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新潟県糸魚川市 国史跡・寺地遺跡 縄文の巨木祭祀 ヒスイ工房 

2024年03月26日 14時47分34秒 | 新潟県

青海(おうみ)神社。新潟県糸魚川市青海。

2023年10月5日(木)。

名勝・親不知子不知の見学を終え、糸魚川市街地方向へ引き返して、青海神社寺地遺跡、その後、フォッサマグナミュージアム長者ヶ原考古館を見学した。

青海神社は神武東征のさいに水先案内をした国津神の椎根津彦(しいねつひこ)を祀る式内社で、頸城国造家の根拠地であったと伝えられている。

椎根津彦の後裔は、頸城氏(くびきうじ、姓は直)、青海氏(おうみうじ、姓は首)がおり、倭国造と同族である。

頸城国造の支配領域は当時久比岐国と呼ばれた地域、後の越後国頸城郡西部、現在の糸魚川市に相当する。

系図学者の宝賀寿男は、大和川や青海川、青海町、青海神社など国造に関係した地名が糸魚川市に多く見られる一方、上越市や妙高市にはこれら地名が見られない。また深江の地名が頸城郡内にも存在したと見られ、郡内に高志深江国造の後裔氏族が居住していたことなどから、久比岐国造の本拠は糸魚川市に比定する方が妥当であると主張している。

国史跡・寺地(てらじ)遺跡。糸魚川市大字寺地字寺地。

繩文時代中期から晩期にわたる遺跡で、新潟県の西端、親不知にほど近い青海地区を流れる田海(とうみ)川左岸の低丘陵とそれに接する沖積地に営まれた。遺跡公園として公開されている。

縄文時代中期前半から晩期に至る硬玉及び蛇紋岩製石斧の工房跡と、晩期の極めて特異な配石遺構からなる寺地遺跡の内容は、繩文時代における硬玉生産の実態と、この地域における特殊な祭祀の形態をうかがわせるものとして、貴重である。

発掘調査の結果、竪穴式住居跡7軒が見つかり、ヒスイ玉などが出土した。特に竪穴式住居跡からは、多くのヒスイのかけらや未製品が出土しており、ヒスイの加工場として使われたと考えられている。

玉造工房跡とみられる竪穴住居跡と、巨大な四本柱を持ち、立石が囲んだ中に偏平な礫を敷きつめた信仰に関わる配石遺構、多量の土器・石器と植物性遺物及び叩石・石鋸・砥石・硬玉原石・硬玉製勾玉・丸玉・小玉など硬玉の玉作りに関する遺物が豊富に発見されている。

以上のことから本遺跡は硬玉の加工生産が行われた場であることが明らかになり、また配石遺構は繩文時代晩期の祭祀地として全国的に類例がない貴重な遺構として高く評価されている。

縄文時代の巨木柱の周囲から石棒や御物石器、焼人骨などが出土し、様々な祭祀が行われていたと考えられる。

また、数多く出土している中屋式土器(3200〜2900年前頃)は北陸地方との強い結びつきを示し、遮光器土偶の存在は東北地方との交流を物語る。

このほか、県内2例目となる縄文時代の丸木舟も見つかっている。

全形の検出されたI号竪穴(中期前半)は、径5mの円形の竪穴で、壁面に沿って幅50~70㎝のテラスを設け、中央南西寄りの部分に方形の石囲炉、北東部のテラス上に埋甕の施設をもつ。注目すべきは、この石囲炉の南に接して扁平な大形砥石が埋設され、またテラスの南壁に接する位置に、内部に細砂の堆積の認められる径60cm、深さ5cm程の浅い円形のピットがあり、それに接して径30cmの扁平な河原石と、この河原石に乗せた砂岩質の砥石が検出されたことである。

竪穴内部からは、中期前半の土器とともに、姫川あるいは青海川の河床で採取したとみられる多数の硬玉礫、硬玉の完成品・未成品、蛇紋岩製の石斧及びその未成品と、石鏃・石槍・叩石・石錘などの石器、蝋石製大珠などが検出されており、このI号竪穴において、硬玉を主とする玉類の生産が行われたことが明らかである。

また、VI号竪穴(中期中葉)においては、I号竪穴と同様の工作用とみられる浅い円形のピット、砥石、硬玉礫などとともに、多数の蛇紋岩製石斧の未成品と剥片が検出されており、硬玉の生産と同時に、硬玉の母岩である蛇紋岩を利用した石斧の生産の行われたことがうかがえる。こうした各竪穴の出土品の内容は、他のIII・V号竪穴(中期)やIV号竪穴(後期末)、II号竪穴(後期-晩期)についても全く同様であり、この遺跡が中期の前半から晩期までの長期間を通じて、硬玉を主とした玉類と蛇紋岩の石斧を生産した、生産の遺跡であることが判明したのである。

