幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「孤独のすすめ」五木寛之著 ”「諦める」ことに徹しよう、と心に決めた時期から、私の後半戦ははじまったのです。”

2020-11-18 19:08:58 | 本の紹介
・愁いがくっきり見えてくるのが高齢者の特徴ですが、その愁いを逆手にとって、むしろそれを楽しむという生き方もあるのではないか。

・五十嵐久雄医師(神戸)
春愁や 老医に患者 なき日あり

・私自身は、もともと群れるのが苦手で、孤独に偏する性分だという面もありますが、歳を重ねれば重ねるほど、人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感する気持ちがつよくなってきました。

・歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独のすばらしさを知る。孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半のすごく充実した生き方のひとつだと思うのです。

・昔話をするのはむしろ、歳を重ねた人間にとっては豊かさや元気の源といってもいい。

・人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と、四つの季節が巡っていくのが自然の摂理です。

・回想は誰にも迷惑をかけないし、お金もかかりません。繰り返し昔の楽しかりし日を回想し、それを習慣にする。そうすると、そのことでさび付いた思い出の抽斗が開くようになり、次から次へと懐かしい記憶がよみがえってくるようになる。はたからは何もしていないように見えても、それは実は非常にアクティブな時間ではないでしょうか。

・まず、自分の衰えや疲れを素直に認めること。そうすれば、生きていくうえで必要な神経をさらに研ぎ澄ますことも、可能になるのではないか。「諦める」ことに徹しよう、と心に決めた時期から、私の後半戦ははじまったのです。

・私は「この世界がどう変わっていくのか、見ていたい」だけなのです。・・・。知りたい。そのために長生きがしたいと思う。

・「ロスト ターン」という物語(「リトル ターン」の後に出版)
主人公の鳥は、嵐の中で自分の帰るべき故郷を見失い、帰れなくなってしまいます。これが第一の喪失です。そして遍歴の末に、ようやくかつての故郷に辿り着きますが、そこは見知らぬ場所のように変わっていた。せっかく帰っても、自分のアイデンティティが回復された喜びが何もない。ここを目指した自分は一生懸命探し回っていたのだろうかと、なにか違和感を覚えてしまう。これが第二の喪失です。いわば二重の喪失というか、喪失がより深まった。それが社会の現状、若い人たちをひっくるめて、人々が抱えている感覚なのではないかと、とても共感するものがありました。
その物語の中で、主人公の鳥は、ある老人と出会います。この老人は自然災害によって家族をすべて失ってしまい、絶望感で生きる気力も失ってしまっていた。ところが同じ絶望感を抱いた鳥と老人が偶然近づいて、無言のうちに奇妙な友情を感じ始め、並んで星を見るとか、そういう中で、鳥も老人も、少しずつ、少しずつ、回復していく、そういう物語です。
老人も鳥も、昔の状態を取り戻そうとしても、無理なわけです。迷っている中で、何かを求めて右往左往しているこの場所にしか自分たちの居場所はないという境地に、両者は徐々に達します。どんなに現状が酷く、道が険しかろうと、そしてつまらなかろうと、ここで生きていくしかないのだから、なんとか生きることを放棄せずに、つつましく生きていこう、と。

・そもそも、迷っている状態そのものが、生きていることなのではないか。私は、迷いとか戸惑いというのは、決して困ったことではなくて、大事なことだと思っています。『ロスト ターン』の鳥のように、迷いから、またため息をつく中から、人は命を活性化させていくものではないだろうか。それこそが『TARIKI』の思想と、どこか重なっていくおではないかと思っているのです。

・インドのヒンズー教
人生を四つの時期「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」

・私の場合、フィジカルな不調に関しては、テーマを決めてひとつひとつ丁寧にやっていくように心がけてきました。主なテーマは、転倒、嚥下、呼吸、など。私が発見したのは、無意識にやってはいけない、ということです。例えば「薬のカプセルを二つ飲むぞ」とか「水を口に含んで飲み下すぞ」といった具合にちゃんと脳に伝達して確認をしないと、誤嚥するリスクが高まる。

・その問題とは、使用済み核燃料の処理の問題です。もうひとつが、超高齢社会の行方。

・生き抜いていくため
1) 経済的な基盤
2) 健康な肉体
3) 精神の自立

・古代ローマ人の詩人、ユウェナリスが、当時の世相を評して残した言葉に、その答えの一端があるように思います。「パンとサーカス」。権力者から与えられるパン=食料と、サーカス=娯楽に満足し、権力に対する政治的な批判精神を喪失したローマ市民を揶揄して、彼はそう表現したのでした。

・心配が杞憂で終わればいいのですが、私には、到底そのようには思えません。この国が、本物の「心配停止」になる前に、なにかやるべきことはないのでしょうか。

・私が恐れるのは、国のリーダーたちも国民も、そうやって「心配停止」のまま、いたずらに時を過ごし、これといった針路も定めぬまま歩みを進めた結果、期せずして、「嫌老が当たり前の社会」を現出させてしまうことなのです。

・ともすれば「社会のお荷物」になりかねない高齢者に、「静かに」していてもらうのではなく、より一層、社会の前面に出て奮闘してもらおう。ただ時間潰しに日銭を稼ぐといった立ち位置ではなく、国力アップの推進役を務めていただきたい、それが、私の理想とする新しい時代の老人像です。日本経済を再生させる主要メンバーという意味で「大切に」考えていこうではないか、ということなのです。

・「嫌老社会から賢老社会へ」というスローガンが成就するのかどうか、今はなんとも言えません。でも、そのためにできることがあれば、私は努力を厭わない覚悟です。

・誰でも生きていれば、つらいことや、嫌なことは山ほどあります。しかしそういう記憶は、抽斗の中にしまったままにしておいたほうがいい。落ち込んでいる時、弱っている時は、なんともいえないバカバカしい話が逆に力になることがある。賢人の格言より、思想家の名言より、生活の中のどうでもいいような些細な記憶のほうが、案外自分を癒してくれるのです。

感想
孤独を楽しむ、味わうように下山の喜びを見つけることなのでしょう。
そして、できれば何かできることがないか見つけてそれを行うことなのでしょう。
(人生の)下山のヒントが多くありました。

この本は2017年7月に発行されています。
五木寛之氏は1932年生まれ。
これからもお元気で発信していただきたいです。

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