intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

アヒトイナザワとわたし

2006-02-05 | music
1999年。中学3年生の春、僕は当時開局されたばかりのviewsic(現M-ONTV)を自宅のCATVで見ていた。小学生でイエモンにはまり、この同年には"Scar Tissue"で復活したレッチリをきっかけに洋楽に入っていった。そんな時だった、NUMBER GIRL『透明少女』を聴いたのは。

リコメンドとしてさんざん流されていたPVに、最初は「なんじゃこら」と鼻をほじっていたが、まだ下の毛も薄いような(いや、さすがに中3だぞ。)ガキにもそのかっこよさがだんだんとしみわたってきた。その後『タッチ』『日常に生きる少女(『シブヤROCK~』より)』などたびたび新しいPVがリリースされたり、各CATV局が特集(これまたこの年に始まったライジングサンロックフェスティバルなど)を組まれると興味をそそられた。そして、渋谷という都会におもむいて初めて購入したのがファーストアルバムとなる『School Girl Distortional Addict』と、『Destruction Baby』というシングルだった。

1stアルバムの2ヵ月後にこのシングルが発売されているので、きっかけとしてはやはり後者の衝撃度が高かったのだと思う。アヒトイナザワのドラムは轟音だった。変拍子を切り裂くハイハットサウンドに漏れる心地がした。なんかすごいと感じた。(レビューなどは他の人を見ていただけばいいと思うが)あとあと考えてみると、デイヴ・フリッドマンという人のドラムサウンドメイキングに対する姿勢の大切さを、このバンドの音源を通して学び取った気がする。

しばらくは特に変わったこともなく過ごしていたが、2000年に彼はニューアルバムを携えて帰ってきた。『Sappukei』である。スペースシャワーTVでいかれた生中継のライブを多数提供していた番組・「PHANTOM」(映画『けものがれ、俺らの猿と』のサントラ発売記念ライブはその極みだった。ASA-CHANGはこわいし、ロマンポルシェはもう止められなかった)でその新曲を発売前にもかかわらず披露していたのだが、その時のイナザワのプレイおよびドラムサウンドには火を噴いた。ちょうどボスフォラスというメーカーのシンバルを使い始めたころだったが、その野生的なサウンドにはたいそう魅せられた。レコ発全国ツアーの福岡公演がviewsicで中継され、僕はそれをビデオにとって磨り減るまで見た。ときにはスロー再生にして彼のプレイをむさぼるように見ながらマネしたものだ。

こうしてイナザワに染まった僕は、友人を誘ってNUMBER GIRLのコピーバンドを結成し、ライブを敢行した。バンド名はその曲名から取って『喂?』(中国語で「もしもし」の意)と名付けた。このバンドで2回ライブを行ったのだが、1度目のとき『SAMURAI』という曲を演奏した際、向井氏のマネをしてMCをやったのは本当に間違いだった。ちなみに僕のメールアドレスおよびIDにある“eightbeater”というのもこのバンドの曲名からとっている。

その年の暮れに『鉄風鋭くなって』がSSTVのパワープッシュになった。その冒頭、メガネをかけたイナザワの後ろには扇風機がくるくる回っていた。リサステッグマイヤー司会の番組(UCD:ウルトラカウントダウン)では20世紀最後のゲストとして4人揃って中身のない話をしていたが、イナザワはあがっていた。

2001年、NUMBERGIRLはライブばっかりやっていた。VHS『騒やかな演奏』を発売日に購入し、これまた磨り減るまで見た。スローで。イナザワは「元気玉」(TAMAのミニティンバレス 8&10インチ)を導入した。そして、ツアー『騒やかな群像』の日比谷野音で、ついにこの目に彼のプレイを見ることになった。チャイナシンバルも取り入れたドラミングにぴょんぴょん飛び跳ねていた記憶がある。ちなみにその日は『プールサイド』『Substitute』といったカバーナンバーを披露していた。

