Home And Dry

2007年12月31日 23時25分57秒 | 夢見るふっき~
2007年も残すところあと数分。
今年はいろんな人にお世話になりました。
いや、今年も、っていう方が正しいんやと思うけどさ。

教育実習なる人生の中でも大きなイベントを終え、自分もちょっとは成長したかな。

今年一年を振り返ると、長野にいた日より、それ以外のほうが長かったり。
あとはいろんなところへ出かけて、いろんな生活に出会ったり。

ZIPを聴いていたらたまたま流れた「Home And Dry」。
この1曲に、大学に入学する直前の、さまざまな希望を思い出しました。
目的を達成するための努力を、今も怠っていないだろうか。
誰かがどこかで支えてくれていること、忘れていないだろうか。

故郷に錦を飾るためじゃない。
錦を飾れるほどの田舎じゃない。
誰かのため、なんて立派なことじゃない。
誰かが自分の成長で人生を左右されるわけじゃない。

だから自分のために、
実家に胸張って帰れるような、そんな2008年にしてみたい。

ぼくからぼくへの、「Home And Dry」。

今年一年、お世話になりました。
また2008年も、さまざまな場面でよろしくお願いします☆

良いお年を!!!!!!!

マグナム今池☆

2007年12月29日 13時15分28秒 | いつものふっき~

実家に帰ったとはいえ、家にいる時間はほとんどなく、うろうろしています。
友達と会ったり、遊びに行ったりで、なんだかんだ充実しているような。

10月のジョイキネに続き、「オウギネ」(扇屋記念日)in西可児も開催。
ほんとなら「おうきね」となるところですが、連濁して「おうぎね」です。
国語科っぽい発想で。

イム…ほとけ
イニ…じん
イヒ…ばける

イカ…ごりら
イセ…赤福
イハ…一人足りない状態

クリスマス近辺は知多半島にドライブ行ってまるは食堂に行ったり、
名駅で行列に並んでケーキ買ったり、なんだかんだで騒がしい日になりました。

  これは新見南吉の生家。
  半田の市街地にあります。
  真っ暗な内部を見せてもらえました。
  ここで「ごんぎつね」が書かれたのかな。
  本当は見学時間過ぎてたけど見せてくれました。
  でも当時はこんな暗さだったのかな。

あとは徳山ダムの近くの藤橋村に行って懐かしい思い出が蘇った26日。
この記事参照

  大垣の市街地に久しぶりに行きました。
  写真は大垣共立銀行本店。
  17階建てです。
  なんで17階建てなのかわかりますか??
  岐阜県民を支える輪中根性の象徴でもあるビルです。
  
  蛤の二見にわかれ行秋ぞ

  伊勢を拝まんとする季節であります。

27日は一宮なんかにも行ってきて、やっぱり懐かしかったです。
サンテラスっていうスーパーに昔、ウィンチェルっていううまいドーナツ屋があったんだよね。
いまはミスドが入ってるけど、あんま好きじゃないかな。。。
夜は友達と、扶桑のジョイフルでだべってました笑

28日は瀬戸から守山に行って、これまた懐かしい風景。
千種の郵便局で今年の郵便局の締めにしました笑
駐車場が8台分だけあって、そこにとめるためにかなり並びました。。。
マグナム今池です。今池。。。
出来町通なんかも通ったんだけど、思いでの場所です。
高校時代に短い間でしたが、古出来町に住んでた時期があったんで。
基幹バスのバスレーンをヒヤヒヤしながら走り抜けました。

こうして、一年のほとんどをひとつの場所にとどまることなく過ごしました。
松尾芭蕉のようにはいかないけれども、旅に生涯を捧げるような生き方がしたいです。

年の瀬に ため息つくは 年のせい

富士山の見える帰省。

2007年12月21日 22時55分26秒 | 旅するふっき~

20日の朝5時に長野を出発し、山梨県の南部から駿河湾に沿って帰省してきました。
静岡では友達んちに泊めてもらい、1泊2日の帰省となりました。
700キロもの距離を走ったみたいで、なんだか帰省とは思えないくらいの距離です

2日間ともよく晴れてくれて、20日なんかは山梨の身延あたりから、よく富士山が見えました。
写真は静岡県静岡市清水区の三保の松原ってとこから見た富士山です。
夜6時くらいで、なかなか幻想的な景色が見られましたよ。
途中に「清水三保」郵便局ってのがあるんですが、「シミズミホ」さん、ぜったいいるよね笑
もし「シミズミホ」さん、いらっしゃいましたらコメントを

