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フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

離合集散、いいじゃない

2005-08-13 05:37:59 | 政策
 いわゆるサヨク系の人たちは、フリーターを見ると説教をしたがる傾向があるようだ。そのなかの常套句に「分断統治反対」というものがある。
 組合の会合で、飲み会で、個人的にいっしょに食事をしたり散歩をしたりするときにも、誰かがこう叫びだす。「それは分断統治だよ!」

 そうして、労働組合に加入しない若者を珍獣扱いし、嘆き、けなしてみせる。何のことはない。現実以上にその人たちの頭のなかでは、フリーターをはじめ若い人たちは、怠惰で、無知で、キモチワルイものなのだ。そして、ケシカラン存在として、矯正・誘導されねばならない。
 そのためには、(因果関係も時系列に沿った理解もないのだけれど)とにかく組合に入り、組合のイベントに参加することが自明の原理になっている。
 理想をいえば、一度も・一日も休まずに組合の会議やイベントに出席し、いつもメールや電話で組合幹部と連絡を取るほうが望ましい。

 若者だから組合に入るという前提もそもそもヘンだ。それに、これでは雇用の不安定化による休日予定の不安定化には対応できない。みなが工場やオフィスに勤めて、だいたい土日には休めると見通せる時代は、工業化社会のものだ。今日のサーヴィス化社会にはあわない。

 人類学者の内藤直樹は、ケニア北部の牧畜民アリアールの調査を報告している。以下の「」内は抜粋・要約である。
 
 「彼らは移動がひんぱんで、まとまりがない。彼らが今いるキャンプ地に不満があって移動を考えるときには、斥候を派遣して水や草の具合を調べる。斥候からの情報をもとにして、いくつかの候補のなかからどれがいいのかをキャンプのメンバ-が議論して決定する。
 しかしどこに移動するか、そもそもいま移動するべきかどうかについて意見が合わないことがある。すると彼らは、構成員すべてが満足するような結論を導き出すよりも、むしろ簡単に袂を分かつ。そして別の村の構成員と出会うと、彼らといっしょにキャンプを作る。」(エコソフィア エコソフィア編集委員会編 民族自然誌研究会発行 昭和堂2003.5:54-55 内藤直樹「境界の旅人たちーー牧畜民アリアールの日常的実践」)

 もしフリーターの組合、または情報交換や親睦や相互扶助のための組織づくりができるとすれば、アリアールのやり方が参考になると思う。
 ムリに意見を一致させたり、まとめたりする必要はさらさらない。圧力がウザイまたはコワイので、口先だけであわせても、イヤになって長続きしないだろう。そして、こうした政治や経済に関する運動は、短期間で成果があがるものではなく、ねばりづよい中・長期的とりくみが求められる。
 だったら、なおのこと、嫌がる人の尊厳を冒す必要はない。いつも同じときに、同じ場所にいなければ仲間じゃないと決めつけ、人を粗末に扱う労働組合関係者や労働NGOアクティヴィストをわたしは何人も見てきた。みなの前で侮辱・罵倒したり、批判ではない悪口・中傷を言う。電話で大変不誠実な応対を重ねる。頭ごなしに意味不明のことを怒鳴りつけて威嚇するなどなど。会社での各種のハラスメントと比べて、どちらがマシなのかと首をひねる場面もあった。
 ほんの少しの意見や趣味の不一致に神経質になる。みながいっしょでなければ不平等でケシカランとか、こ秩序が乱れるとか心配してばかりいる。
 特にリーダーやサブリーダーは、組織化を通じて他人をコントロールしたいがために「分断統治はダメ、もっと団結を」と唱えているようにも見えて、気味が悪かった。
 たとえば、ある労働問題の雑誌を作ろうと呼びかけた人は、とある掲示板で「わたしはこちらのコミュニティにはあわない。だから去ることにする」とカキコをしたときに、おかしなレスをよこした。「そうですか。また気が向いたらいらしてください」
 いったい何を言っているのだろう。わたしはあわないから去ると書いただけだ。だったら、それを尊重すればよい。にもかかわらず、その管理人は、自分とちがうタイプの他人の参加コミュニティを選ぶ権利を尊重できない。自分の管理するコミュニティが選ばれなかったことを理解できず、トンチンカンな答えをよこしたのだ。人の個性や選択を侮辱する、人格無視のコメントであり、腹立たしい。思い出すだけでゾっとする。

