幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

言の葉たより(渡辺祥子さん)=どんな状況の時でも 見捨てずにいてくれる人の存在が、人を大きく育てる=  

2018-04-02 08:28:12 | 生き方/考え方
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=どんな状況の時でも 見捨てずにいてくれる人の存在が、人を大きく育てる=


平昌五輪女子スピードスケート金メダリストの小平奈緒選手のインタビュー記事を新聞で読みました。

最高の成果が出た今回の大会は過去の大会に比べて何が違ったかという質問に対しての返答で、私の心に一番残ったのが今日取り上げた事柄でした。

小平さんは、以前は「結果が出なかったらみんなが離れていく気がして、結果を出したいという欲がすごく出てしまっていた」と話していました。

~確かに、みんなに認められたい、期待に応えたいという思いは誰もが持つものですし、それが大きなモチベーションになって、いつもの自分以上の力をもたらすこともあると思います

でもそれが大きなプレッシャーになって、自分を押しつぶしてしまうこともある…。

この違いはどこにあるのかと考えた時に私の中に浮かんだキーワードは、「他人に意識をもっていかれる」か、「自分に集中できるか」でした。

小平さんは、オランダ留学時に、コーチや親が子どもを褒めて自信を持たせていた姿を目の当たりにしました。

そして自分自身に目を向けたときに、例え成績が出なくても、自分を見ていてくれる家族やコーチなど多くの存在があることに気づいたそうです。

それが大きな自信になり、他人に意識をもっていかれない、自分に集中した試合を展開することが出来たのでしょう。

この小平さんのお話しは、子どもの教育を考える時や部下の指導をするとき等の大きなヒントにもなるなぁと思いました。

頑張らせようとアプローチをすることや期待をすることは悪くはないけれど、成果を出さなかったら離れていくような恐怖感を持たせてはいけないし、それはその子(人)を萎縮させてしまうと言うことを教えられました。

どんな状況でも、いつも見捨てずにいる…。
自分にとっても、大切な誰かにとっても、そんな存在でありたいと思いました。

さぁ、新しい一週間が始まりました!!
今週も、笑顔でいきましょう^^

感想
誰か、自分を信じてくれている人がいる、支えてくれている人がいると実感できると、人は未知の道にも歩んでいけるのでしょう。

大平光代さんが極道の妻から、高校中退でしたが、宅建、司法書士、弁護士、大阪市副市長と自分がいじめを受け人生を見失った経験を生かし、青少年の支援に努めて来られました。
大平光代さんが人生を見失った時に、大平光代さんを信じて支えてくれた叔父さんがいらっしゃいました。

誰かを信じ、支える側になれたらステキです。




「愛をみつける」井上洋治著 ”神さまからの愛を感じ、悲愛を周りに実践していく”

2018-04-02 08:26:18 | 本の紹介
・プラトン「饗宴」の中の話
 アリストファネスが語る。
 初め人間は、今のように男女二種類ではなくて、男と女の他に男女(オメ、アンドロギスース)という第三番目の種類の人間がいました。この三種目の人間の容姿は、全体としては球形で、周りをぐるりと背中と横腹がとりまいていました。手は4本、足も4本、頭が互いに反対を向いた二つの顔の上にのっており、セックスも二カ所にあり、走るときは、この八本をちょうど風車のように回転させて進むというありさまでした。この人間どもが、強さと腕力を鼻にかけて傲慢になり、ある日ついにギリシャのオリンポスの神々に刃向うようになってしまいました。そこでゼウスをはじめとする神々は、オリンポスの山に集まって、一体この生意気になった人間どもをどうしたらよかろうかと相談しました。人間どもを皆殺しにしてしまうことは、神々とっては簡単なことですが、しかしそれでは人間どもから神々に捧げられる供え物も神殿も同時になくなってしまうことなります。わがままをやめさせる方法はないかと頭をひねったあげく、とうとう人間を一人一人捕まえて、ちょうどゆで卵を二つに切っていくように、切っていけばよかろうということに衆議が一致したのです。
 それで人間はみんな二つに切られて別々の半分の人間になったので、切られた半分は皆元の一つの状態になろうとして、今の自分に欠けている、もと一緒だった残りの半分を探し求めるようになったという。