東海道を東から西へ。いわゆる、古典での「上京」です。
国道1号線は藤枝バイパスから渋滞し始め、浜松手前で動かなくなりました。
もともと三ヶ日から高速に乗る予定だったので、磐田から天竜経由で行きました。
真っ暗な浜名湖と、どうかんがえても田舎の役場なんだけど「北区役所」なんてのも印象的。
浜松市ってすごいなーって思った。。。

三ヶ日インターに着いたのは19時を過ぎていたので、
ETC割引は効かないながらも東名高速で一気に飛ばしてきました。
…といいたいところですが、岡崎あたりで渋滞があり、豊田から東海環状道で。
多治見まで近くなったんですね、この道の開通で。
名古屋周辺の渋滞も回避できるので助かります。
しかも、開通したばかりなのでとにかく快適な道です。
カーブ半径も大きいし、勾配も緩やかで、ほんと走りやすい高速道路です。

ということで、とりあえず帰省。
今日初対面の実家の猫(いつの間にかおった…)が膝の上で寝ています。

俺in静岡大学

2007年12月21日 22時37分56秒 | 教育学部とふっき~

長野から岐阜に帰るのに、静岡を経由したので、こちらに立ち寄りました。
壮大なルートでの帰省になりましたが、ぜひ暇な人はやってみてくださいね

静岡市街地から南へ、駿河区の丘の上に静岡大学静岡キャンパスはあります。
このキャンパスには教育学部をはじめ、人文学部、理学部、農学部が所在しています。
浜松にもキャンパスがあり、そちらには工学部があるということです。

朝9時前に訪問したんですが、人影まばらで正門に人が現れない…。
5分くらい待って、歩いてきた女子学生?さんに撮影をお願いしました。
いやー、怪しまれてただろうな。。。

略称は「静大」と書いて「しずだい」。珍しく湯桶読みとなるんですね。
これは富山大学の「とみだい」も同様です。

国道の看板などでは「Shizuoka University」と表記されます。
近くで静岡県立大学を見かけましたが、看板は「University of Shizuoka」でした。
よくある、「息子は東京の大学に通っています」と同じ感じですね

静岡市は政令指定都市ということもあり、まぁ栄えています。
静岡駅前などは、「お!」と思えるくらいの都会ぶりです。褒めすぎた。

ということで、今日は富士山を遠くに望む静岡大学からお伝えしました。

イクっ!

2007年12月17日 23時15分59秒 | 夢見るふっき~
秋田
岩手
青森
北海道
和歌山
京都
長崎
富山
石川
福井
島根
鳥取

行きたい人いる?

小笠原諸島
佐渡島
伊豆七島
飛島(山形)
粟島(新潟)
壱岐
対馬
トカラ列島
与那国島

2月にこのうちのどれかに行こうと思う。

ウラジオストック
モスクワ
ベルリン
アムステルダム
パリ
ロンドン

シベリア鉄道横断をしてみたいと思う。

ドバイ

なんとなく行きたい。







岐阜

帰りたい。

中途Hander

2007年12月14日 00時11分06秒 | いつものふっき~
アメトークで「左利き」特集してますねー。

ところで、おれは日常生活の大半は、箸は利きです。
ゲストの芸人さんとかその他見ていると、おれと同じような人がたくさん!
mixiでも、「左利き・鉛筆右・箸左」なんてコミュニティがあり、1,200人(0時現在)もいます。

ところで、純粋なレフトハンダーに対しては、最近さまざまな工夫がなされている気がします。
なかんずく自動改札機、はさみ、リモコンなど、ハード面に対しては。
まぁ、こういったものに関しては、自分は9割方右手で処理しているんですが。。。
でも、ときたま右手がふさがっているときは、左でも大丈夫です

携帯電話でメールを打つとき、自販機や券売機で買うとき、これは両手を駆使しています。
両手で処理すると、なかなかに効率よくできるような仕組みになっている気がする

そして、箸だけが左です。
これ、ものすごく得したってことがけっこうあります。
たとえば、めったにやらないですが、

ラーメン食べながらレポートを書く。

これは、松本にいたとき、「韓国料理紀行●部編」のレポートを書く時にやりました。

でも、いままでの人生では、圧倒的にデメリットを感じています。
それは…特にあの瞬間…。

給食。

  図1のようになったとする。
  いや、この構図は何度も訪れたのだが…。
  
  これ、一見すると、何の問題もないのだが、
  教師の思惑通り、
  給食が平和な時間となるのは右利きの人だけだ。

左のBくんとはしょっちゅう箸がぶつかった。。。
まぁお互い気を遣うような仲じゃなかったんだけど、やっぱり申し訳ない。

そして、左利き人生で一番ショックだったのが、小学4年の時の出来事。
担任の先生(イニシャルが同じなのが腹立たしい)に言われたこと。
これは、直接ではなく、道徳の授業か何かの中で何の気なしに言ったんだと思う。

