ザメンホフは、その半生をワルシャワの街ですごしました。ワルシャワ旧市街北のユダヤ人共同墓地には、ザメンホフやその妻クララ、父マルコや兄弟らのお墓があります。この墓地の最寄のバス停は、ザメンホフにちなんで「エスペラント」という名前になっており、「エスペラント」行きのバスに乗れば、この墓地に簡単にアクセスできます。
旧市街の北東、ムラヌフ地区のザメンホフ通りには、ザメンホフの住居跡があり、建物側面の記念パネルに、ここがザメンホフの住居跡であった事が、ポーランド語とエスペラントで記されています。
このムラヌフ地区というのは、ワルシャワのユダヤ人居住地区で、歴史的にユダヤ人が多数住んでいた地域です。そのため、1939年に第二次世界大戦が始まり、ワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、このムラヌフ地区を中心に、ワルシャワ・ゲットー(ghetto)が設けられました。
ザメンホフ自身は1917年に亡くなっていますので、第二次世界大戦の悲劇は経験していませんが、息子アダムと、二人の娘リディアとゾフィアは、ワルシャワに住んでいた他のユダヤ人同様、ホロコーストの犠牲者となりました。たった一人、お孫さんが、この戦争を生き延びており、自らの戦争体験を、『ザメンホフ通り-エスペラントとホロコースト』という本にまとめています。
ザメンホフの直系の孫、つまり息子アダムの一人息子であるザレスキ=ザメンホフ氏は、ワルシャワゲットーからウムシュラークプラッツ、つまりゲットーから強制収容所へと運ぶ貨物列車の「死の待合室」へ送られましたが、危機一髪というところで、死体のふりをして難を逃れ、奇跡の生還を果たしました。
ウムシュラークプラッツ(UMSCHLAGPLATZ)は、もともとはグダニスク方面へ向かう貨物列車の荷物詰め替え場所でした。しかしゲットーのユダヤ人の収容所への輸送が開始されると、この広場が、絶滅収容所行き列車の「死の待合室」となりました。ザメンホフ通りをまっすぐ行った付き辺りの広場です。ウムシュラークプラッツへ行ったら最後、もはや生きて帰ることは出来ず、列車に乗せられ、行く先にはトレブリンカ絶滅収容所が待っていました。 このトレブリンカ収容所とは、ワルシャワとビヤリストックの中間に建設された、悪名高い絶滅収容所で、孤児院の院長をしていた教育学者のヤヌシュ・コルチャック先生、映画「戦場のピアニスト」で有名なピアニストのシュピルマン一家 をはじめ、ワルシャワ・ウッヂ地方の30万人を越えるユダヤ人が、トレブリンカ絶滅収容所に運ばれたきり、戻ってきませんでした。
ユダヤ人、ポーランド人、ドイツ人、ロシア人など、互いに言語や宗教が異なる民族の、相互理解、そして平和共存を願ってやまなかったザメンホフですが、皮肉なことに、自らの子孫がホロコーストの犠牲になり、またその名を冠したザメンホフ通りこそが、同胞のユダヤ人を、ウムシュラークプラッツから絶滅収容所へと導く道となってしまったのでした。
本書『ザメンホフ通り-エスペラントとホロコースト』では、ザメンホフの孫であるが為に氏がたどった数奇な半生と、氏の語る世界観を、ジャーナリスト、ロマン・ドブジンスキー氏によるインタビュー形式で掲載しており、大変読み応えのある一冊です。また、日本のエスペランティスト67 名が、メーリングリストで連絡をとり合いながら、エスペラント語版から共訳したことでも話題となっています。