竪穴群の東方の低地部分で検出された配石遺構は、東西12m、南北16mの拡がりを持ち、柱状あるいは扁平な河原石の立石でつくられた区画と、その内部及び外周を埋める扁平な河原石の敷石からなっている。

配石遺構の主要部は、西北部の長径5m、短径3mの楕円形の環状配石と、その東方にある中央敷石部分に径60cmの巨大な木柱4本をもつ、一辺4mの方形配石、方形配石の南方に拡がる三重の弧状配石と、中央部に位置する径2mの炉状配石の4種の配石で構成されている。

環状配石内部から、大形の甕形土器に納めた小形の壺形土器1(晩期)と朱漆塗の櫛・骨片が、また炉状配石の内部からは、土器片・砥石片・石斧・硬玉とともに、一部獣骨を含む多量の人骨片(10体分以上)が出土している。

4本の木柱をもつ方形配石では、三隅に石棒を立てており、配石内部から、独鈷石と朱漆塗の櫛数個が出土した。

新潟県糸魚川市 国名勝・親不知 子不知「おくのほそ道の風景地 親しらず」


新潟県糸魚川市 国名勝・親不知 子不知「おくのほそ道の風景地 親しらず」

2024年03月25日 11時51分22秒 | 新潟県

道の駅「親不知ピアパーク」。西の親不知子不知方向。新潟県糸魚川市外波。

東の上越市方向。投げ岩。

2023年10月5日(木)。

10月4日17時前に道の駅に着いたころから、暴風雨になった。閉店直前の売店を覗いたが、狭くて情報も乏しかった。夜になって高架下に移動。5日朝に起きると雨は止んでいた。

国名勝「おくのほそ道の風景地 親しらず」。親不知記念広場(愛の母子像)から望む。

国道8号線のカーブ地点に案内板と駐車場があった。断崖絶壁が日本海へ落ち込んでいる。明治16(1983)年まで芭蕉一行が通った北国街道は断崖下の海岸沿いを伝っていた

崖上の建物が、小野健顕彰碑・ウェストン像のある展望台の東屋、その左が駐車場のある親不知観光ホテルで、そこから断崖上を歩く親不知コミュニティロードが周遊路になっている。

親不知記念広場は、国道の改修を記念して造られた広場で、親不知はここからの眺望が一番だといわれている。

断崖上に望む東屋からは、たしかに親不知断崖は直下すぎて見えないので、ここからしか景観の把握はできない。糸魚川が生んだ文豪・相馬御風の「かくり岩に 寄せてくだくる 沖つ浪の ほのかに白き ほしあかりかも」の歌が刻まれた石碑がある。

国名勝「おくのほそ道の風景地 親しらず」は、天下の険として有名な親不知・子不知海岸の一部で、親不知駅を中心とする青海駅、市振駅間約15kmの総称で、親不知駅・市振駅の間が親不知、親不知駅・青海駅の間が子不知と呼ばれている。

地名の由来はいくつかあるが、北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになった、といわれる。

天下の険といわれた親不知にも、明治16年、断崖を削った街道が開かれた。その後、いくつかの改良を経て、昭和41年に国道8号天険トンネルが完成した。

現在はえちごトキめき鉄道、国道8号、北陸自動車道が通り、通行に支障は無くなったが、親不知記念広場の展望台から海岸線を眺めれば、当時の苦難さが想像できる。

 

栂海新道(つがみしんどう)登山口。

周遊路である親不知コミュニティロードの起点・親不知観光ホテルの向かい側にある。入り口付近に10台程度の駐車スペースがある。

栂海新道は、日本海の親不知海岸(0メートル)から朝日岳(2418メートル)までの約27kmを結ぶ。一人の若者・小野健顕が北アルプスの稜線をつなぐことに夢を抱き、さわがに山岳会を立ち上げ、構想から苦節11年の歳月を得て1971年夏に登山道を開通させ現在に至っている。

登山をやっているとき、日本海から北アルプスへ登る道があることを知っていたが、日本百名山とは直接関係がないので来たことはなかった。

海岸での起点は、親不知コミュニティロードからレンガトンネルを経て下った地点にあるようだが、知らなかったので行かなかった。

「青海八景 四世代道暮色」

親不知観光ホテルの前に親不知コミュニティロードの駐車場がある。

親不知コミュニティロードを歩けば、交通の難所・天下の険と人との闘いの歴史を表す四世代にわたる道を一望できる。眼下の波打ち際が、親不知・子不知の由来となった一世代目の北国街道、続いて当初国道としてできたコミュニティロードは二世代目三世代目は現在の国道8号、そして四世代目が北陸自動車道である。

親不知コミュニティロードは、土木学会から推奨土木遺産に認定されている。

東屋の展望台からは眼下70mの日本海を一望でき、晴れた日には能登半島も眺望できる。

ウォルター・ウェストン像と東屋展望台。

日本近代登山の父として名高いイギリス人のウォルター・ウェストンが明治27(1894)年7月19日当地を訪れた33歳の風貌と登山の勇姿を、ブロンズ製全身像として設置している。W.ウェストンの著書の中に日本アルプスの起点、親不知に下り立った時の様子が記されている。