 そんなことをしなくてもいい。個人とか各ユニットの独立性を尊重しあって、ムリなくいっしょにやれるなら、協力してことに当たればよい。
 世間の偏見や無理解、当局の弾圧などに、たくさんの中心があったほうが防御しやすい。そのことは、インターネットの基本的な仕組みを見ても分かることだ。
 会社のストレスで死にそうになったり、軽い慢性的なウツ状態になったりしているときに、ムリに勉強会や定例会に出席する必要はない。出席しない人間をおとしめるなどとんでもない。むしろ、そのように個人の都合や体調や考えを壊すようなやり口をとるから、若者は組合に寄りつかないわけだ。
 
 サヨクの一元的集団主義、硬直した共同体主義を、見直す時期に来ている。多様なコミュニティと個人による、ゆるやかな連合を! 
 アクテイヴィストらは、画一主義的で支配欲旺盛な組合に、若者や女性たちが集まらない原因をよく考えたほうがいい。確かに分断統治は迷惑かもしれない。
 ならば、離合集散を活用する手もある。名づけて「分散抵抗」。ちじぢりになって、だからこそ身軽に、必要に応じて抵抗できる。つぶしたい側はどこが中心か分からないので、手を打ちにくい。
 とにかく、個人の権利をやっつけないこと。わたしはもう、上の世代の男性中心の労働組合や、同じ価値観に染まった頭の固い労働NGOの活動家にはウンザリしている。若い世代でも、全共闘世代にこびるような情けない人もいるのだ。
 とにかく、30年一日のごとく分断統治に言及または反対していさえすれば、若い世代がついてくる、といった過去の成功体験による呪縛(?)をとりさるべきなのだ。
 別に労働組合に幻想もないけれど。おかしなことばかりしないでほしい。
 あなたがたの「善意」の行動が、かえって人を苦しめていることに気づいてほしい。

(9/27読みやすくするために一部の表現をあらためました。主旨に変わりありません。)
 
 
 
 

 
 

ものづくりが若者を救う?

2005-06-13 20:52:45 | 政策
 「学校に行くのがイヤなの? あちこちの企業をわたっているの? それじゃあ、ものづくりの仕事なんてどう? 職人になって誇りを持てば、ストレスから救われるよ。」という言論と実践がある。ものづくり大学までできでいるそうだ(職業訓練校や工学部とどう違うのだろう?)。
 しかしこれはノスタルジ-である。また、おおかたの未熟錬工の不安定な立場をおおいかくしている。親方・熟練工や職長にだけ注目すれば、社会的地位も高く、誇りもあったろう。だが、工場のなかでの未熟錬工の地位は低い。熟練工となって高度な技能を身につけ、安定した給与と身分保障を手にできるのは一部のエリ-トだけなのだ。また、そうしなけば雇用者はやっていられない。なにせアジア諸国との競争に常にさらされているのだから。人件費は削りたいはずだ。
 また、そういう人たちは、機械に支配される前の職人とその仕事を前提に話をしている。職人が総合的に仕事をデザインし、あらゆる工程を器用にこなし、高度に熟練するまで育てる仕組みのあったころことである。それはまた、時間や規律にあまりしばられずに仕事をした時代の職人を想定している(アメリカならば19Cころまで)。同時にそれは、小さな機械を取り入れながらも、大工場の職務管理が導入される前の、家内工業の仕事を想定しての話だろう。つまり、人間が機械に使われるのではなく、人間が機械を使っていた時代の話である。
 
 「古きよき時代」の、職工というよりも職人であったころの仕事のスタイルが、今なぜ語られるのか?
 ノスタルジ-だけではない。自分でコントロ-ルできる範囲の大きな、自律的な仕事だからでもない。職人仕事には、若い世代の退廃を取り締まる道徳教育としての役割も期待されているのではないか? 

