標津町立川北中学校

 川北中学校は、昭和22年5月6日開校し、平成17年に北標津中学校、平成24年に古多糠中学校と統合し現在に至っています。

戦禍の記憶~川北空襲

2008年03月05日 | インポート

 渡辺文雄さんが文芸誌『樹木』に書いた文章を渡辺さんのご好意で転載します。

     戦禍の記憶 川北空襲の恐怖 
                      渡辺 文雄

 昨年は戦後60年の節目の年であったせいか、テレビ・新聞・雑誌等で太平洋戦争の末期のあの恐ろしい空襲の様子を報道していた。
 終戦の年、私は小学5年生であり、当時のことは記憶も薄れ思い違いや勘違いなど確かでない部分も多いが、川北空襲の光景だけは今も脳裏に焼きついて消えることはない。
 その時の空襲ほど恐ろしい経験は、70年の人生の中で後にも先にもなかった。昭和20年7月15日米軍による川北空襲。
 その日はいつもと変わらぬ朝が訪れた。空は夏の太陽が眩しいほど輝き、気温の上昇と共に暑い日であった。朝食を済ませてそろそろ登校の準備をしていた頃だった。
 突然、警戒警報の半鐘が鳴り響いた。何回か経験していたので別に驚きもしなかった。敵機が室蘭沖へ向かって来たぐらいにしか思っていなかった。母親に裏の防空壕に避難するように言われ、姉と二人でそこに入った。
 それから20分程過ぎた頃だった。けたたましく空襲警報の半鐘が鳴り響いた。父が跳んできて、「ここは危険だから善照寺裏の防空壕へ避難するように」と叫んだ。
 家族4人何も持たずに走ってそこへ向かった。実際は防空壕へ入らず、その横に長く続いていた深さ1メートル程の排水溝へ避難した。そこにはすでに隣近所の二、三家族が来て避難していた。
 それから間もなく4、5機の敵機が上空に姿を現したと思ったら、「ダッダッダッダッ」と連続音を響かせ、一定の間隔をおいて急降下しては機銃掃射を繰り返した。
 また時々「シュシュシュッ」と地面に銃弾が突き刺さるような音もした。また、「ドーン」という爆音を響かせた。機銃掃射、爆弾の炸裂音と地響きそして爆撃機のごう音に子供心にも死の瞬間を迎えたと思い、助けてくれと神に祈った。
 ここに避難していた12、3人の人たちは、一斉に側溝に身を伏せて息を潜めて縮こまっていた。中には手を合わせ念仏を唱える人もいた。そしてひたすら戦闘機が去るのをじっと待っていた。
 随分長く感じた爆撃も、実際は2時間ほどだったかも知れないが、その間、生きた心地がしなかった。
 上空から米軍機が飛び去り、警戒警報が解除されても、あのごう音が耳に残って落ち着かず夜は寝つけなかった。
 海の彼方にあったはずの戦場が国土に移ったのである。自分のいる場所が戦場になっていることを、この時ぐらい強く感じたことはなかった。
 敵機の襲来はこの日だけだったが、木工場など多くの爪跡を残した。なぜか60年過ぎた今も鮮明に脳裏に焼き付いている。このことは空襲を体験した人でなければわからない恐怖だった。
 昭和20年8月15日正午、天皇陛下より重大ニュースがあることが伝えられ、それぞれラジオのある家に集まった。子供たちは後ろの方で聞いていたが、陛下の言葉が難しかったのと、雑音混じりの放送でよく聞き取れなかった・
 少し間をおいて行ってみると、大人の人が「日本は戦争に負けたんだ」と言った。でも負けたという実感はどうしても湧かなかった。
 それは日本は絶対勝つと教えられ、神の国であり最後は神風が吹いていて負けることはないと、教えられてきたからだ。
 玉音放送によって太平洋戦争は終わった。もう空襲はない。灯火管制下の暗い夜も、援農もなくなり、信じられないほどの自由になった。
 我が家では、母が戦地に行っている兄たちの無事を祈って、陰善を据えて一日も早い帰りを待ったのであった。
 戦争のむごさや、空襲の悲惨な過去を風化させてはならない。次の世代へ平和の尊さを語り伝えていきたいものである。


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