毎年5月下旬に「海のウェストン祭 白鳥山山開き」が開催されている。

絶壁の波除け観音、大懐(おおふところ)、小懐などを再現した模型も設置されており、名勝の絶壁を一目で知ることができる。

ブラタモリ記念板。大懐(おおふところ)。

レンガトンネル以降は時間がかかりそうだったので、ブラタモリ記念板から糸魚川市街地方向へ引き返し、青海神社と寺地遺跡へ向かった。

新潟県 上越市埋蔵文化財センター 春日山城跡ものがたり館 五智国分寺 居多神社

明治大学博物館②古墳時代 装飾付大刀 五領式土器 佐自塚古墳透かし埴輪


明治大学博物館②古墳時代 装飾付大刀 五領式土器 佐自塚古墳透かし埴輪

2024年03月24日 13時17分45秒 | 東京都

明治大学博物館。東京都千代田区神田駿河台。

2024年3月14日(木)。

沖洲古墳群は、茨城県行方市の北西部にあり、沖洲集落を中心とする鎌田川流域の台地や沖積地に勅使塚古墳、大日塚古墳、延戸(のぶと)古墳、権現山古墳、八重塚古墳などで構成されている。中でも、勅使塚古墳は 4 世紀末のものと推定され、県内で最も古い前方後方墳といわれている。

佐自塚古墳。茨城県石岡市佐久にある前方後円墳。細長い丘陵の末端近くに位置する古墳である。築造時期は、古墳時代前期の4世紀後半頃と推定される。一帯では前方後方墳の丸山古墳・長堀2号墳に後続する首長墓に位置づけられるほか、付近の佐久上ノ内遺跡で検出された方形区画溝を佐自塚古墳被葬者の豪族居館に比定する説が挙げられる。

墳丘からは不規則な透かしを持つ器台系円筒埴輪が検出されているほか、前方部正面墳裾では底部穿孔の朱塗二重口縁壺が検出されており、特に円筒埴輪に施された三日月形・水滴形の透かしは類例のないもので、関東地方における埴輪出現期の様相を知るうえで重要視される古墳である。

古墳時代土器の研究。古墳時代の土器には土師器と須恵器の2種類がありますが、ここに示すのは弥生土器の系譜にある土師器の方です。関東地方における古墳時代土器の研究は、戦前に杉原荘介氏によって基礎がきづかれました。戦後、五領遺跡の調査によって古墳時代の土師器の全貌がほぼ明らかになり、五領遺跡出土土器を標式として五領式土器が設定されたことで、現在の五領式-和泉式-鬼高式という編年序列ができあがりました。

五領式土器。五領式土器とは埼玉県東松山市の五領遺跡から出土した土器群に対して、金井塚良一氏らが設定したものです。基本的な特徴は、弥生土器的な文様装飾を省略して無文化していることと、新たに小型精製の器台と坩(小型の壷)が土器のセットに加わっていることにあります。

五領遺跡出土土器には近畿の土器を模倣したものが比較的多く見られ、それらが在地の土器群に対して影響をあたえたことで五領式土器が成立したのです。

五領式土器

古墳時代最初の土器は五領式とよばれる土師器である。埼玉県東松山市の五領遺跡ではじめて発見されたためこのような名称がついた。土師器と弥生式土器とは作り方・焼き方どちらをとっても明瞭な区別がつかないが、関東でもその例外ではない。すなわち、土師器はわが国の伝統的土器作り法によったもので、今日の「かわらけ」づくりの方法である。古墳時代に入ってからの土器を土師器とよび、器種やわずかな形の違いによって弥生式土器と区別している。

五領式の土師器は壺形土器に最もよくその特徴があらわれている。大きな球形の胴部に朝顔の花のように開く口がついた形をし、表面をハケ目工具やヘラで丁寧に整形され、しばしば赤色顔料が塗られている。この種の土器は古墳・方形周溝墓・住居址のいずれでも発見される。とくに墳墓から出土する壺には赤色顔料を塗っていることが多く、底に穴をあけてしまったものもみられる。したがって、実生活の容器としては使用不可能で、祭祀用土器と考えられている。

また、この五領式土師器には台付甕形土器が盛行した。この土器は煮たき用の甕形土器に高坏の脚部様の台がついたもので、弥生時代末期の前野町式から盛んに使用された。台付甕形土器は東海・関東地方に特徴的に現われた土器で、五領式では口縁部の断面がS字状を呈するものがあり、この口縁は東海地方で創出され、関東一円に波及した。S字状口縁の甕形土器は奈良盆地や飛鳥地方でもかなり発見されており、東海地方の土器が畿内にもたらされたことが知られている。