「環境変化の中で、多くの職人は工場が欲求する熟練労働者として身を処し、また子供にも工場に役立つ技能を身につけさせようとした。しかし時勢に順応するだけでなく、職人社会の伝統的な手工訓練を子供にほどこそうとする職人がいなくなったわけでない。またそれを支援しようとする教育者や社会改良家も少なくなかった。職人が持つ万能工的な手法、あるいはみずから構想し実行する技能こそが真の熟練なのであり、生活に役立つだけでなく労働の尊厳と創造への意欲を喚起する源なのだという主張が、世紀末の社会にかなりの説得力をもって受け入れられたのだった。大企業経営者たちでさえ、若者の無気力、放縦、労働倫理の喪失という憂慮すべき風潮に対する対策として、その動きを歓迎した。こうして、いわば道徳教育の理念と結びついた手工業教育(マニュアル・トレ-ニング)」が、公立学校のカリキュラムにも一部導入された。だが、その手工訓練で教えられる種類の技能が就職に役に立つという確信は、育っていかなかった。(1)」

 以上の引用は、19世紀末、大工場の職務管理や職業訓練校制度などが整備されてゆくなかで、徒弟修業制度が崩壊の危機にさらされた。じょじょに手工業から機械優先の仕事へ、自分たちが労働を管理するやり方から会社による労務管理へ、全般的な技能から専門分化した技能へと職人の役割が変わっていったころのできごとである。 
 昔、小学校というところに通っていたときに、「いまどきの子どもは脆弱で不器用でケシカラン!」という議論があった。そのため、わたしたちは鉛筆削り器を使うのではなく小刀やカッタ-ナイフで鉛筆を削らされた。あるいはお箸の使い方がなっていないのは情けないし失礼だという心配性の大人たちの精神をなだめるために、おはしで大豆や小豆をつまむ練習を学校でも家でもやらされた。けれど、そんなことをしなくても生きてゆけないわけではなく、まったく無駄な訓練だった。それと同じようなことが、19世紀末アメリカで行われていたのである。

 ひるがえって今の日本を見てみよう。大阪府東大阪市の一大工場地帯は、どんどん貧窮化している。バスで町を走ってみれば、仕事にあぶれたがまだ解雇されていない人たちが、工場の前で新聞を広げたりタバコをすったりしながら、イライラしたような悲しそうな顔をしている。手持ち無沙汰でガラクタをいじっている人もいる。大方の人はやせこけている。
 そこで教師、社会改良家、保守系政治家、経営者……らが、それぞれの思惑から「ものづくり」「職人気質物語」を語る。工場がアジアに出ていってしまい、身近にはほとんど残っていないときに、だ。派遣や業務請負を通じてつかの間の雇用によってアルバイトがこき使われるswet shop(人をこき使う工場)の不安定な仕事しかある種の若い世代には職がない時代に。
 そして、ものづくり大学には、いまどきの若者が興味をもちそうな映画やアニメ、ゲ-ムや音楽を作るためのコ-スはない。荒れ果てた里山の自然を守る職につくためのコ-スもない。あくまでも高度成長期の、日本の技術を支えた職人の誇りをほめたたえる。そのメンタリティの一部はNHKの高視聴率番組「プロジェクトX」にも通じるところがある。
 しかし劇的に、あるいは美化されて伝えられる職人の生活はそれほどよいものだろうか? 実は親類とのつきあいで、大阪府東大阪市の布施という町にしばらく住んだことがある。確かに、一個一個の小さな工場が独立して、職人が技術を持っている。それはすばらしい。けれど、科学技術の時代に、職場にすべての知識と技能がある職人文化は廃れつつあった。また、職住隣接のデメリットで、近所の小さな工場から出るシンナ-の匂いで体を壊してずっと寝込んでいる人もいた。実はわたしも喘息が悪化したため、どこか空気のよいところに引越しを迫られた。
 また、サ-ヴィス・ソフト産業が主要な産業になっている産業構造の変化もある。何もものづくりが一切不要とか、いけないとか言っているのではない。おおかたの若い世代を古きよきものづくりの中で道徳的に統治し、失業や半失業問題を解決しようとしてもムリがあるのではないか、と問題提起しているのだ。
 私事で恐縮だが、亡き父は科学技術者だった。その影響のもと育ったわたしには、どこか科学技術信仰の気がある。小さいころほどひどくはないが、やはり科学技術やそれを仕事にする人を尊敬しているし、なんとなく「博士号を持っていないのはよくないことなのかなあ」と物思いにふけったりもする。
 そんな自分にとって、科学技術とはほど遠いところにある職人文化は、異文化だ。親が職人をしている人、「よい」学校を出たあとで職人になり、その後ホワイトカラ-に転職した人、書物やHPを通じて学習する対象であっても、親しみを持つには少し遠い距離にある。
 また、ものが余ってデフレになっているこの時期に、いまさらのようにモノをつくれと絶滅寸前の職人賞賛をするのは、問題解決策として賢明とはいえないのではないだろうか? 少なくとも、万人にすすめられる方法ではないことだけは確かである。
 またそれを唱える人々は、決して職人階級の仲間入りをしたがらなさそうな商人やホワイトカラ-であることも確認しておこう。彼(女)らはまず、自分は職人にはならない。他人になってほしいのだ。
 ここで科学史をおさらいしよう。19世紀半ばごろ、デモクラシ-の進展と同時並行して、それまでキッチリと分かれていた科学と技術の融合がおこった。それまでは、科学は貴族的・純理論的・知的な営みだった。それに対する技術のほうは、より下層階級的で実用指向が強く、経験的なものだった。それは頭脳と手のつながりの強調だった。
 さまざまな階級の服装が、知識が、職業が融合するときに、科学と技術も融合して科学技術になったということだ。人文教養の城のようなヨ-ロッパの諸大学にも、科学技術は徐々に理系のカリキュラムとして居場所を確保していった。その伝統として、いまだにMITは大学とは名乗っていない。(このへんは大学史の初歩の初歩。)