そして2002年。僕は高校3年生になっていた。まさに僕の青春はこのバンド・このドラマーとともにあったように思う。3rd『NUM-HEAVYMETALIC』で徐々にバンドの持つ空気感が痛々しいほどに研ぎ澄まされていくなか、イナザワのドラムにも変化が顕著に現れた。『NUM-AMI-DABUTSU』に代表される自由奔放なプレイスタイル、ライブの音作りでもゼルコバ(けやき材)スネアにますますリバーブがかかり、タイコ類はガチガチという音を立てていた。viewsicはこのアルバムツアーの最終日を生中継した。『INUZINI』はお囃子と化し、向井氏の世界観がふんだんに表現されたステージとなっていた。

受験生だった僕に、『pocket vibe』のメールニュースはあっさりと事実を告げた。NUMBERGIRL解散である。

僕は焦っていた。当時決まっていたライブの東京公演のチケットを探すも、駒澤大学の学祭は手遅れ。しかし11/28のZepp Tokyoはまだ発売前だ。僕は聖蹟桜ヶ丘のチケットぴあに朝イチで予約するため、友人4人と現地で知り合った川口さん姉妹と一晩寒空の下待った。朝10時に訪れた結果は、敗北だった。

その日の3限、体育の授業で僕は苦手なバスケをやっていた。クラスメイトのタカギくんと僕は、やりきれない気持ちになっていた。僕は「喪中」と称して、ナンバガTシャツを着ていた。タカさんは5限の日本史の出席が危なかった。しかし、行くしかない。新宿でも新橋でも、チケット屋に行ってみよう。それがだめなら、会場前で張り込みだ。意を決し、僕らは学校を後にした。

ゆりかもめで青海駅に着いたのは昼2時前。マクドナルドのオープンテラスで自宅から持ってきていた弁当を食いながら、僕らはB4のわら半紙にふでペンで「NUM2枚」と書いた。勝ち目は薄かった。すでに多くの人が僕らと同じことを駅前で展開していたが、そのプラカードには力が入っていて熱意が感じられたし、かなり怖いダフ屋も「ケガしたくなかったらここでアピールするのはよしときな」と脅してきた。また追加発売があるかもしれないという情報が錯綜していたので、タカさんはその列に並んだ。電話で「たばこを持ってきてくれ」と言われたのをよく覚えている。

タクシーで会場入りした向井を横目に、僕は張り込みにかけるべきだと決断し、タカさんを呼び戻した。こうして再び2人の闘いが始まった。周りにはちょくちょく余ったチケットをゲットする人が出始めた。その中の1人が、田淵ひさ子をデザインしたりっぱなプラカードを譲ってくれた。「会場で会いましょう」といって渡してもらったそのプラカードは非常に心強かった。4時頃、偶然にも川口さん(妹)が駅に現れた。「友達で1枚余ってる人がいるかもしれない」というので、すかさず携帯番号を交換し、やる気がみなぎる。

すると後ろからスルスルとやや精気の抜けた男が僕に寄ってきた。「一枚あまってますけど…定価でいいですよ」。500円上増して買い取り、再び闘いに戻る。すると開場30分前ころ、川口さんからTEL。我々の決意は、実った。

ライブのことはあまり覚えていない。『性的少女』の中で「忘れてしまった」と連呼する向井を見て、その日あった予備校の授業(日本史)をサボった罪悪感は吹き飛んだ。Tシャツを着てきてよかった。終演後、セーラー服の女の子2人組がたばこを吸っていた(たぶんタカギくんはこの出来事を『体内時計』という曲に載せている)。椎名林檎が打ち上げ会場に入っていった。新橋駅の構内にあるサンクスでやきそばを食った。

それからしばらく、イナザワが個人名義で参加したバンドなどの音源をよく聴いた。ルミナスオレンジはその筆頭で、『Drop you vivid colours』などはNUM時代を彷彿とさせるようなドラミングで、繰り返し聞いてコピーし、たくさん技を盗んだ。前述の椎名林檎とも共演し、露出が細々ながら続いていたのはささやかな心の支えになっていた。

さて、イナザワは向井氏とともにZAZENBOYSを始動させた。2003年夏、大学生となった僕は彼らに会うために北海道へ向かった。カゼの体にEZOの夜はたいそう堪えた。ちょっと血も吐いた。しかし、ステージに現れた彼らは、新しいようで、Zeppで見た、あのままだった。今となっては幻となった『ZAZENBEATS BAKAYAROSTYLE』という曲で始まったステージは、イナザワが投入したカウベルやスプラッシュに驚き笑いつつ、「やっぱりこの人だ」と思った次第です。2日目の終演後(最後にくるり、ウルフルズと続いたこの日のライブもすごかった、が割愛)、朦朧とする意識の中バス~空港~成田とトンボ帰りし、中耳炎になったものだ。