台付甕形土器の使用法は、炉に定置してその周囲に焼料をつんで火をもやし、炎を甕に効果的にあてることができる。台はかなえの役割をはたした。米などの穀類は甕の中に入れて煮た。おそらく、今日のような「炊いた御飯」というわけにはゆかなかったであろう。水をたっぷり入れてもこげつき、穀類はかなりやわらかく、高坏に盛ることはできなかったであろう。米をふかすことが一般的となるのは、カマドが普及する六世紀代になってからではないだろうか。(昭島市史1978年)

装飾付大刀(そうしょくつきたち)は、日本の古墳時代に製作された直刀(大刀)のうち、古墳時代後半(6世紀から7世紀)に隆盛した金・銀または金銅製の外装(刀剣装具・拵)を備えたものの総称。「飾大刀」(かざりだち)とも呼ばれ、儀仗用の大刀と考えられている。

装飾付大刀の種類

環頭大刀。柄の先端である柄頭に、円環(環頭)が取り付けられたもの。中国大陸にその系譜を持つ。

素環頭大刀(そかんとうのたち):環頭の内側に装飾がないもの。日本列島内で最も早い段階に出現した直刀で、弥生時代後期から存在する。

三葉環頭大刀(さんよう):環頭の内側に三葉文が配されるもの。

三累環頭大刀(さんるい):環が3つのC字形の輪の組み合わせで構成されるもの。

単龍・単鳳環頭大刀(たんりゅう・たんほう):環頭の内側に1体の龍、または1体の鳳凰が配されるもの。

双龍・双鳳環頭大刀(そうりゅう・そうほう):環頭の内側に2体の龍、または2体の鳳凰が配され、互いの口で1つの玉を奪い合うように咥えるもの。

獅嚙環頭大刀(しがみ):環頭の内側に、正面向きの1体の獅子のような獣面が、環頭に噛みつくように配されたもの。

倭風大刀。古墳時代中期からの系統を引き継ぐもの。

楔形柄頭大刀(くさびがたつかがしら):柄頭が逆三角形(楔形)の板状を呈し、刀身の刃部側に強く突出する形態のもの。古墳時代中期前半には、木製装具としてすでに出現しており、最も伝統的な刀装具形態と考えられている。

捩環頭大刀(ねじりかんとう):楔形柄頭大刀の柄頭上部に、捩りを加えた半円形の鉄製環(捩環)が取り付けられたもの。伝統的な楔形柄頭大刀が、装飾付大刀へと発展した形態。

袋状柄頭の大刀(袋頭大刀)。把頭が金属製でやや大型の「袋状」構造を持つもの。「頭椎」や「円頭」の柄頭は、古墳時代中期の木製装具にすでにその初現的な形態が現れているため、倭風大刀に位置づけることも可能だが、製作技術や様式に大陸系大刀の技術が多く加わり、デザインにもそれらの折衷型のものが見られる。

頭椎大刀(かぶつち):柄頭が拳のような形状を持つもの。「頭槌」とも。把頭表面に「畔目」と呼ばれる筋状の凹凸を持ち、「無畔目式」、「横畔目式」、「竪畔目式」に分類される。

円頭大刀(えんとう):柄頭が丸いもの。

圭頭大刀(けいとう):柄頭が将棋駒、または中国の玉の一種である「圭」のように山形を呈するもの。

鶏冠頭大刀(けいかんとう):柄頭が鶏冠のような形状を呈するもの。椰子の葉を図案化した「パルメット文様」がモデルと考えられている。

方頭大刀(ほうとう):柄頭が丸みを持たず角張り、直方体に近くなるもの。

弥生時代日本における直刀の出現は、弥生時代の後期中葉に遡り、墳丘墓などの遺跡から西日本を中心に出土している。茎の尻に鉄製の環が付く「素環頭大刀」のほか、環の付かないものも出土しているが、多くは中国大陸(漢)からの舶載品と考えられている。

古墳時代前期・中期。古墳時代に入ると、直刀は国内での生産が可能となり全国的に普及し、各地の古墳やその他の遺跡から出土するようになるが、同時代前期から中期(3世紀後半から5世紀末)の刀剣装具は、木製装具か、木製部材と鹿角製部材を組み合わせた「鹿角製刀剣装具」など、有機質素材のものが多く、金属の部品を用いる例はほとんど存在しなかった。

なお、同時代中期の刀装具形態は、日本列島で独自に発生した、柄頭(把頭)が逆三角形(楔形)を呈する「楔形柄頭大刀」や、本来剣の装具である鹿角製刀剣装具を備えたものを主流とするが、「頭椎」や、「円頭」など、のちの装飾付大刀に引き継がれる形態の木製装具もすでに出現し始めていたことが、奈良県天理市布留遺跡の調査などにより確認されている。そのほかに、大陸からもたらされた素環頭大刀などの環頭大刀の一群も継続して存在した。

古墳時代後期・装飾付大刀の出現。古墳時代後期(6世紀)に入り、帯金具や馬具の装飾技術である金アマルガム法が大刀の装具にも取り入れられた。これに伴い、柄や鞘などの木製部材の上に、金を鍍金した銅板を巻きつける金銅装や、金装・銀装などの金属装飾を施した光り輝く大刀が数多く出現した。

