3つの被災地

2007年12月01日 12時30分23秒 | 旅するふっき~

家にいると腐ってしまう気がして、日帰りで旅をした。
朝5時45分に長野を発って、十日町、小千谷、長岡、柏崎、と郵便局をめぐった。

十日町市松代から柏崎市高柳に抜ける県道では、スノーシェッドの工事が行なわれていた。
このあたりは、地理の教科書にも出てくる日本一の豪雪地帯。
路傍には雪もあり、また、あと何週間かすれば、道も雪に埋もれるだろう。
その前に、スノーシェッドを造らねばならないのだろう。

昨年は雪が少なかった。その前の年はどうだっただろう。
記憶にも新しいかもしれないが、記録的な豪雪となった年である。
新潟県十日町市や津南町は、国道も寸断され、陸の孤島と化していた地区もある。
自衛隊も派遣され、その除排雪の作業が行なわれた。

柏崎市の国道沿いのガソリンスタンドは、軒並み「給油渋滞」だった。
長野市から来た身としては、リッター143円はどう考えても破格の安さである。

長岡市小国町では、旧役場で支所の除雪車が目にとまった。
除雪車なら、コンビニや郵便局にだって「マイ・除雪車」があるくらいの土地柄。
それは長野だって変わらないし、道路のセンターラインからは、散水が行なわれていた。
だから、雪国のアスファルトは茶色く錆びているし、走る車もまきあげる泥で汚い。
その国道を走っていた明らかに「普通タイヤ」の練馬ナンバーは、何を思ったか。

小千谷市は信濃川に沿ってひらけた大きな街だった。
鯉、縮、闘牛、花火、スキーと、挙げればきりのないほど名物のある街だ。
その街を襲ったのは、2004年10月23日の中越地震。
テレビで「人生の楽園」を観ていた母が、「あっ」と声を漏らした…気がする。

3年経ったいま、「表面上」は、その豊かな街の表情が戻っているように感じた。
被害を伝える数々のニュースの中で、印象に残っている場面がある。
11月1日の、魚沼市誕生のニュース。
地震の被災地の中で、パレードも拍手もないまま、作業着姿の町長が市制を施行した。
その様子は不思議でもあり、「延期しろよ」という怒りのようなものでもあり、
しかしめでたいようでもあり、やはり、滑稽な気もした。
あの地震の中でも、新しい「歴史」が地震発生から1週間でスタートしようとしていた。

2007年7月16日。
たまたま大学の都合で実家に帰省し、好機と思い、市役所に不在者投票に行った。
親父に借りた実家のクラウンに戻ると、不用心にも置いたままだった携帯電話が光った。
累積したメールは、不在者投票をする自分の安否を確かめようとしていた。

たまたま、その日、長野にいなかった、ことが揺れを感じさせなかった。

柏崎市の椎谷という海に面した集落が、この旅で36局目の郵便局訪問地となった。
田中角栄氏の故郷から下った海岸沿いの国道は、椎谷を目前に通行止めになった。
しかたなく山側へまわり、椎谷へと迂回をした。
椎谷の郵便局を目前に、やはり通行止めとなったので、警備員に事情を説明する。
「あ、それなら大丈夫、気をつけて行ってらっしゃい」とゲートを通される。

郵便局は右手にあった。
昨年、友人とドライブで通ったときは、郵便局は左手にあったはずだった。

「すべて崩れてしまってね」
そう話してくれたのは郵便局を受託するおばあちゃん。
途中からはおじいちゃんも出てきて、付近の様子を教えてくださった。

「夕日がきれいな公園もあるよ、郵便局の…郵便局の『あった』ところから左に…」

かつてドライブで通ったときに駆け上った岬の東屋は、地震で崩れてしまった。
そして、その岬を廻る国道は、もうすぐトンネルとなって建設されるらしい。
郵便局を後にして、海浜公園となっている駐車場へ降りた。

  地震の爪痕はいまもあった。
  地震の爪痕があった、のではない。
  地震の爪痕の中に、いるのだ、と思った。

  海を眺めれば、日本海に沈もうとする夕日。
  寝そべっても波の音しか聞こえない。
  寸断された国道には、車なんか来ない。
  時々聞こえる音と言えば…
  がれきを片付ける、いまも続くその爪音。

ふと呼ばれて、振り返ると、おばあちゃんが散歩に来ていた。
お菓子をもらい、石段に腰かけていろいろな話を聞かせてくれた。
半分はおばあちゃんの主観で、そして愚痴だったかもしれない。

地震の前々日に、海鳥が波消しを隠すほど騒いでいたこと。
集落の蔵という蔵は、すべて倒壊したこと。
しかし蔵は、小屋とみなされて保険が下りない場合が多々あること。
一部損壊では、補助金ももらえないでいること。
トンネル工事の立ち退きを余儀なくされた家があること。
施設に入って、そのまま亡くなった方があること。

こんなに長閑で、ほんとうに「長閑」という漢字が似合うこの集落で、
住民が抱えているさまざまな悩みと苦労を知った。
いや、知ってはいたが、それを実際に「実感」した。

それを応援するには、何をしたらいいだろうか。

復興を目指す被災地に踏み込むことは、不謹慎だろうか。
災害の直後に押し掛けるメディアが、たしかにそうであったかもしれない。
しかしきょう訪問した自分がそうじゃないことは確かだった。

「よく来てくださった」と出迎えてくれた郵便局のおばあちゃん。
「今度は夏に、もっと夕日がきれいなときにおいで」と言ってくれた。
「彼女と一緒に来る場所だよ」と笑っていた浜のおばあちゃん。

いま自分にできることは、その地域で何かを「してあげる」ことじゃない。
もちろん、何か役に立ちたいという一心でいる人も多いだろう。
いま自分ができるのは、その地域にそっと立ち寄って、静かに歩くこと。
自分からは声をかける必要はない。
話したい人は、必然的に声をかけてくる。
その地域を歩いて、現状を目で見ること。
応援は、必ずしも鉢巻きをしめて声を張り上げなくてもできる。

地方に行けばいくほど、道路も家々も、公共施設も整備されていない。
電車は、あるいは汽車は、1日何本来るだろう。
そこで電車を待つだけのゆとりが、練馬ナンバーの夫婦にはあるだろうか。
できないから「普通タイヤ」の車で、旅をしているのではないだろうか。
車でしか移動できない地方都市で、ガソリンスタンドに並んで渋滞をつくる人々。
電車が来ないから、ガソリンが必要なんだ。
冬が寒いから、灯油が必要なんだ。
そんな気持ちを、練馬ナンバーに分かってもらおうとは思わない。
練馬には練馬の、もっと難しい課題がいっぱいあるはずだ。

高速道路もまともに開通していない日本海側を走っていると、
自分が生まれ育ち、そして練馬ナンバーが帰り着く先の太平洋側と比べ、どうしても寂しくなる。
これだけ豊かな場所なのに、たくさんの人が苦しい思いをしている。

柏崎刈羽原発のフェンスのプレートには、東京電力の文字。
「東京」の2文字が、同じ国の話だなんて、まるで冗談のように感じた。