松本を去った鈍行列車は、梓川沿いを走る。特急あずさの由来ともなっている清流は、松本以南から続く通勤路線に寄り添うように、ちろちろと流れる。「寄り添う」と書いたのは、水量が少ないので、自然の畏怖よりも近代技術のほうが頼りになるような気がするからだ。
明科(あかしな)で半分ほどの客が下車した。新築の戸建も多く見られる。いくぶんウェイトの軽くなった列車は、山あいを軽快に走り抜ける。車窓の右手には中小の、左手には槍ヶ岳、はてに白馬岳を擁する上高地の大山脈が現れる。西条(にしじょう)で帰宅客の山を越えると、日の入とともに気温がにわかに下がってきた。
次の山北で、下り方面に向かう貨物列車と交換する。石油タンクを数十本引き連れたヘビのような車両は、発車とともにガンという大きな音を上げる。物資や郵便、ひいては軍事輸送が頻繁に行われていた時代って、こんな感じ?など、貧困な想像をする。
篠ノ井線は長野自動車道とも並走していて、たとえば聖高原の駅舎は麻績(おみ)インターチェンジのすぐそばに位置する。「パークアンドライド」が環境政策のひとつとして注目を集めているが、それによってこういう地方駅にもスポットがあたるのだろうか。もっとも、土地の狭い日本ではなかなか定着しにくいだろうし、一日の平均乗降者数が358人(2005年度)の小駅にその役割が勤まるのかは疑問だが、特急(ラッシュ時を中心に、上下計三本)も停車するし、松本、長野にも近い分、立地条件は悪くないと思う。
冠着(かむりき)など、思わず注釈をつけたくなるような駅名が続く。空気感が山だ。トンネルも多い。標高が上がっていくと、高台から盆地を見下ろすようになる。次は姨捨というアナウンスが入った。
しまった、と僕は思った。昼前に家を出て、小淵沢で迷ったあげく勢いでここまでやってきたツケなのだろうか、乗り鉄としては極めて初歩的な「リサーチ」を怠っていたことに気付かされた。いや、言い訳をすれば、知っていたにもかかわらず、てっきり忘れてしまった。
そう、スイッチバックだ。手動ドアに制御がかかると、後ろ髪を引かれるようにバック、そしてN字を描くように山道の下り坂に入っていった。こうして、僕の「初体験」はあっけなく幕を閉じた。
ちなみに、姨捨は山というよりは丘にあるような駅だった。たとえここにおばあちゃんを置いてきても――まして、現代では姨捨=六十歳=老人とはいいがたい――、自力で降りてこられるんではないか、と思う。「次は稲荷山、稲荷山です」という女性車掌のかわいた声が響き渡ると、列車は何事もなかったかのように走り出した。旅は、行ったり来たりの日常なのだ。
<つづく>
明科(あかしな)で半分ほどの客が下車した。新築の戸建も多く見られる。いくぶんウェイトの軽くなった列車は、山あいを軽快に走り抜ける。車窓の右手には中小の、左手には槍ヶ岳、はてに白馬岳を擁する上高地の大山脈が現れる。西条(にしじょう)で帰宅客の山を越えると、日の入とともに気温がにわかに下がってきた。
次の山北で、下り方面に向かう貨物列車と交換する。石油タンクを数十本引き連れたヘビのような車両は、発車とともにガンという大きな音を上げる。物資や郵便、ひいては軍事輸送が頻繁に行われていた時代って、こんな感じ?など、貧困な想像をする。
篠ノ井線は長野自動車道とも並走していて、たとえば聖高原の駅舎は麻績(おみ)インターチェンジのすぐそばに位置する。「パークアンドライド」が環境政策のひとつとして注目を集めているが、それによってこういう地方駅にもスポットがあたるのだろうか。もっとも、土地の狭い日本ではなかなか定着しにくいだろうし、一日の平均乗降者数が358人(2005年度)の小駅にその役割が勤まるのかは疑問だが、特急(ラッシュ時を中心に、上下計三本)も停車するし、松本、長野にも近い分、立地条件は悪くないと思う。
冠着(かむりき)など、思わず注釈をつけたくなるような駅名が続く。空気感が山だ。トンネルも多い。標高が上がっていくと、高台から盆地を見下ろすようになる。次は姨捨というアナウンスが入った。
しまった、と僕は思った。昼前に家を出て、小淵沢で迷ったあげく勢いでここまでやってきたツケなのだろうか、乗り鉄としては極めて初歩的な「リサーチ」を怠っていたことに気付かされた。いや、言い訳をすれば、知っていたにもかかわらず、てっきり忘れてしまった。
そう、スイッチバックだ。手動ドアに制御がかかると、後ろ髪を引かれるようにバック、そしてN字を描くように山道の下り坂に入っていった。こうして、僕の「初体験」はあっけなく幕を閉じた。
ちなみに、姨捨は山というよりは丘にあるような駅だった。たとえここにおばあちゃんを置いてきても――まして、現代では姨捨=六十歳=老人とはいいがたい――、自力で降りてこられるんではないか、と思う。「次は稲荷山、稲荷山です」という女性車掌のかわいた声が響き渡ると、列車は何事もなかったかのように走り出した。旅は、行ったり来たりの日常なのだ。
<つづく>