環頭大刀においても、環の内側に龍や鳳凰をデザインした、「単鳳・単龍環頭大刀」・「双鳳・双龍環頭大刀」などのバリエーションが加わった。またこれに伴い、同時代中期まで隆盛していた鹿角製の装具は急速に消滅していった。これらの装飾付大刀は、地域の有力な支配者(首長)層の身分や地位を表す威信財として所有され、各地の古墳に副葬された。

装飾付大刀の終焉。これら各種の装飾付大刀は、古墳時代後期から終末期(飛鳥時代)にあたる6世紀から7世紀代に隆盛するが、律令制の導入など、国家の体制が大きく変容する7世紀後半には急激にそのバリエーションを失い、光り輝く金・銀・金銅装部位も減少し、方頭大刀のみにその形態が絞られていく

方頭大刀の形態は、奈良時代以降の大刀外装としても存続し、正倉院所蔵の「黒作大刀」や「金銀鈿装唐大刀」へとその系統が受け継がれて行くこととなる

 

「金工品から読む古代朝鮮と倭  新しい地域関係史へ」 金宇大、京都大学学術出版会、2017年刊

外来系装飾付大刀の系譜的検討を通じた古代東アジアにおける地域間関係の研究

稲田 宇大 (金宇大)  滋賀県立大学, 人間文化学部, 准教授

6世紀後半以降、日本全国の古墳には極めて多様な「装飾付大刀」が副葬されるが、そうした大刀の中でも、把頭に環状の飾りを付した「環頭大刀」は、その意匠や製作技術が中国や朝鮮半島から導入された「外来系」大刀として注目されてきた。本研究では、資料の実見調査を可能な限り悉皆的に実施し、日本や韓国で出土する装飾付大刀の製作技術を相互に比較することで、装飾付大刀を製作する技術がどのように日本列島へと伝わり、発展を遂げていったのかを明らかにする。

本研究では、古墳時代に流通した各種刀剣類のうち、中国大陸や朝鮮半島に源流をもつとみられる、いわゆる「外来系大刀」を対象に、朝鮮半島出土例との比較分析を通じた詳細な系譜検討に取り組んだ。具体的には、柄頭に龍の文様をあしらった単龍・単鳳環頭大刀を中心に、三葉環頭大刀、三累環頭大刀など、主に古墳時代後期に製作された「外来系大刀」に対し、個々の資料の実見観察調査を悉皆的に実施することで、詳細な技術系譜を明らかにしていった。その上で、これらの大刀を所有・副葬した古墳被葬者らが当時の社会においてどのような立場にあったのかを推論した。

本研究で対象とした「外来系大刀」のような、朝鮮半島に系譜をもつとされる資料は、従来、いわゆる「外来」の資料としてそれ自体の系譜を深く追究しないまま、対外的な交渉に関わった人物であることを示すもの、あるいは渡来人ないし渡来系の人々がいた証左とされ、日本国内で完結した評価に留まっていた。本研究では、具体的に朝鮮半島のどの地域と技術的関係性を指摘できるのか、さらには、先入観的に「舶載品」とされてきた資料群は本当に列島内で製作された可能性はないのか、といった点を朝鮮半島での出土例を踏まえて改めて洗い直したことで、より客観性の高い交流史像を描出した点に大きな意義がある。

 

明治大学博物館を見学後、東京駅八重洲南口13時30分発のJRバスで名古屋に帰宅した。

明治大学博物館① 縄文・弥生 岩名天神前遺跡の再葬墓 顔面付壺形土器


明治大学博物館① 縄文・弥生 岩名天神前遺跡の再葬墓 顔面付壺形土器

2024年03月23日 13時38分59秒 | 東京都

明治大学博物館。東京都千代田区神田駿河台。

2024年3月14日(木)。

皇居三の丸尚蔵館と東御苑を見学後、御茶ノ水に移動し楽器街を通って明治大学博物館へ向かった。荷物用コインロッカーがないので、デイパックが重い。ビルの地下へ降りていくと3分野の博物館コーナーが商店街のように並んでいた。数十年前、刑事博物館は招待券をよく見かけたが、結局行くことはなかった。今回は、ガイドの解説付きで見ることができた。考古も以前は別の場所にあったようだが、独立した博物館ではないので、コーナー化している。ただ、明治大学の考古学レベルは高いので、説明が整理された状態にはなっている。見学順路を出口から入ってしまった。

 

