「バルテュス展」
[英題:Balthus: A Retrospective]
東京都美術館
2014年4月19日~6月22日
バルテュス―。
いかなる画派にも属さないこの画家を、ピカソは「20世紀最後の巨匠」と呼んだ。
西洋絵画のメインストリームの文脈では捉えがたいこの画家の作品群をどう評するのか。
それが、本展を訪れるにあたって一番興味のあった点だ。
ほぼ独学で古典的な西洋絵画の精髄を吸収していったバルテュス。
展覧会場では、ピエロ・デラ・フランチェスカやプッサン、ドラクロワといった巨匠の名が挙げられていた。
バルテュスの伝記的事実については私は明るくないので表面的な考察になってしまうが、彼の作品群を観ていて比較的よく登場するモチーフのひとつが、座椅子にもたれかかる女性像であることは論を俟たないだろう。
トップに貼り付けた広告にも載っている《夢見るテレーズ》しかり、《美しい日々》しかり、《決して来ない時》しかり。
《美しい日々》
《決して来ない時》
なかでもとりわけ私が興味をそそられたのは、《目ざめ (I)》である。
この絵はカラヴァッジョの《愛の勝利》にインスピレーションを受けていると解説にあった。
おそらく伝記的事実に即していえばそうなのだろうが、先入観をもたずに私がこの絵を観て、ぱっと連想したものはむしろティツィアーノの《ダナエ》である。
ベッドの天蓋の感じや上方を見上げた人体図など、ティツィアーノの名画の質感がバルテュスの脳裏にあったとしてもおかしくない。
(もっとも、ティツィアーノでなくとも、レンブラントやコレッジオのダナエ像でもいいのだろうが)
それを踏まえてバルテュスの描いた作品群をみてゆくと、彼の〈少女像〉は、あたかも西洋絵画における〈裸婦像〉の伝統をバルテュス的に変奏したものなのではないかという気さえする。
思えば、西洋絵画の伝統的な裸婦像というのは、しばしばゆったりと体を横たえた姿勢をとっている。
したがって、バルテュスをむりやり西洋絵画の文脈のなかに位置付ければ、こうした〈裸婦像〉の伝統の延長線上に置くことも可能なように思う。
また、上に載せた《美しい日々》に描かれている鏡をもった少女は、ベラスケスの《鏡のヴィーナス》のエコーであるかのようでもある。
バルテュスの絵画の特質は、伝統的な〈大人〉の裸婦像から〈少女〉の裸婦像へと美の規範を転換させたことにあったといえるかもしれない。
そしてその変奏の調べは、なお捉えようとしても捉えきれない魅力をのこしている。
とはいえ、無理して西洋絵画の文脈に当てはめる必要もないのだろう。
ちょうど印象派とアカデミズムの衝突のなかで新たな絵画の可能性が追及されていった19世紀の画壇において、どの画派にも属さなかったシャヴァンヌが異彩を放ち、現在再評価が進んでいるように。
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