「左手で箸を持って何かを食べるのは、作ってくれた人に失礼ですね」

うーん、いま思い出してもなんとなく胸の中がもやもやする。
この言葉の根拠は何か分からない。
宗教上、習慣上、左手で食べたり握手しない地域や文化があるのは知っているけど。

10年前、日本はまだ右利き矯正(強制)時代だったと思う。
自分の身の回りにも、左利きは少なかったわけではないけれど。。。
それでも、右に直させようとする取り組みはものすごく盛んだったと思う。

教育実習で中学校に行ったとき、やはり迷ったのはそのこと。
子どもたちの前に立つ者として、箸を左でもったら教育上よくないのではないか。
担当の先生に相談した。

「利き手なんて問題じゃない。自由にしてください」

この言葉に、10年間のもやもやが、すーっと消えたような気がする。

箸がぶつかるコミュニケーション、経験してみたくなりませんか?

ローマ字表記と英語表記

2007年12月05日 23時45分12秒 | 考えるふっき~
北海道札幌市は、サミットに向け、表記統一の動きを見せましたね。
実はこれ、このテーマ、ぼくの研究テーマでもあります。。。

大岡村 Ooka Village
長野市 Nagano City
飯綱町 Iizuna Town
信州新町 Shinshushinmachi Town
なんば Namba
大阪 Osaka
小坂 Osaka
万場公園 Manbakoen Park
赤城山 Mt.Akagiyama
富士山 Mt.Fuji
千曲川 Chikumagawa River
野尻湖 Lake Nojiriko
市役所前 City Hall
県庁前 Pref Office
総合支所前 Sogoshisho
上信越道 JOSHIN-ETSU EXPWY
大塚南 Otsuka minami
島田南 Shimada S.

設置業者や依頼主、箇所や年代によって、その表記はバラバラ。
上下線で表記が異なる、なんていうことも。
さーて、標識、看板、信号の名前、道路上の施設表示、バス停、駅…。
統一する方法を、ぼくは考えています。

3つの被災地

2007年12月01日 12時30分23秒 | 旅するふっき~

家にいると腐ってしまう気がして、日帰りで旅をした。
朝5時45分に長野を発って、十日町、小千谷、長岡、柏崎、と郵便局をめぐった。

十日町市松代から柏崎市高柳に抜ける県道では、スノーシェッドの工事が行なわれていた。
このあたりは、地理の教科書にも出てくる日本一の豪雪地帯。
路傍には雪もあり、また、あと何週間かすれば、道も雪に埋もれるだろう。
その前に、スノーシェッドを造らねばならないのだろう。

昨年は雪が少なかった。その前の年はどうだっただろう。
記憶にも新しいかもしれないが、記録的な豪雪となった年である。
新潟県十日町市や津南町は、国道も寸断され、陸の孤島と化していた地区もある。
自衛隊も派遣され、その除排雪の作業が行なわれた。

柏崎市の国道沿いのガソリンスタンドは、軒並み「給油渋滞」だった。
長野市から来た身としては、リッター143円はどう考えても破格の安さである。

長岡市小国町では、旧役場で支所の除雪車が目にとまった。
除雪車なら、コンビニや郵便局にだって「マイ・除雪車」があるくらいの土地柄。
それは長野だって変わらないし、道路のセンターラインからは、散水が行なわれていた。
だから、雪国のアスファルトは茶色く錆びているし、走る車もまきあげる泥で汚い。
その国道を走っていた明らかに「普通タイヤ」の練馬ナンバーは、何を思ったか。

小千谷市は信濃川に沿ってひらけた大きな街だった。
鯉、縮、闘牛、花火、スキーと、挙げればきりのないほど名物のある街だ。
その街を襲ったのは、2004年10月23日の中越地震。
テレビで「人生の楽園」を観ていた母が、「あっ」と声を漏らした…気がする。

3年経ったいま、「表面上」は、その豊かな街の表情が戻っているように感じた。
被害を伝える数々のニュースの中で、印象に残っている場面がある。
11月1日の、魚沼市誕生のニュース。
地震の被災地の中で、パレードも拍手もないまま、作業着姿の町長が市制を施行した。
その様子は不思議でもあり、「延期しろよ」という怒りのようなものでもあり、
しかしめでたいようでもあり、やはり、滑稽な気もした。
あの地震の中でも、新しい「歴史」が地震発生から1週間でスタートしようとしていた。