夏島貝塚と縄文海進   。  

神奈川県夏島貝塚は、関東地方では最も古い貝塚の一つで、縄文時代早期前半から前期にかけて形成されました。

夏島貝塚の第一貝層が堆積したころはまだ陸続きでしたが、凡世界的に海水面が上昇した縄文海進極相期にあたる縄文時代前期には海中の孤島になったと考えられます。

貝塚に残された炉址や遺物、動物遺存体は、周囲の環境が変わるなかで夏島人が狩猟・漁労・採集などさまざまな活動をしていたことを物語ります。

縄文晩期の世界

縄文時代晩期の東日本には、亀ケ岡式土器と総称される土器群などいくつかの土器型式が分布しています。山内清男は亀ケ岡式土器を大洞B、BC、C 1、C 2、A、A’式に細分し、晩期土器編年の基本となる枠組みが作られました。

また、先行する縄文時代後期に引きつづき、晩期でも土偶に代表される優美な呪具・装身具が数多く生み出され「亀ケ岡文化」の特色ともなっています。弥生時代への移行を目前にひかえた縄文人の精神世界の一端をかいま見ることができるでしょう。

弥生時代

弥生時代は日本列島で米作りがはじまった時代です。年代でいうと紀元前5~7世紀頃にはじまり、紀元後3世紀の半ば頃に次の古墳時代へと移行しました。この時代には「クニ」といえるようなまとまりができ、「王」と呼ばれる人物も登場してきます。また、朝鮮半島や中国との交渉が非常に活発になるのもこの時代です。つまり、弥生時代とは前方後円墳によって示されるような古代の王権が出来上がる前の、激動の時代だったといえるでしょう。

考古学では、弥生時代を前期・中期・後期の3時期に区分します。前期の前に早期を考える人もいます。いずれにしても、弥生時代の動きを年代的にとらえるために区分しているのです。

日本列島における稲作の開始

私たちの食生活の中心であるコメは、今から8,000年ほど前に中国の長江中・下流域で作り始められました。5,000年前頃になると稲作はアジア各地に広がり始めます。日本列島で水田を伴う稲作が始まるのは、それよりも2,000年以上後のことです。

稲作はまず北部九州に伝わりました。このときが弥生時代の開始時期です。そしてまもなく、急速に西日本一帯に広がっていきます。「遠賀川式土器」と呼ばれる土器様式の広がりは、初期の稲作の広がりを示すものと考えられています。

列島北部の稲作遺跡

初期の稲作の広がりは、ほぼ名古屋と福井を結ぶラインの西側にあり、東へ、そして北へ行くほど時間的に遅れるものと考えられていました。しかし、そうした定説は1987年に青森県弘前市の砂沢遺跡で、弥生時代前期の水田址が発見され、大きく見直されることになったのです。ただし、東北での稲作は長く継続的に行われることはなかったようです。きびしい天候がそれを許さなかったのでしょうか。

再葬墓の「発見」

東日本の弥生時代初期の遺跡で、地面に掘られた穴(土坑)の中から1個ないし数個体の壷形土器が発見されることは戦前から知られていました。しかし、そうした遺構の性格はよくわからず、祭りの跡であるという説と墓ではないかという説がありました。

1961年、千葉県佐倉市の岩名天神前遺跡の発掘調査が行われ、壷の中から人骨が見つかりました。この発見によって、この種の遺構が墓であることが明らかになったのです。

また、骨を入れた壷の頸部が細いことから、何らかの遺体処理を行ったものと推測されたため、「再葬墓」という概念が出されました。

再葬墓とは何か

「再葬墓」とは文字通り2回の葬儀を執り行う墓制です。1回目は、人間が死んだ後にその遺体を骨にするときです(1次葬)。2回目は骨になった遺体を壷に入れて埋めるときに行います(2次葬)。

こうした行為自体は「再葬」と呼ばれ、弥生時代に限らず、縄文時代から古墳時代、果ては現代にいたるまで行われています再葬墓とは、東日本の縄文晩期から弥生中期にかけての時期に、壷を棺として埋葬した墓制のことを特にそう呼んでいるのです。

岩名天神前遺跡。

千葉県佐倉市岩名字天神前にある弥生時代中期の再葬墓遺跡。印旛沼の南約1.6kmにあり,標高30mの丘陵上に位置する。1963-64年に行われた発掘調査によって,6m×8mという限られた範囲から7基の小竪穴が見つかった。各竪穴の平面は,径70~150cmの不整円形をしており,深さはもと50cm内外あったらしい。竪穴中には1~8個の壺を主体とした土器が計20個埋納されていた。ほかに副葬品とみられるものはない。

これらの土器は,南関東地方の弥生時代中期中ごろを代表する須和田式と呼ばれる段階のものが主で,ほかに北関東系のものが数点ある。これまでこの種の再葬墓と考えられてきた遺構から墓であることを証明する人骨が出土することはなかったが,本遺跡では,出土した土器内に頭骨片を含む成人骨が遺存するものがあった。それらが口の小さい壺に入れられていることなどから,骨化した状態で土器に納骨していると考え,弥生時代に一次葬として土葬などによる洗骨の風習があったと考えられるにいたった。