 職人文化を盛り上げるとは、もう一度、科学技術を科学と技術に分かつことを意味する。これは、反デモクラシ-と連動した動きであることを警戒したほうがいい。とりわけ、上流階層や保守層によってそれが推進されるときには注意が必要だ。
 
 

 ノスタルジ-、道徳的締めつけ、多分誰でもがイヤがる作業や弱い立場--農耕共同体の外の立場--の他人へのおしつけ。情報やソフト生産への無視または軽視。
 そうしたバイアスが、職人礼賛論には多分にかかっている。

 それから、職人は伝統的に男性中心の世界。女性が入ってゆくにあたっては、障壁もある。
(2)
 だいいち、聖職者でもないのに「救う」という発想じたいがおこがましいのだ。職人絶賛教に帰依しないかぎり、迫害してやるぞと言わんばかりだ。南米のインディオへのキリスト教布教は、軍事的征服が失敗した場合の「魂の征服」だった。今の日本では、職人礼賛教による若者への「心の征服」が進行中だ。
 この手の上の世代の傲慢につきあってあげる義理や義務はない。そこまで上の世代に優しくなくてもかまわない。
 とにかく、ものづくりと職人のススメが若者の失業問題を解決することも、精神的な問題を解決することもない、ということでこの記事のファイナル・アンサ-としたい。
 で、読者はどう考えますか?



(1)「アメリカ職人の仕事史--マス・プロダクションへの軌跡」森 たかし(たかしは日の下に木の一文字の漢字。)中公新書1996:241
(2)「若き女職人たち」 集英社新書阿部 純子 (著), 伊藤 なたね(写真) 2002
(3)たとえば「科学革命と大学」エリック・アシュビ- 島田雄郎訳 中公文庫 昭和52年のなかの Ⅱ.科学は海峡を超える Ⅲ.技術が取り入れられる



 

 

 
 
 

 

 

 

 

失業者にマイナスの消費税を!

2005-02-02 22:28:52 | 政策
(NOW BUILDING)まだ中間報告です! 註はこれから細かい部分を仕上げます。著作権違反ではありません! 

 
 失業者および半失業者は、社会に参加していない、あるいは社会参加する心を持っていないゆえに非難されることがある。
 何でも心の問題にすりかえたがるココロ・マニアにはもううんざりだ。それはさておき、その前提は、本当に当たっているのだろうか?
 学校または会社=社会という構図は疑問符をつけられて久しい。学校と会社以外にも、家庭社会、NPO社会、地域社会、ネット社会、国家社会などたくさんの小社会が集まって地球社会社会全体が成り立っている。また、社会の外にある自然・宇宙といった世界も人が住む環境を考えるうえで忘れてはならない概念である。
 
 精神科医の高岡健は、ひきこもりに関する評論のなかで、消費は社会参加のいち形態だと指摘している(1)

