いわゆるサヨク系の人たちは、フリーターを見ると説教をしたがる傾向があるようだ。そのなかの常套句に「分断統治反対」というものがある。
組合の会合で、飲み会で、個人的にいっしょに食事をしたり散歩をしたりするときにも、誰かがこう叫びだす。「それは分断統治だよ!」
そうして、労働組合に加入しない若者を珍獣扱いし、嘆き、けなしてみせる。何のことはない。現実以上にその人たちの頭のなかでは、フリーターをはじめ若い人たちは、怠惰で、無知で、キモチワルイものなのだ。そして、ケシカラン存在として、矯正・誘導されねばならない。
そのためには、(因果関係も時系列に沿った理解もないのだけれど)とにかく組合に入り、組合のイベントに参加することが自明の原理になっている。
理想をいえば、一度も・一日も休まずに組合の会議やイベントに出席し、いつもメールや電話で組合幹部と連絡を取るほうが望ましい。
若者だから組合に入るという前提もそもそもヘンだ。それに、これでは雇用の不安定化による休日予定の不安定化には対応できない。みなが工場やオフィスに勤めて、だいたい土日には休めると見通せる時代は、工業化社会のものだ。今日のサーヴィス化社会にはあわない。
人類学者の内藤直樹は、ケニア北部の牧畜民アリアールの調査を報告している。以下の「」内は抜粋・要約である。
「彼らは移動がひんぱんで、まとまりがない。彼らが今いるキャンプ地に不満があって移動を考えるときには、斥候を派遣して水や草の具合を調べる。斥候からの情報をもとにして、いくつかの候補のなかからどれがいいのかをキャンプのメンバ-が議論して決定する。
しかしどこに移動するか、そもそもいま移動するべきかどうかについて意見が合わないことがある。すると彼らは、構成員すべてが満足するような結論を導き出すよりも、むしろ簡単に袂を分かつ。そして別の村の構成員と出会うと、彼らといっしょにキャンプを作る。」(エコソフィア エコソフィア編集委員会編 民族自然誌研究会発行 昭和堂2003.5:54-55 内藤直樹「境界の旅人たちーー牧畜民アリアールの日常的実践」)
もしフリーターの組合、または情報交換や親睦や相互扶助のための組織づくりができるとすれば、アリアールのやり方が参考になると思う。
ムリに意見を一致させたり、まとめたりする必要はさらさらない。圧力がウザイまたはコワイので、口先だけであわせても、イヤになって長続きしないだろう。そして、こうした政治や経済に関する運動は、短期間で成果があがるものではなく、ねばりづよい中・長期的とりくみが求められる。
だったら、なおのこと、嫌がる人の尊厳を冒す必要はない。いつも同じときに、同じ場所にいなければ仲間じゃないと決めつけ、人を粗末に扱う労働組合関係者や労働NGOアクティヴィストをわたしは何人も見てきた。みなの前で侮辱・罵倒したり、批判ではない悪口・中傷を言う。電話で大変不誠実な応対を重ねる。頭ごなしに意味不明のことを怒鳴りつけて威嚇するなどなど。会社での各種のハラスメントと比べて、どちらがマシなのかと首をひねる場面もあった。
ほんの少しの意見や趣味の不一致に神経質になる。みながいっしょでなければ不平等でケシカランとか、こ秩序が乱れるとか心配してばかりいる。
特にリーダーやサブリーダーは、組織化を通じて他人をコントロールしたいがために「分断統治はダメ、もっと団結を」と唱えているようにも見えて、気味が悪かった。
たとえば、ある労働問題の雑誌を作ろうと呼びかけた人は、とある掲示板で「わたしはこちらのコミュニティにはあわない。だから去ることにする」とカキコをしたときに、おかしなレスをよこした。「そうですか。また気が向いたらいらしてください」
いったい何を言っているのだろう。わたしはあわないから去ると書いただけだ。だったら、それを尊重すればよい。にもかかわらず、その管理人は、自分とちがうタイプの他人の参加コミュニティを選ぶ権利を尊重できない。自分の管理するコミュニティが選ばれなかったことを理解できず、トンチンカンな答えをよこしたのだ。人の個性や選択を侮辱する、人格無視のコメントであり、腹立たしい。思い出すだけでゾっとする。
そんなことをしなくてもいい。個人とか各ユニットの独立性を尊重しあって、ムリなくいっしょにやれるなら、協力してことに当たればよい。
世間の偏見や無理解、当局の弾圧などに、たくさんの中心があったほうが防御しやすい。そのことは、インターネットの基本的な仕組みを見ても分かることだ。
会社のストレスで死にそうになったり、軽い慢性的なウツ状態になったりしているときに、ムリに勉強会や定例会に出席する必要はない。出席しない人間をおとしめるなどとんでもない。むしろ、そのように個人の都合や体調や考えを壊すようなやり口をとるから、若者は組合に寄りつかないわけだ。
サヨクの一元的集団主義、硬直した共同体主義を、見直す時期に来ている。多様なコミュニティと個人による、ゆるやかな連合を!
