッションもかわいいんだけどさ。それで横浜についたら、彼女の横に座ってたオバちゃんが席を立ったわけ。普通、そこで僕は座るべきでしょう?攻めるべきでしょう?できない。結局、別のオバちゃんがするするっと、体長20センチ、頭に黒いハリを持った、ドジョウ風の未確認生物のようにすきまに収まった。僕はといえば、コクコクと眠りこける彼女の寝顔を横目で見ることぐらいが限界なのだ。次の大船でドジョウが水に帰っていったが、眠りから覚めたブラジル経由の眠り姫は慌てて車外へと駆け抜けていった。>以上、百先生的帰納法を模倣(全然できてない)。


しかし今回は一味違った。ふとした瞬間、彼女の表情がふっと和らぐのである。まるで夫を失った未亡人が、写真でしか見せたことのないような安心しきった顔をしたのだ。<言うまでもなく、響子さんだ。>ああ、なんて幸せなんだろう、とつぶやきながら、夕陽の優しい光の中に浸りきっていた。気付くと、なぜだか知らないが小・中学校時代の友人達が周りを囲んで、僕らを祝福している(彼女と知り合ったのは大学に入ってからなのに)。ヘンテコな夢だな、と夢を見ながら思ったものだ。


それから先は言わない。



写真は、長年連れ添ったやかん(上)と今日家にやってきたやかん(下)。母親がなぜこのタイミングで前者を見捨てたのか、皆目わからない(理由は特に聞かない)。

IKIZURI LOVE

2006-06-22 | ライフサイクル
大学生活も四年目に入って、やっとしびれるような授業がポツポツとありました。


先日、いわゆるプレゼンテーションをやりました。テーマはドイツの文豪ヘッセの代表作『デミアン』。僕は作品の分析もそこそこに、十人程度の受講者の前で自らの半生について語りました。


今まで「普通」な人生を送ってきた僕にとって、悩みや考えることそのものはとても大切な種でした。そういった辛い思いは、決して無理に摘み取ることなく、大事に育ててきたつもりです。特に近年は社会(=世間)と自分との距離感に悩み続け、ついに就職活動には一歩も手を出さずにいます。そんなことをとうとうと述べたわけです。


にもかかわらず、担当の先生はイヤな顔ひとつせず、「老婆心から言わせてもらうけれど…」という前提の下にいろいろアドバイスをくれました。その後、「みんなからも彼に言ってあげられることはないかなあ?」と問いかけてくれた。しかもそれに呼応するように細々と手が上がり、「帰国子女でいじめられた」とか「リストカット」とか「受験校出身で一浪してそのまま何も考えずにここまで来てしまった」とか、みんな身を削って話してくれたのです。非常にヒリヒリした意見を頂戴することができ、僕は涙が出そうになった。


なかでも、僕と同様に「普通」の環境に育ったという女の子の意見は電気ビリビリものだった。「私は就職までずっと普通にきたけれど、普通に生きていけないのならその常道から外れて生きることは不可能だと思うから、私は就職します」というような意見だった。これは明らかに、僕がこれから進もうとする人生に対するアンチテーゼなのだが、それでも彼女は臆することなく(おそらく?)自分の思いをぶちまけてくれた。こういうコミュニケーションを、僕は求めていたのだ。


細かいところまでは語りきれないのだが、先生や受講者たちのことばを咀嚼・反芻しながら、湿気まみれの渋谷駅構内を僕は歩いていった。


MUSIC:Blue in Green / Bill Evans

equid pro quo

2006-06-19 | music
たまには帰納的につづってみしょう。


前々から細々とあった話だったのですが、このたびやっと実現にこぎつけました。


先日、過去にジオラマシーンというバンドで共演もしたことのある、swimming poolというバンドのたくみくんから依頼を受け、RECに入りました。2時間というハードスケジュールながら、マイクを5本も立ててサクサクっと。


これがまたいい力の抜けた曲でして(タイトルは知らされていない)、果たして僕のような自己顕示欲のカタマリでしかない人間のドラムが入ったら台無しなんではないか、とも思いつつバコバコ叩きました。デモの時点ではシンプルな打ち込みがループになっていたので、普段のプレイスタイルは最大限セーブしつつできるかぎり「オレ色」を出したい、という葛藤はにじみ出ております。かつそこに旨みがある、はずであります。