・彼ら(パリサイ派)は、「人間はかく生きるべきだ」という信条を、一生懸命真面目に生きていた人たちだったからこそ、まさに、ちゃらんぽらんに生きている人たちをゆるすことができず、彼らを心の中で軽蔑し、彼らを審(さば)く結果になっていたのでした。

・ふだん私たちは全く自分の思い通りに自由に行動していると思いこんでいますが、実際には無意識ののうちに自分で自分にかけた暗示によって、もう少し詳しくいえば、意識の下に抑圧されている意識下の働きの意識への規制によって行動させられていることが案外多いということになります。そう考えてくれば、いつも時間をきちんと守らないルーズな人にも、使ったものをもとにもどしておくようにいくら言っても駄目な人にも、それぞれの環境や幼児体験によって、自分ではいけない、いけないと思いながらも、なかなか自分ではどうもならないというようなことがあるのだと思います。

・私は人間というものは、多少の差こそあれ、陽のあたっている面と、影になってじめじめしている面とを両方持っているはずだと思っています。

・福音書を読むと、イエスが病人をなおしたり、死人を生き返らせたり、湖の上を歩いたりする、いわゆる「奇蹟物語」がたくさんでてきます。そういう不思議なこともあるだろう、と簡単に思える人は、そのまま読み過ごしていけばいいわけですし、そんな馬鹿なことが、と思う人は、奇跡ものがたりというのは、イエスには人間を超えた何かある大きな力が働いていたのだろう。

・ある律法学者がイエスに向かって問いかけました。
「先生、どうしたら永遠の生命に入ることができるんですか」
「・・・。モーゼの律法には何てかいてあるのですか」。
「全身全霊をあげて神を愛せ。また自分自身を愛しているように、あなたの隣人を愛せ。そうかかれている」。

・レビ記
「全くあなたのいう通りだ。ただ口でいっているだけでは駄目だ。それを実行しようと努めなさい。そうすればあなたは永遠の生命に入ることができる」。

・パウロ「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣く」

・涙を流してきた人ほど、人の哀しみにやさしいといいます。自分の心の中にひそむ醜さや汚さや弱さに気づいている人ほど、人の弱さを受け入れ、ゆるし、人を大切にできるようになるのもまた確かなことだと思います。

・人生で一番大変な時期は、老後ではないかと思います。それは人生の夕暮れであり、色あせてきた自分を受け入れなければならない時期だからです。人生とは受け入れるべきものだ、そう私は思っています。そしてそれは、与えられた自分自身を受け入れることでもあると思います。どのように人生をより美しく確立していくかということぐらいでしょうか。いってみれば、トランプの札はもう配られているのです。くばられた札については、もう私たちの力をこえています。もっとも、人間の美しさと素晴らしさは、与えられた札で、どこまで自分の人生を美しく確立していくかという、その人の努力にあることは、充分みとめなければならない。

・現代人が真の意味で祈りの姿を忘れたのは、人生とは受け入れるべきものだ、という真理を忘れたからだと思います。そしてさらに、なぜそれを忘れてしまったのかといえば、人生とは全体の中での一つの役割を生きぬくことだということ、すなわち全体と個との関係が見失われてしまったからだろうと思います。

感想
井上神父の本を読んでいると、キリスト教のお話なのですが、その前に生き方を学んでいるように思います。
その生き方ができるのは、イエス・キリストからのアガペ(悲愛)をどんな時にでも感じることができるので、人生に吹く風を神さまからの使命と身を任せ、悲愛を実践していくことなのでしょう。

私が私がと自我を主張していると心の静穏は得られず、身を全てお任せすることだと。
人と人との信頼でも、信じる人がいてくれると心強いです。
まさに神さまを信じるとは、神さまが自分を信じてくれている、その期待に沿った生き方を目指していくのでしょう。
失敗しながら、でも目指すところはアガペ(悲愛)の実践なのでしょう。