この年の明石屋サンタのCM時間は、『USODARAKE』の1サビまでの時間とちょうど同じ時間だった。SSTVのオンエアでビデオにとり、MDに落としてあったので、僕はCMの度にTVの前でスティックを空振りして、この変拍子にトライしていた。これが次の手なのか、負けたくないという気合があったのだろうか。僕のドラムセットにスプラッシュが導入されたのは言うまでもない。

ZAZENBOYS』が翌年発売。これまたコピー・コピー。叩きまくった。スネアドラムのピッチが非常に低く、新境地かとも思ったが、MATSURI STUDIOの音響に合わせたチューニングにしたら自ずとこうなったのかもしれない。『Instant Radical』に見られる従来のスタイルから『IKASAMA LOVE』『自問自答』など、向井氏の変化とともに彼のプレイにも変化と進化が見られた。

夏には『ZAZENBOYSⅡ』がドロップ。先行PV『CRAZY DAYS CRAZY FEELING』はもちろん、『Cold Beat』『No Time』など全曲コピー。ほぼ完全。リリースに前後して行われた野音のライブには開場整理のバイトとして参加。イナザワのスティックをもらった話はこのブログにも前述(2005/2/26)。ほとんど整理なんかせず、ライブを横目で見続けた。

しかし、運命は残酷だ。ちょうど3年前に中尾憲太郎氏から解散の申し出があった秋の季節、イナザワ脱退のニュースが流れた。悲しかった。でも、仕方ないことなのだ。その年の暮れのライブにも行かなかった。なぜかあっさりしていたのは、大人になったからなのかもしれない。


そして。VOLA&ORIENTAL MACHINEという新バンドでGt&Voとして、タワレコに「これを聴かずして2006年は始まらない!新世代のニューウェーブ!」と宣伝されたミニアルバムを発表したが、「やっぱりドラムじゃないとダメだ!」「結局向井あってのあのドラムサウンドだったのだ」と、僕を想像以上にがっかりさせたアヒトイナザワは、雑誌『PS』のCMでドラムをぶっ叩いていた。2月4日、ルミナスオレンジのライブで彼の汗に濡れた髪と、その体から生み出される「ハシる」「はずす」の不完全なプレイにニヤけ、鳥肌が立ったのです。

MUSIC:Mithrandir/Luminous Orange

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3 コメント

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読んだよ (hama)
2006-02-06 17:19:53
懐かしさもありつつ、熱かったんだね。おれは遅れてからNUMの良さに気づいたよ。

アヒトイナザワの新バンド、気になってたんだけどあんまり良くないの?



読みやすくていい感じの文でした(えらそう)
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ARIGATO (OMIO)
2006-02-07 23:47:19
たまには中学生の作文みたいな文も書かないといけませんよね。というか自分のことを書いているのでこんなタッチになってしまった。



イナザワ新バンドは、悲しいかなとってもよくないよ。曲のpoplessな感じはさらなり、イナザワがドラム叩いてる曲まで含めて、ドラムサウンドメイキングがあまりに陳腐。これが本当にあのイカれたドラマーが「自分のバンド」としてリリースした音なのか、と思うとやりきれないです。



懐古主義を気取るわけではないけど、やっぱりイナザワは「優秀なサウンドメイカー(=向井)の下でドラムを叩く」姿が一番ですね。
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Unknown (Amok)
2019-03-03 07:45:43
読ませていただきました。NUMBER GIRLとの出会い~解散~ZAZEN~アヒト脱退までが当時の記憶と共に書かれ、単純に記憶力スゴいなと思うと共に自分の当時の記憶ともリンクし、感慨深かったです、
VORA の作品もひととおり聴いてはみて感想は大体同じだったのですが、最近、例の件でbonobos ファンの方が「これが差別の証拠だ!」だとばかりにvoraのスタジオライブ動画を観るよう言ってきたので観たらどこが問題なのか私にはわからず、むしろ結構カッコよく、もったいないなと思いました。
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