アクテイヴィストらは、画一主義的で支配欲旺盛な組合に、若者や女性たちが集まらない原因をよく考えたほうがいい。確かに分断統治は迷惑かもしれない。
ならば、離合集散を活用する手もある。名づけて「分散抵抗」。ちじぢりになって、だからこそ身軽に、必要に応じて抵抗できる。つぶしたい側はどこが中心か分からないので、手を打ちにくい。
とにかく、個人の権利をやっつけないこと。わたしはもう、上の世代の男性中心の労働組合や、同じ価値観に染まった頭の固い労働NGOの活動家にはウンザリしている。若い世代でも、全共闘世代にこびるような情けない人もいるのだ。
とにかく、30年一日のごとく分断統治に言及または反対していさえすれば、若い世代がついてくる、といった過去の成功体験による呪縛(?)をとりさるべきなのだ。
別に労働組合に幻想もないけれど。おかしなことばかりしないでほしい。
あなたがたの「善意」の行動が、かえって人を苦しめていることに気づいてほしい。
(9/27読みやすくするために一部の表現をあらためました。主旨に変わりありません。)
組合の会合で、飲み会で、個人的にいっしょに食事をしたり散歩をしたりするときにも、誰かがこう叫びだす。「それは分断統治だよ!」
そうして、労働組合に加入しない若者を珍獣扱いし、嘆き、けなしてみせる。何のことはない。現実以上にその人たちの頭のなかでは、フリーターをはじめ若い人たちは、怠惰で、無知で、キモチワルイものなのだ。そして、ケシカラン存在として、矯正・誘導されねばならない。
そのためには、(因果関係も時系列に沿った理解もないのだけれど)とにかく組合に入り、組合のイベントに参加することが自明の原理になっている。
理想をいえば、一度も・一日も休まずに組合の会議やイベントに出席し、いつもメールや電話で組合幹部と連絡を取るほうが望ましい。
若者だから組合に入るという前提もそもそもヘンだ。それに、これでは雇用の不安定化による休日予定の不安定化には対応できない。みなが工場やオフィスに勤めて、だいたい土日には休めると見通せる時代は、工業化社会のものだ。今日のサーヴィス化社会にはあわない。
人類学者の内藤直樹は、ケニア北部の牧畜民アリアールの調査を報告している。以下の「」内は抜粋・要約である。
「彼らは移動がひんぱんで、まとまりがない。彼らが今いるキャンプ地に不満があって移動を考えるときには、斥候を派遣して水や草の具合を調べる。斥候からの情報をもとにして、いくつかの候補のなかからどれがいいのかをキャンプのメンバ-が議論して決定する。
しかしどこに移動するか、そもそもいま移動するべきかどうかについて意見が合わないことがある。すると彼らは、構成員すべてが満足するような結論を導き出すよりも、むしろ簡単に袂を分かつ。そして別の村の構成員と出会うと、彼らといっしょにキャンプを作る。」(エコソフィア エコソフィア編集委員会編 民族自然誌研究会発行 昭和堂2003.5:54-55 内藤直樹「境界の旅人たちーー牧畜民アリアールの日常的実践」)
もしフリーターの組合、または情報交換や親睦や相互扶助のための組織づくりができるとすれば、アリアールのやり方が参考になると思う。
ムリに意見を一致させたり、まとめたりする必要はさらさらない。圧力がウザイまたはコワイので、口先だけであわせても、イヤになって長続きしないだろう。そして、こうした政治や経済に関する運動は、短期間で成果があがるものではなく、ねばりづよい中・長期的とりくみが求められる。