須和田式土器。関東地方の弥生時代中期前半を代表する土器。

須和田遺跡は、千葉県市川市の江戸川左岸国府台(真間山)の南端から東南東に向かって延びる須和田台に所在する。

昭和8年(1933)から昭和10年(1935)にかけて明治大学の杉原荘介氏らにより発掘調査が実施され、文様が描かれている弥生時代中期の土器が十数点出土した。これらの土器は後年になって、南関東地方最初の弥生土器「須和田式土器」として型式設定された。また、昭和42年(1967)には、この遺跡内から採集された資料である甕形土器の実態も明らかにされ、「須和田式土器」の内容を補完することになった。現在では、「須和田式土器」に先行する弥生土器の存在が明らかになっており、さらに須和田遺跡出土土器群は「須和田式土器」でも後半に位置付けられ、埼玉県の「池上式土器」に並行するとされている。

弥生時代中期は6期に区分され、そのうち前半は、1~3期とされ、1期は杉原によって岩櫃山式と名付けられた土器群で、須和田式は2~3期に充てられている

須和田式の特徴的な土器は、口縁部が逆台形に開き、小さい平底の底部をもつ肩の張った細い長頸壺である。

古相のものは、神奈川県平沢北ノ開戸遺跡及び栃木県出流原遺跡、埼玉県上敷免遺跡出土の資料であり、器面全体を太い沈線で区分し、条痕文を主に縄文を充填して胴部下半を全面条痕を施すタイプと肩部に沈線で三角形を交互に繰り返し、縄文や刺突文で充填し、胴部下半は無文か条痕がまばらに施されるタイプがある。

新相のものは、埼玉県須釜遺跡の再葬墓や池上・小敷田遺跡の出土例である。胴部下半の条痕がまばらか無文で、肩部に沈線で区分された三角形に縄文や刺突文が充填されるもの、肩部に加えて胴部中央部に紡錘状ないしはひし形の区画が繰り返されて縄文や刺突文が充填されるものがみられる。また口縁部や胴部に波状文が繰り返され、その間に縄文が充填される長頸壺や深鉢状の広口壺があらわれる。

重文・顔面付壺形土器。出流原(いずるはら)遺跡(栃木県佐野市)

高さ21.6cm。弥生時代中期の再葬墓遺跡から出土した。目はないが大きく開いた口の上には鼻の穴が開き、トサカ状の突起が頭頂部にあり、両耳には耳環をつけるためなのか穴が開いている。

再葬墓遺跡からは人の顔が表現された壺形土器が1点から数点出土するが、このように壺の口が顔のとなっているものは珍しく、全国でも数例のみである。

南関東の弥生時代

南関東地方が本格的な農耕社会に入るのは弥生時代中期のことです。この地方で「宮ノ台式土器」と呼ばれる土器を製作・使用していた時代です。宮ノ台式土器の時代には、南関東に環濠集落が登場し、それを中心に地域のまとまりができてきました。

また、西日本からの墓制である方形周溝墓の出現や、石器から鉄器へと道具の材質が代わっていくのもこの時代のことでした。宮ノ台式土器の時代は大きな画期だったのです。

弥生時代後期になると、中期の環濠集落が解体し、地域社会が再編されたようです。環濠集落を含む集落は小型化し、内陸部へと進出します。土器の特徴も小地域ごとに違いが際立ってきます。

こうした様々な社会の動向が次の古墳時代への移行を準備したのです。

宮ノ台式土器。宮ノ台遺跡は、千葉県茂原市南部の綱島地区の宮ノ台と称する三島神社背後の台地上に所在する。南関東地方における弥生時代中期後半の土器型式である「宮ノ台式土器」は、本遺跡から出土した土器の研究により設定された型式名であり、本遺跡が「宮ノ台式土器」の標式遺跡となっている。

本遺跡は、昭和10年(1935)、15年(1940)の2回、台地上の西側及び南側斜面部の一部が、明治大学の杉原荘介氏により発掘調査された。

発掘調査の結果、弥生土器とともに、この時代の特徴的な石器である柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたばせきふ)、大型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)などの磨製石斧や碧玉(へきぎょく)製の管玉などが出土した。調査はごく一部にとどまっているが、遺跡の範囲は独立した台地上全域に拡がっているため、弥生時代中期後半の大規模な集落の存在が推定されている。

本遺跡から出土した土器は、東海地方に出土する櫛目文土器の影響を強く受けた弥生時代中期後半の代表的土器群で「宮ノ台式」と呼ばれる。その後、各地で数多くの発掘調査が実施された結果、宮ノ台式土器が東京湾を囲む地域に広く分布していることが判明している。

弥生後期の地域色         

弥生後期には関東地方一円で個性豊かな土器群が展開し始めます。南関東の弥生土器では、戦前に久ケ原式、弥生町式、そして前野町式という3つの土器型式が設定されていました。その後、70年代以降になると発掘調査が進んで、それらとは違う土器も知られるようになってきました。臼井南式・朝光寺原式・吉ケ谷式といった型式がそれです。また、関東全体の土器群の整理が進むなかで、これまで久ケ原式・弥生町式とされていたものの中にも、厳密にはそれらとは異なる土器があることがわかってきました。二ツ池式土器と呼ぶ土器などがそうです。

