フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

中産階級ばんざい!

2006-01-10 23:02:54 | 文化
 ここ十数年ほど、「下層」風のファッションがはやっている。80年代のなかばごろには、お嬢様風とか大学生風のファッションも流行ったというのに、どうしたのだろう。アメリカの牢獄での服装、いかにも乞食風の破けたジーンズ、ストリート系の、ストリートチルドレン出身だといわんばかりの格好を、上流や中流の人たちも楽しんでいる。
 それはそれで独特の美意識がこめられており、面白い。本当に下層でない人たちには、非日常を楽しむ要素もあるにちがいない。

 だが、一方では中産階級風のファッションも健在であってほしいのだ。中産階級は、貴族ほど金持ちではない。少なくとも六本木ヒルズに住まう上流よりも、庶民に近いところにある。なので、時には下層の代弁者となれる。少なくともその蓋然性は高い。
 中産階級はファシズムの温床にも、民主主義の担い手にもなりうる。
 具体的な「豊かさ」の内実は、地球環境や旧・第三世界とのかねあいも含めて調整されてしかるべきだ。しかし、そこそこのゆとり、豊かさをもつ幅広い層が社会を形作ることは、極端な格差の是正または防止のために、充分に意義がある。

 ここでひけらかすようなことは言ってこなかったが、何をかくそう、わたしも元は中流の出身だ。田舎の窮屈さをきらって都会に出てきたのも、ブルジョワの語源、ドイツ語のブルガー(中世ドイツの城塞都市の住人。)と似た気風によるものだった。自由にするという都市の空気にあこがれたのだった。

 中産階級はイケてないとか、カッコ悪いというわけではない。中産階級になりたい人が、そうなれるシステムは守るべき価値だ。今はどんどん壊している。公務員たたきも流行っている。ただ一方で、「自分の子どもだけは何とか公務員に...」と狙う親が後をたたないのも現実の一面なのだ。

 中産階級とか中流とかで何が悪い。いいじゃないか。貴族みたいにぜいたくで堕落していない。労働者階級の立場・気持ちも分かる。分かるからいじめる場合もあれば、分かるから助けることもある。たとえばわたしの知り合いで、年収600万円の人がいる。その人は、わたしの知らない高度な知識をわかりやすく解説して、わたしの学習を助けてくれる。そんなステキな中産階級の人もいるのだ!
 富の分配が公平で、民主主義がよく機能しちているバロメーター。これを責め滅ぼしてはいけない。

 というわけで、ブルジョワ万歳! バンサイ!! ばんざーい!!!

(追記:最近、親類のお葬式のためにひさびさに中産階級流のファションで決めました。するとこれがけっこう気持ちよかったのです。そのことをきっかけにこの記事を書きあげました。)

 

いつまで生きてもいい社会を

2006-01-10 22:26:06 | 政策
 労働は、人の時間をとる。企業は、人の時間を奪う。もともと狩猟・採集をしていたころの人類は、好きなときに食べていたと考えられるとサル学者の河合雅夫は述べている。(「森林がサルを生んだ」朝日文庫)

 いまどきの人類は、企業に時間をささげているようだ。もとは平等であったはずの人の時間は、労働時間や利子の時間によってどこかに過ぎ去った。というのが、80年代にはやったエンデの「モモ」のテーマ、すなわち「時間」だった。

 現代日本の企業社会は、すさまじく時間を奪う。時間がブラックホールに吸い込まれるみたいに。
 年功序列は、特定の組織への隷属を促進する。不安定・低賃金雇用は、残業をことわれない人々を生み出す。個人の「私だけの時間」は、どこかへ押しやられている。沖縄やインドネシアあたりに行けば、かなり余っているというウワサを聞くこともある。その旅費のために体を壊しかねない労働をするという逆接をはらみながら。
 私事で恐縮だが、わたしの父は、50代初頭であの世へみまかった。「さあ、これから教育投資や年功序列で組織に忠誠を誓ったぶん、お金を返してもらえる。」そう言って妻と笑いあっている矢先のガン発病と死亡だった。
 たった一度しかない人生のなかで、将来のためといって、たくさんの学校教育を受け、若いころは給与以上の労働をもって、組織に奉仕をする。けれど、死神は死神のルールで動いている。人間の限りある予想や計画や戦略とは別のルールがあるのだ。よって、人はいつまで生きられるか、言い換えればいつ亡くなるか分からない。
 常日頃わたしたちは、そのことを忘れている。なるだけ考えないようにしている。でなければ、生活できない社会を作っているからだ。そうして、勉強や仕事や家事や雑用に逃げている。現実に向かって逃避する。思考停止は、不安をやわらげてくれる。
 だけど、そんなことでいのだろうか? 苦痛に満ちた、あるいは実存に違和感の強い何かのための準備ーー教育・訓練・下積み労働ーーは、「今、これだけのことだから」「いつか将来抜け出すぞ」ということで正当化できるかどうか。
 できない、というのがわたしの答えだ。いつまで生きるか分からない、だから退職金とか年金とか保とかいったシステムをわたしたちは考案し、使っている。それはそれで賢明なことだ。
 おまけに同時に、「いつ亡くなってもそれなりに満足できるシステムを整えよう」というのはぜいたくすぎる欲求だろうか? つまり、そのとき働いた分を、ちゃんとそのときに返してもらう仕組みだ。もちろん、一瞬・一瞬にそれはできない。しかし、一日・一週間・一ヶ月といった単位で、稼いだ分を現金その他の手段(日曜日はちゃんと休みがとれるなど)の方法で、そのつど還元するというのは、不可能なのだろうか。
 人は、いつまでも生きていられるとは限らない。ならば、死神と妥協をする謙虚さもまた、人の社会に求められるのではないだろうか?

 遠い未来のことを完全に予測できるとするのは、あまりにも大雑把で、楽観的で、傲慢な考えだ。そんなものに対していったい誰が「責任」をとれるというのだろうか。突如として現れた鳥インフルエンザウイルス発生に、誰が責任をとれるのだろう。もちろん、感染した家禽の処分などはやるべきだし、実際にやっている。だが、ほぼ確実に見通せるのは、ここ数日とか数ヶ月の範囲のことなのではないだろうか。
 自分たちの予知能力をあまり過大視せずに、素直に今日生きていることを喜ぶセンスは、どうすれば取り戻せるのだろうか。それは、「ニート」や「パラサイト」を排除できない社会になるだろう。