曲調に合わせるためもあって、僕としてはめずらしくスネアドラムのピッチがダルダルになっています。念のため説明すると、ピッチ(ドラムの皮の張り具合)が低いと音も比例して低くなり(80年代のロックをご想像ください)、パリパリに張ると音も「スコーン」から「カーン」と高くなっていきます。僕はこの「カンッ」という音域に命を燃やすタイプなので、今回はレアだということです。それでもいい音してるんですけどね、叩き方がいいから(UNUBORE)。まあ、練習してないわけじゃないんです。


ちなみにRECは吉祥寺の「みけるず」というリハスタ(天上もバカ高くて豪華なAスタ!)を利用しました。ここはとても使いやすい。ちょっと高いけど。ちなみに今日も別のバンドで利用しましたが、あのニルギリスと遭遇しました。バンド一同、かなりミーハーになりました。当然話しかけていません。


ラフミックスだけみけるずでやったので、出来上がりが楽しみです。



MUSIC:alphabetical / phoenix

裏予想

2006-06-09 | ライフサイクル
珍しく時事ネタです。


ワールドカップが始まりました。本来サッカーは見るもプレイするも好きなのですが、「サッカー知らなきゃ非国民」とも言うべきこの報道過熱ぶりにはやはりげんなりします。そこで、この先2週間くらいについて、ちょっと予言めいたことをやってみたいと思います。


現在伝えられるところによると、我が日本代表はごあいにく「主力選手にケガが見受けられる」(テレビ朝日『報道ステーション』福田氏報ず)ようですね。加治選手は「初戦は厳しそう」、柳沢選手は「状態が心配ですが、大丈夫でしょう」。今週初めには高原、三都主両選手の不調なども懸念されていました。このようなコメントが寄せられるたび、サポーターの方々は一喜一憂してらっしゃることでしょう。


ちょっと考えればわかることだと思うので言うまでもないかもしれませんが、それでも批判精神と想像力を失った日本人の方々に、僕の思い描く日本代表とファンたち、そしてメディアの「顛末」を紹介します。ご参考になれば光栄です。


初戦、オーストラリア戦。加治選手は予想通り欠場したものの、日本から駆けつけたファンの声援と日本国内の観戦者の期待を一身に受け、高原・柳沢の2トップを含めたベストメンバーで臨む。しかし、フィジカルで勝るオーストラリアのDF陣を前に2トップの動きは精彩を欠き、攻めのリズムが作れない。後半、疲れの見えた日本の3バックは、ヒディング監督から「右サイド(=三都主)から行け」との指示を受け3トップの右に入ったFWビドゥガの強引なドリブルを抑えきれず失点。1-0で破れる。メディアは2トップの不調を再三に渡って騒ぎ立てる一方、「クロアチアの弱点」と絡めた形での大黒待望論が急浮上する。


後のない第二戦。ジーコ監督はFWを「最も相性のよい(メディア報)」玉田・高原に代えて挑む。クロアチアの組織的な守りになかなか好機を見出すことができない中、ニコ・クラニチャルがPKを決め先制。後半に入り、ベンチスタートの小野のボールから、相手DFとMFの空いたスペースを途中交代の大黒が駆け抜ける。ファールを誘うと、中村のFKが突き刺さった。1-1のドローとなる。


最終戦。すでに決勝トーナメント行き(ブラジル、オーストラリアと予想)が絶望的なジーコジャパン。「○」「△」「×」や「得失点差」などの記号が踊る対戦表とにらめっこしながら、みんな揃って「せめてブラジルに一矢報いる!」を合言葉に、中村や大黒、また最後のW杯になると思われる中田などの活躍に最後の望みをかける。ケガから復帰した加冶はこの試合に途中出場したが、何もできない。三都主は3試合フル出場するが、これまた散々な結果に終わるだろう。1点取れればいいところだが、3倍返しだろうな。


