旅のウンチク

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総論を信仰する

2008年03月10日 | 宗教
沢山存在する宗教思想に必ず共通しているのは、人間がいかにすれば幸福な人生を送れるかという事を考えている事ではないかと思うのです。そのために自分がどうあるべきか、どう考えるべきかを追求したのが仏教思想でしょうし、そのためにどういった社会を形成するべきかを追求したのがユダヤ教、キリスト教、イスラム教であると思います。他の宗教に関しては私は残念ながら知識がありませんが、信仰する事で”不幸せ”になる思想であれば、それを信仰する人はあまりいないでしょう。

だから、例えば、イスラム教の”アルコールを飲んではいけない”という戒律も、アルコールを飲んで発生するトラブルを排除するための知恵だと考えられます。最近の禁煙ブームなどと同じようなものでしょう。

前にもどこかで触れたかと思いますが、ためしに新約聖書などを一部でも読んでみてください。そこに描かれているエピソードは、2000年前の出来事とは思えないくらい自然に今の我々にも理解できる内容である事が多々あります。ですから、宗教思想で考えられた人の幸せな人生というものについて、”古臭い”とか”時代遅れ”と感じることはあまり無いのではないかと思います。

ただ、各論としての戒律や宗教行事に関しては、場合によっては時代に上手く合っていなかったり、現在の世界の繋がりの中で上手く機能しない部分があるとも思うのです。

宗教紛争の存在などは、その宗教が上手く機能していない点の最たるものではないでしょうか。

つまり、それぞれの宗教はそれぞれの観点から人の幸福を求めているにも関わらず、各論に差異があるという瑣末な事から人にとって最も不幸な”戦争”の原因となってしまうのではないかと思うわけです。

宗教思想が本来目指した目標はそれぞれの思想が描いた”人の幸せ”にあるはずで、そこに至る手段というのは、時代や社会の変化に応じて変えていかなければならないはずだと思うわけです。だから、それぞれの宗教思想の中にある、各論についてはとりあえずそれほど重要視しなくて良いのではないかとも思えますし、考えるのであれば、今の時代に合わせるための方法を考えねばならないのではないかと思います。

一方、科学はそれぞれの問題解決の方法としてのツールです。科学は人がどう生きるべきかとか、社会はどうあるべきかを教えてはくれません。科学万能主義の先進国に暮らす人々が社会のあるべき姿を思い描くよりも、自分が毎日の生活をどうやり過ごすかに熱心であるのは、この総論としての方向性が欠落している点に迷っているのではないかとおもいます。

その点では、宗教というのは私たちに方向性を見せてくれる大切なものだと思います。だから、私は信仰を持つという事は、自分がどういう社会を理想とし、どういう社会の実現を思い描きながら日々を暮らしていくかを決めるという事だと思うのです。

宗教的な信仰を持つかどうかは勿論信仰の自由であります。でも、私たちは日々の暮らしの中で、人間の社会がどうあるべきかを考える機会をあまりにも失ってしまっていないでしょうか。

 宗教思想の”総論”、そこに込められた人の”幸福な社会”に対する考察に目をむけてみるのは決して無駄な事ではないと思います。


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