旅のウンチク

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精霊

2010年04月14日 | 宗教
世界には様々な民族が存在し、様々な宗教を信仰していますが、多くの人種や民族にまたがってかなり普遍的に存在するものに精霊という存在があります。精霊は仏教やキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの宗教思想とは少し違って、何らかの倫理や道徳の原点となるものではなくて、むしろ人間の力を上回る力に対する純粋な畏れの現れなのだと感じます。

多くの場合、精霊は人間側の都合や普段の行いとはあまり関係なく、機嫌を損じたり、気まぐれにイタズラを働いたり、幸せをもたらしてくれたり、食べ物をおいて行ってくれたり、逆に食べ物を盗んで行ったり、いろいろな形で人間に関わってくる存在のようです。日本でも、その気まぐれな精霊がイタズラ心を起こさないようにお祭りをして皆で盛り上げたりする習慣が各地に残っています。

そういえば、日本の神話(古事記)の中で、天岩戸伝説は私が好きなお話。あの伝説を日食と重ねて論理的に説明してしまうなんて勿体無い話です。スサノオのミコトの狼藉に怒って天岩戸に篭ってしまったアマテラス大御神を、岩戸の前で大騒ぎして”おびき出し”て、力の強い神様が引っ張り出した話は、妙に神様の心の動きが人間的で、かつリアルな感じがしてお気に入りなのです。

少し話が逸れました。精霊に戻りましょう。

精霊という存在は悪さをするのか、ご利益をもたらすのかが”ご機嫌次第”であるところが素敵なところです。人間の日々の行いにあまり影響されず、正にもなれば負にもなります。毎日欠かさず祈るとか、そういう人間の行いで判断が影響されることがない点では、精霊は我々の願いを聞いてくれる神とは違って、”自分のスタイルを貫く存在。”なのであります。我々、人間程度の存在では、精霊の行動を予測することもできません。ただただ、”楽しく過ごして悪さを忘れてもらう事を”願うしかありません。そして、精霊のご機嫌が悪いときは、とにかくその災いが過ぎ去るまで息を潜めて待つしかありません。

こういう精霊の姿を考えてみれば、これは”自然”そのものを指していることに思い当たります。自然災害は我々の日々の行いなどとは関係なく、突然協力なエネルギーで全てを破壊し去る事もありますし、同じ自然のエネルギーが日常は豊かなみのりをもたらしてくれます。

精霊を今でも信仰している人々が山岳民族であったり、森の民であったり、そういった自然との関わりが深い人々である事は、彼らが自然の持つ強大なエネルギーを良く理解し、畏れているという事でしょうし、先進国と呼ばれる国では精霊の存在など誰も感じなくなったのはそれだけ自然への畏れを忘れてしまったという事なのだと思います。

今、我々の社会では”エコ”が叫ばれ、自然との関わりや地球との関わりを見直そうという動きが高まって来ています。そういう意味では、我々は再び精霊の存在を思い出したのかもしれません。ただ一つ、精霊をコントロールできると考えている点では我々は少し傲慢になっているのではないかと感じます。

近年起こる、大規模な地震、水害、寒波、ハリケーンなどを見ていると、どんなに科学技術が進んでも人間は未だ精霊に弄ばれる存在に過ぎないという事を感じさせられます。自然への畏れを思い起こして、精霊のご機嫌を損ねない生き方を考えるようにするのが一番エコなのかもしれませんね。皆で天岩戸の前で踊りましょうか。


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