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新潟県 魚のアメ横・寺泊 良寛の生家跡・出雲崎 遷化地・和島

2024年03月06日 16時57分20秒 | 新潟県

魚のアメ横。寺泊魚の市場通り。新潟県長岡市寺泊下荒町。

2023年10月3日(火)。

前日は佐渡へ日帰りして、道の駅「新潟ふるさと村」で起床。日本海岸沿いに糸魚川方面へ向かい、寺泊へ。8時30分過ぎに、海側の大駐車場に到着。通りを歩いて店を選び、200円の番屋汁がある角上魚類へ。店内と店外にイートインコーナーがある。

200円の番屋汁。ベニズワイガニの足が2本。

「のどぐろ」の握り寿司。600円。岩船漁港は村上市で粟島へ往復した港だが、店に立ち寄る時間はなかった。

ゆっくり歩いて50分ほど滞在。

 

良寛の里わしま歴史民俗資料館。長岡市島崎。

道の駅「良寛の里わしま」には、青森・秋田方面へ旅の途中2度ほどトイレ休憩に立ち寄って、河合継之助関係のパンフを入手した。和島地区は良寛が晩年を過ごし亡くなった土地で、墓もある。

山側一帯が良寛の里と名付けられ、良寛の里美術館を中心に歴史民俗資料館などがある。また、車で数分のところに隆泉寺(良寛墓碑)がある。

良寛は晩年島崎の木村家に身を寄せ、足掛け6年間地域の人々と穏やかな日々を送った。良寛が生涯で唯一気を許したといってもいい尼僧、貞心尼と出逢ったのがこの地、和島「島崎」の地である。

道の駅近くには郡衙跡とされる八幡林(はちまんばやし)官衙遺跡があり、遺跡から出土した「沼垂城」、「郡司符」の木簡や、県指定重要文化財の「毛抜形太刀」など、「日本書紀」にも記された奈良から平安時代の貴重な歴史遺産および民俗資料を豊富に展示しているとあるが、実際には無人・無料なのでパネル展示と複製展示が主体である。

国道116号和島バイパス整備に伴う発掘調査1990年(平成2年)、「沼垂城」「養老」、「郡司府」と記された木簡、墨書土器などが出土した。渟足柵(ぬたりのき、沼垂城)は蝦夷への重要拠点でありながらその記述は日本書紀にのみしかなかったため本遺跡からの木簡の出土は日本書紀の記述を裏付けることになった。墨書土器から、この遺跡が9世紀頃に、古志郡衙の郡庁の一角か「大領」の館であったことが分かった。また、 頚城地方の越後国府を結ぶ古代北陸道の駅家が遺跡の付近にあり、この官衙が、国府の出先機関や駅家などが併設された複合的なものであることも分かっている。

本遺跡の重要性から和島バイパス施工主体の建設省は本遺跡保存のため工法をトンネルへ変更した。

「沼垂城」(右)、「郡司符」(左)の木簡。

良寛の里美術館。長岡市島崎。

館内撮影禁止。館内には、良寛と愛弟子・貞心尼の書や詩歌を中心にゆかりの文人墨客の作品も展示している。良寛関係の小冊子などが豊富に入手でき、墓などのアクセスも教えてもらった。

良寛の墓などは「はちすば通り」にあるが、道路が狭いので、北東方向から回り込み、交差点の小さい駐車場に駐車スペースがある。

良寛終焉地。

木村家の庵室に住み、天保2(1831)年正月6日に74才で遷化した。

たくはつ良寛像。隆泉寺参道左側。1963年建像。

大蔵経碑。隆泉寺参道左側。1907年建碑。蔵は、戊辰戦争の戦火を免れた。大蔵経は京都より購入したもので、275帙(6,711巻)を16ヶの荷物にして馬5頭で運んできた。代金で150両。木村家の10代と11代当主が2代に渡って一切経を集めた。

これに感激した良寛が謂れ書きを書いた。(良寛筆)

良寛禅師墓碑(右)、弟由之の墓碑(左)。新潟県史跡。

隆泉寺本堂裏手の木村家墓地中央。良寛禅師墓碑は天保4(1833)年建碑。

良寛の墓は、良寛の三回忌に木村家の願いで立てられた。(天保4年1833、3月)。墓石は、花崗岩で寺泊七つ石から運び、二分して碑石と台石にした。墓石は安山岩で火山岩の一種である。2分して高さは125cm、幅105cm、半分は台座となる。台座は亀に似ていて、亀の上に立っているようにもみえる。

建碑者は、山田太郎兵、富取武左衛門、原田正貞等で、正面中央に「良寛禅師墓」とあり、筆者は由之の孫の山本泰世。

墓の右側は鈴木文台によって選ばれた僧伽と題する仏教界の墜落を嘆く良寛の五言古詩、左側は由之の選んだ旋頭歌が刻されている。

 良寛の墓の左に、良寛より4歳年少の弟由之の墓がある。由之は良寛の出家後25歳で山本家を継いだが、敦賀屋との争いに破れ、ついには家財没収、所払いとなってしまう。晩年は与板で過ごした。兄良寛を看取ってより3年目の天保5年死去。由之宗匠墓碑は天保7年頃建碑、筆者橘泰世(由之の孫)。

良寛堂。出雲崎町石井町。

良寛は宝暦8(1758)年、出雲崎の名主兼神官、橘屋山本家に長男として生まれた。良寛堂は1922年に生家である橘屋の跡地(当時は現在の境内の2倍はあったという)に建てられた。設計は画家の安田靫彦。良寛の母の国佐渡ヶ島を背景に日本海に浮かんで見えるように設計されている浮見堂である。

堂内には良寛が常に持ち歩いたという石地蔵をはめ込んだ多宝塔に「いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆるさどのしまなり」の良寛自筆の歌が刻まれている。

良寛の母の国佐渡ヶ島が日本海に横たわる。

 

このあと、上越市へ向かった。

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