壺形土器。弥生時代後期。二ツ池遺跡。

頚部の円形浮文(粘土粒)、無文部の鮮やかな赤彩、複雑な重山形文と梯子文からなる見事な胴部の文様で構成されている。

慶應義塾大学三田キャンパス 和田英作原画、小川三知制作のステンドグラス


慶應義塾大学三田キャンパス 和田英作原画、小川三知制作のステンドグラス

2024年03月22日 14時34分02秒 | 東京都

慶應義塾大学三田キャンパス。東京都港区三田。

早稲田大学には高校時代の友人が入学したので、70年代前半に西武新宿駅か高田馬場駅から5円の連絡バスでキャンパスに行ったり、神宮球場で早慶戦を観戦したこともある。7・8年前にも演劇博物館を見学したことはあるが、慶応大学には初めて来た。

重要文化財である三田演説館や赤レンガの図書館旧館は、1980年代から知っており、一度は見学したいと思っていた。國學院大學博物館を見学して、15時ごろに慶応大学の正門に来た。ネットで概略を見ていたので、守衛さんに案内図を依頼して入手した。守衛もなかなか一流である。階段横に1階レベル行きのエレベーターがあると教えてくれた。このときの歩数は約2万歩で、さらに重いデイパックを担いでいたので疲労困憊していた。普段は2千歩余りしか歩かない身障者なので、最低限の見学となった。

三田演説館は左下にあった。内部は見学できない。内部は高いはずだが、低かったので後ろ側に行こうとしたら、樹木伐採中の若い作業員に制止されたが、50才前後の作業員幹部から、気を付けて近づいて下さい、言葉をかけられた。

重要文化財・三田演説館。

木造二階建、桟瓦葺、建築面積191.2㎡。

福沢諭吉が三田演説舍の会堂として1875年(明治8年)に建てた。都内に残る明治初頭の洋風建築として貴重であり、史的意義も深い。

福澤諭吉自らの資金によって日本最初の演説会堂として建設された。建設当初は図書館と塾監局の間にあったが、関東大震災後の1924年に現在の三田キャンパス南西の稲荷山に移築された。

富田鐵之助を通じてアメリカから取り寄せられた図面を基に造られており、洋風でありながら外観は木造寄棟瓦葺、なまこ壁といった日本独特の手法が用いられている擬洋風建築である。

館内は2階の左右にギャラリーを設けたオーディトリアムの形式が採用され、聴衆400-500名を収容することが可能。正面奥の演壇の背後には曲面状の壁が廻らされ、音響的にも優れたものとなっている。

重文・慶應義塾図書館旧館。

煉瓦造、二階建、地下一階、一部三階、書庫六階、スレート及び銅板葺、建築面積684.4㎡。

1912年(明治45年)竣工、開館。

この図書館は慶応義塾設立五十周年記念事業として建設された。構造は主として煉瓦造で、一部鉄筋コンクリートを用いている。関東大震災および戦災で災害を受け、内部は殆んど改修されたが、外観や玄関、広間に当初の形式を残している。ゴシック様式を取り入れた明治末期の代表的遺構である。ゴシック式のプランによる設計は中條精一郎。

現在、内部には、福澤研究センター(1階)、カフェ八角塔(1階)、福澤諭吉記念慶應義塾史展示館(2階)などがある。

ケンブリッジ大学のような建築風景と感じた。オックスフォードではない。

入口から入ると、左の机上に慶應義塾福澤研究センター発行の年次論文集「近代日本研究」が9年分が数冊ずつ置かれていた。無料配布らしかったが、たまたま部屋から出てきた女性に尋ねると、どうぞお持ちください、と言われた。数冊持ち帰りたかったが、500ページ近いページ数で分厚く重い冊子だったので1冊のみ、頂いた。

ステンドグラス。

1915年(大正4年)12月30日に和田英作原画小川三知制作の色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれた。これは高さ約3間半、幅1間半の大作で、甲冑姿の武士が馬を降りて自由の女神と相対する図案に、ラテン語で Calamvs Gladio Fortior(ペンは剣よりも強し)と記されていた。1974年の復元である。

小川三知制作のステンドグラスは全国各地で見られる。

乳母車。福澤諭吉記念慶應義塾史展示館。

福澤諭吉が戊辰戦争の砲声轟く中でもウェーランド経済書の講義を続け、日本における洋学百年の命脈を保ったとの故事は有名だが、この乳母車も歴史書ではよく取り上げられる。

 

ベンチで休憩しながら、正門へ出ると、卒業式帰りらしい中等部生徒たちを乗せたバス数台が正門から出ていくところだった。16時ごろに見学を終え、新橋駅に向かった。

國學院大學博物館 挙手人面土器 翳(さしば)形埴輪 免田式土器