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ルノード・ムーソン司教「シャルトル大聖堂」

2014-01-04 23:16:41 | 番組(美の巨人たち)


2014年1月4日放送 美の巨人たち(テレビ東京)
ルノード・ムーソン司教「シャルトル大聖堂」

中世ヨーロッパのゴシック建築は、フランスのサン=ドニ大聖堂に始まる。
ロマネスクの時代から飛躍的な進歩を遂げた建築技術は、「光」の表現にその真髄がある。

あたかもバシリカ内部に満ちた光が外へ溢れ出したかのように、新しい建築技術は大陸の諸外国へと広まってゆく。
尖塔アーチやリブ・ヴォールトフライング・バットレス(飛梁(ひりょう))といった建築用語の豊かさも、ロマネスク様式からの発展を明瞭に示している。

番組冒頭、「建築技術と装飾の融合」にこそシャルトル大聖堂、ひいてはゴシック建築の本質があるといった内容が語られていた。
そのひとつが、「控え壁」なるものではないかと思う。

シャルトル大聖堂は、その精巧なステンドグラスのみならず、4000体にも及ぶ石像の数にも特徴がある。
当然、控え壁にも装飾が数多く施されている。

番組をみていて感じたのは、真に美しい装飾というのは、決して余剰なるものではなく、むしろ必然や必要性から生まれるのではないかということだ。

一般に「装飾」というと、特別「機能」は果たさずとも、外見を整え、人工的に「美しく」みせる意匠といったイメージが多少あると思われる。
しかし少なくともシャルトル大聖堂の「装飾」また「美しさ」は、全く順序が逆なのだ。

建築技術の必然性から、必要最低限の「補助」を「胴体」に加えていく。
のちに改良の過程で洗練されたものが、結果として装飾的な美として目に映る。

まさに「機能美」ともいうべき、洗練された美である。
ちょうど、優れた数学の公式がしばしば極めてシンプルな形をとるように、「余剰」が剥ぎ取られたところに、「装飾」の美が宿るのである。

もう一点、ゴシック建築の「光」をみていて連想したものがある。
それは、香川県にある「地中美術館」である。

この美術館の目玉のひとつは、モネの《睡蓮》シリーズである。
先日当ブログでも紹介させていただいた、修復家の岩井希久子氏も展示に携わっている。
(→ 2012年12月30日の記事

建築それ自体がアートともいうべきこの美術館には、一か所、正方形に切り取られる形で空を見上げることができるスペースがある。
(参照:「グーグル画像検索 『地中美術館 空』」)

日常的に目にしている空は、「切り取られる」ことでまったく別の様相を呈する。
「額縁」に入れられた空は、もはや一種のアートである。

話を中世に戻す。
ゴシック建築において「光」が重視されたのは、ただ単に建築技術の進歩の問題だけではない。

文化的な意味で「暗黒時代」とも呼ばれる中世だが、太陽の沈んだ後の夜は、まさに「暗黒」であった。

「光」は、きわめて貴重であった。
しかしそれでも日中は、晴天である限り、光に満ちている。

ではなぜ、中世の人々は大聖堂のなかで、外でもみられる「光」をあえて求めたのか。
一番わかりやすい答えとしては、「光」が「神」の現在を示すものであったからであろう。

しかしなぜ、それほどまでに「光」が畏敬の対象となるのか。
夜はともかく、昼間は明るいのに。

ステンドグラスを通して大聖堂内に満ち満ちる光は、ただの日光ではない。
様々な色に変化するという点もそうだが、重要なのは、「切り取られた」光という点である。

日常的に目にするものであれ、窓がなければ光が差さない聖堂内で人為的に限定された「光」は、もはや聖性をもつ。
ありがたみがいや増す。

個人的な意見を言わせてもらえれば、教会建築の本質は、訪れた者を「圧倒」することにある。
空間的な効果によって畏怖の念が生まれ、瞑想が促される。

神に思いをめぐらすことは、究極的には自己への瞑想を深める契機となる。
「光」は、象徴的にも空間的にも、とりわけ中世において、神と人とを結ぶものであったのだ。

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