だったら、なおのこと、嫌がる人の尊厳を冒す必要はない。いつも同じときに、同じ場所にいなければ仲間じゃないと決めつけ、人を粗末に扱う労働組合関係者や労働NGOアクティヴィストをわたしは何人も見てきた。みなの前で侮辱・罵倒したり、批判ではない悪口・中傷を言う。電話で大変不誠実な応対を重ねる。頭ごなしに意味不明のことを怒鳴りつけて威嚇するなどなど。会社での各種のハラスメントと比べて、どちらがマシなのかと首をひねる場面もあった。
ほんの少しの意見や趣味の不一致に神経質になる。みながいっしょでなければ不平等でケシカランとか、こ秩序が乱れるとか心配してばかりいる。
特にリーダーやサブリーダーは、組織化を通じて他人をコントロールしたいがために「分断統治はダメ、もっと団結を」と唱えているようにも見えて、気味が悪かった。
たとえば、ある労働問題の雑誌を作ろうと呼びかけた人は、とある掲示板で「わたしはこちらのコミュニティにはあわない。だから去ることにする」とカキコをしたときに、おかしなレスをよこした。「そうですか。また気が向いたらいらしてください」
いったい何を言っているのだろう。わたしはあわないから去ると書いただけだ。だったら、それを尊重すればよい。にもかかわらず、その管理人は、自分とちがうタイプの他人の参加コミュニティを選ぶ権利を尊重できない。自分の管理するコミュニティが選ばれなかったことを理解できず、トンチンカンな答えをよこしたのだ。人の個性や選択を侮辱する、人格無視のコメントであり、腹立たしい。思い出すだけでゾっとする。
そんなことをしなくてもいい。個人とか各ユニットの独立性を尊重しあって、ムリなくいっしょにやれるなら、協力してことに当たればよい。
世間の偏見や無理解、当局の弾圧などに、たくさんの中心があったほうが防御しやすい。そのことは、インターネットの基本的な仕組みを見ても分かることだ。
会社のストレスで死にそうになったり、軽い慢性的なウツ状態になったりしているときに、ムリに勉強会や定例会に出席する必要はない。出席しない人間をおとしめるなどとんでもない。むしろ、そのように個人の都合や体調や考えを壊すようなやり口をとるから、若者は組合に寄りつかないわけだ。
サヨクの一元的集団主義、硬直した共同体主義を、見直す時期に来ている。多様なコミュニティと個人による、ゆるやかな連合を!
アクテイヴィストらは、画一主義的で支配欲旺盛な組合に、若者や女性たちが集まらない原因をよく考えたほうがいい。確かに分断統治は迷惑かもしれない。
ならば、離合集散を活用する手もある。名づけて「分散抵抗」。ちじぢりになって、だからこそ身軽に、必要に応じて抵抗できる。つぶしたい側はどこが中心か分からないので、手を打ちにくい。
とにかく、個人の権利をやっつけないこと。わたしはもう、上の世代の男性中心の労働組合や、同じ価値観に染まった頭の固い労働NGOの活動家にはウンザリしている。若い世代でも、全共闘世代にこびるような情けない人もいるのだ。
とにかく、30年一日のごとく分断統治に言及または反対していさえすれば、若い世代がついてくる、といった過去の成功体験による呪縛(?)をとりさるべきなのだ。
別に労働組合に幻想もないけれど。おかしなことばかりしないでほしい。
あなたがたの「善意」の行動が、かえって人を苦しめていることに気づいてほしい。
(9/27読みやすくするために一部の表現をあらためました。主旨に変わりありません。)