 わたしはこの謙虚な医師の指摘に全面的に同意している。
 消費もまた、社会参加の一形態なのだ。かつて文明批評家イリイチは、「シャドウ・ワーク」という言葉を創出した。そのときの彼の議論によれば、近代的な子どもたちの受験勉強、専業主婦の家事労働、休日に消費をする労働、これらすべては西洋近代型の大量消費・大量文明を支える重要な労働である。にもかかわらず、正当な労働と認められず、価値を貶められている。
 そう、消費も労働なのだ。とりわけ、フリーターなど物質的にはあまり恵まれていない層にとっての消費は大変な労働だ。百円ショップで環境ホルモンから新鮮さにいたるまで、安全性の疑われるものを買うこと。建前は選択の余地があるのに、実際には貨幣の不足によって選択がほとんどできないひどい現実。
 その消費労働をこなす者がいなければ、今日の消費社会は成り立たない。今の経済の枠組みの中での景気対策も立ち行かない。経済成長のためにはより多くの消費が必要(2)だからだ。
 それを、高所得者層への減税というレーガノミクスによるのは得策とは言えない、とするのがわたしの見方である。
 レーガノミクスでは、金持ちはより高額所得を、貧乏人はより貧困になる恐怖・不安を勤労動機にするとしている。これは本当かどうか疑わしい。
 満足しきった富裕層はあまり働かなくなるかもしれず、貧乏ゆえに絶望しヤケになり怠惰になる可能性も考えられるからだ。
 
 仮に一億人の国があったとする。たった5%の高所得者層(資産数億とか十数億だとする)が消費するにも限界がある。広い家にしまうことのできるブランドものにも限りがある。高級レストランに入っても、ひとりで100人前をたいらげることはできないし、通常注文もしないだろう。たいていの場合、車を使うので地域商店街はうるおわない。当然、他人とのふれあいや出会いも制限される。
 他方、人口の4割弱をしめる(400万人)がパート・アルバイト・派遣などの半失業者と失業者(OECDの先進国基準にならい、年収240万円未満とする)だとしよう。そうすると、ひとりがひとつブランドものを購入すれば、高所得者の8倍の消費効果が現れる。レストランに入っても、結果は同じだ。車検は高いため、車以外の交通手段を用いる人が多数を占める。とすると、電車・バスに乗る。あるいは自転車をこぐ。買い物の帰りに家族や友人と喫茶店で一服する。
 さらに、失業者が近所の喫茶店のマスターや常連客とおしゃべりをしており、中には仕事や資格に関する情報も含まれる。極端な貧富の差がないため、社会には仲間意識・連帯感が生まれやすい。多くの人たちが草の根のスポーツやボランティアのNPOに関わっている。会議のために外出し、書類を作り、人を動かす。これもまた経済効果がある。
 人口のごく一部を占める高額所得者と大部分を占める低額所得者。いったいどちらに対して減税を行うのが景気対策と国の財政運営上妥当なのか?(2)

 わたしなら後者をとるが、読者は?
 
 さて、低額所得者がそこそこの経済的なゆとりを享受できる条件は、給与・保障のほか、税によっている。
 この記事だけですべてを書くことはできない。けれど、ここでは失業者および半失業者(年収240万円未満の層)にマイナスの消費税をかけることを提案したい。つまり平たく言えば、消費税をまける、ということである。
 たった3%とか5%であっても、消費労働を公式に認め、社会の分極化に歯止めをかける方向性を公権力が示す意義は大きい。
 
 とにかく、失業者と半失業者にマイナスの消費税を導入しよう、と訴えたい。それが日本国だけでなく、近い将来アジア連合単位で行えることも視野に入れながら。

(1)高岡健「ひきこもりを恐れず」ウエイツ
(2)J・ステイグリッツ「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」徳間書店



付記1:もちろん、イリイチの提案意図とは違う、とする批判はあるだろう。彼は、国に頼らない自律共同体を肯定したのだから、と。
 哲学的・思想的に見てそれは正しい。ただし当面のところ、実際の政策としてはむつかしい。富士通のトウモロコシから作ったエコロジカルなノートパソコンのように、今の経済の枠組みを生かしながら、新しい道を開く可能性もある。わたしはそれに賭ける立場であるが、読者は?

付記2:マイナスの消費税については、去年の3月に高岡健と行った会話に勇気づけられた。彼は、関西的な“ボケとツッコミ”の分かる中部地方の人だった。ここで披露したつたない提案を、ケラケラと笑い転げながら聴いてくださった。聴くだけで人の「自律的な学ぶ力」と「自律的な癒す力」(「」内はともにイリイチ)を増幅させるシャーマンのような技ではない技、何もしないことによってすべてを成す「老子」に出てくる聖人のようなたたずまいに感銘を受けたことをここに記したい。