2007年7月16日。
たまたま大学の都合で実家に帰省し、好機と思い、市役所に不在者投票に行った。
親父に借りた実家のクラウンに戻ると、不用心にも置いたままだった携帯電話が光った。
累積したメールは、不在者投票をする自分の安否を確かめようとしていた。

たまたま、その日、長野にいなかった、ことが揺れを感じさせなかった。

柏崎市の椎谷という海に面した集落が、この旅で36局目の郵便局訪問地となった。
田中角栄氏の故郷から下った海岸沿いの国道は、椎谷を目前に通行止めになった。
しかたなく山側へまわり、椎谷へと迂回をした。
椎谷の郵便局を目前に、やはり通行止めとなったので、警備員に事情を説明する。
「あ、それなら大丈夫、気をつけて行ってらっしゃい」とゲートを通される。

郵便局は右手にあった。
昨年、友人とドライブで通ったときは、郵便局は左手にあったはずだった。

「すべて崩れてしまってね」
そう話してくれたのは郵便局を受託するおばあちゃん。
途中からはおじいちゃんも出てきて、付近の様子を教えてくださった。

「夕日がきれいな公園もあるよ、郵便局の…郵便局の『あった』ところから左に…」

かつてドライブで通ったときに駆け上った岬の東屋は、地震で崩れてしまった。
そして、その岬を廻る国道は、もうすぐトンネルとなって建設されるらしい。
郵便局を後にして、海浜公園となっている駐車場へ降りた。

  地震の爪痕はいまもあった。
  地震の爪痕があった、のではない。
  地震の爪痕の中に、いるのだ、と思った。

  海を眺めれば、日本海に沈もうとする夕日。
  寝そべっても波の音しか聞こえない。
  寸断された国道には、車なんか来ない。
  時々聞こえる音と言えば…
  がれきを片付ける、いまも続くその爪音。

ふと呼ばれて、振り返ると、おばあちゃんが散歩に来ていた。
お菓子をもらい、石段に腰かけていろいろな話を聞かせてくれた。
半分はおばあちゃんの主観で、そして愚痴だったかもしれない。

地震の前々日に、海鳥が波消しを隠すほど騒いでいたこと。
集落の蔵という蔵は、すべて倒壊したこと。
しかし蔵は、小屋とみなされて保険が下りない場合が多々あること。
一部損壊では、補助金ももらえないでいること。
トンネル工事の立ち退きを余儀なくされた家があること。
施設に入って、そのまま亡くなった方があること。

こんなに長閑で、ほんとうに「長閑」という漢字が似合うこの集落で、
住民が抱えているさまざまな悩みと苦労を知った。
いや、知ってはいたが、それを実際に「実感」した。

それを応援するには、何をしたらいいだろうか。

復興を目指す被災地に踏み込むことは、不謹慎だろうか。
災害の直後に押し掛けるメディアが、たしかにそうであったかもしれない。
しかしきょう訪問した自分がそうじゃないことは確かだった。

「よく来てくださった」と出迎えてくれた郵便局のおばあちゃん。
「今度は夏に、もっと夕日がきれいなときにおいで」と言ってくれた。
「彼女と一緒に来る場所だよ」と笑っていた浜のおばあちゃん。

いま自分にできることは、その地域で何かを「してあげる」ことじゃない。
もちろん、何か役に立ちたいという一心でいる人も多いだろう。
いま自分ができるのは、その地域にそっと立ち寄って、静かに歩くこと。
自分からは声をかける必要はない。
話したい人は、必然的に声をかけてくる。
その地域を歩いて、現状を目で見ること。
応援は、必ずしも鉢巻きをしめて声を張り上げなくてもできる。

地方に行けばいくほど、道路も家々も、公共施設も整備されていない。
電車は、あるいは汽車は、1日何本来るだろう。
そこで電車を待つだけのゆとりが、練馬ナンバーの夫婦にはあるだろうか。
できないから「普通タイヤ」の車で、旅をしているのではないだろうか。
車でしか移動できない地方都市で、ガソリンスタンドに並んで渋滞をつくる人々。
電車が来ないから、ガソリンが必要なんだ。
冬が寒いから、灯油が必要なんだ。
そんな気持ちを、練馬ナンバーに分かってもらおうとは思わない。
練馬には練馬の、もっと難しい課題がいっぱいあるはずだ。

高速道路もまともに開通していない日本海側を走っていると、
自分が生まれ育ち、そして練馬ナンバーが帰り着く先の太平洋側と比べ、どうしても寂しくなる。
これだけ豊かな場所なのに、たくさんの人が苦しい思いをしている。

柏崎刈羽原発のフェンスのプレートには、東京電力の文字。
「東京」の2文字が、同じ国の話だなんて、まるで冗談のように感じた。