予選終了後、決勝トーナメントの盛り上がりと日本代表の帰国をやや物悲しく伝えるかたわらで、高原ら主力選手の不調の原因についてくだらない報道が繰り返され(食事がまずいとか、チーム内の不和とかが相場だろう)、「2010年・南アフリカへ!」となる。おしまい。


こう見返してみると、自らの文才のなさを露呈するようで恥ずかしくなります。が、最終的に言いたいことはこれだけです。


日本代表ファンの皆様方。メディアはきっと、みなさんを傷つけないように、勇気付けるように「日本代表、体調は万全です!心配しないでください!」と叫び続けますが、実は主力選手たちのケガの状態は想像以上に思わしくない、かもしれません。過剰な期待を抱きすぎないようにしたほうがいいと思われます。また、ある主力選手が結局試合に出れなくても、満足なプレーができなくても、無慈悲かつ無分別な罵詈雑言などは極力浴びせないようにしてあげてください(純粋なプレー批判ならまったく構わないと思います)。


各メディア様方。頼むから、ありもしない期待をかけすぎて、終わったあとに「やっぱりダメだった」みたいなことをぐだぐだ言わないでくださいね。それなら最初から代表選手にハッパかけるような、批判的な報道スタンスを取るべきです。また、さんざんファンや視聴者を煽っておいて結局「負けたけど頑張った!」みたいな無責任な振る舞いも避けていただければと思います。その事なかれ主義、大変不愉快なので。


ちなみに、ここに書いた経過や予想などはただの「カン」です。結果がどうなるかはわかりませんし、根拠もありません。「こーんなもんじゃない?」くらいのものでそこまで真剣に考えていませんので、あしからず。

Back to 1999

2006-06-04 | ライフサイクル
最近の高校生はスピッツを聴いて「ああ、レミオロメンみたいですよね」と答えるらしいですが、たまたまMUSIC ON TVで上記のタイトルなる番組をやっていたのを見ていたらなんとも言えない郷愁の念が湧いてきたのです。


ハイスタ『Stay Gold』に始まり、ブラフマン『arrival time』、pre-school『depends』、クラムボン『はなればなれ』など、スペースシャワーTVの"Power Push"歴代アーティストを並べたような楽曲が小粋よく流れる一方、advantage Lucyや広末涼子といったポップスも充実していて(ヒロスエの歯並びに時代を感じる)、CDが売れた最後の時期の息吹が感じられます。


i podやインターネット・携帯電話などが普及する前の時代とあって、この当時の音楽メディアの発達度合はまだ(それほど)高くはなかった。だからこそCDという媒介の影響力はまだ絶大で、いわゆる二大「T・K」によるミリオンセールスが連発したのですが、それを差し引いても90年代の音楽界のクオリティは高かったと思う。少なくとも僕の主観においては、今田耕司の『渋谷系うらりんご!』(フジテレビ系)のエンディングテーマだった『ロビンソン』で僕の前に颯爽と登場したスピッツと「ロッキンオン」の申し子とも言うべきレミオロメンは並列ではない。


『今どきの若いモンは…』というようなトシではまだないし、このセリフは特段好きではない(好んで使う人なんているのかなあ?)けれど、なんかちょっと大人になった気分。


MUSIC:明日へ/広末涼子
虚言症/椎名林檎



補記。一ヶ月ほど前に高橋留美子『めぞん一刻』全巻を大人買いしたのですが、このマンガの連載は僕の生前(昭和57年5月)から始まっています。時計以来の発明とも言われる携帯電話もない時代設定。にもかかわらず、この新鮮さ。がゆえに成立する管理人響子さんの嫉妬、嫉妬。素晴らしい。このいつ見ても(聴いても)色褪せない感じなど、スピッツと同じマジックが作用している証拠だと思います。以下、ウィキペディアの解説より。


『物語はすれ違いと誤解の繰り返しが基本構造となっており、この展開手法は1990年代初頭に流行したトレンディドラマに影響を与えたと言われている。携帯電話やメールといった便利な通信手段が存在しない時代であり、また、アパートの共用電話が1台のみという設定であったため、こういった背景が成立させた展開手法であったとも考えられる。』