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新潟県佐渡市 妙宣寺 佐渡国分寺跡 真野宮 倉谷の大わらじ 西三川砂金山 

2024年03月01日 10時04分31秒 | 新潟県

妙宣寺。五重塔。佐渡市阿仏坊。

2023年10月2日(月)。

大膳神社能舞台からほどなく、妙宣寺前路肩の広大な駐車場へ10時30分過ぎに着いた。見上げた仁王門近くには掃除をする女性がいた。

妙宣寺は、日蓮宗佐渡三本山のひとつである。山号は蓮華王山。本尊は釈迦如来。国仲平野を見下ろす竹田台地上にある。かつては佐渡守護代竹田本間氏の居館で周囲は土塁がめぐり、空堀の跡なども残る。

日蓮の佐渡配流中(1271年~74年)に熱心な法華経信者となった弟子の阿仏房日得(あぶつぼうにっとく)とその妻千日尼(せんにちに)が鎌倉時代弘安元年(1278)に自宅を寺として開いた金井新保(しんぼ)の道場「阿仏房」を前身とする。

寺伝では日得を順徳帝に仕えた北面の武士遠藤左衛門為盛とするが、在地の百姓名主とする説もある。日得は日蓮配流当時、目黒町(現畑野町)の在家におり、日蓮の配処が一の谷(いちのさわ、佐和田町)に変わったころ新保(金井町)の阿仏房屋敷の地に移った。

日得は、もともと浄土宗を深く信仰し、自ら「阿仏坊」と号していたが、文永8年(1271年)の冬に日蓮が佐渡に流されていたところを訪問し、日蓮の説を聴き、妻とともに浄土宗を棄てて84歳で弟子となる。1274年に日蓮が鎌倉を経て甲斐に隠栖すると、遠くにありながら三度、身延山を訪れては日蓮の説法を聴いていた。弘安元年(1278年)に90歳の身で登山した際に、日蓮は大いに感激して「日得」の名を、妻には千日尼御前の名を与えた。

阿仏房日得の旧跡を,その曾孫で日興の弟子であった日満が寺としたと伝える。日満は日興から佐渡国の法華衆の棟梁とされていた。現在地に移ったのは1589年(天正17)で,このとき阿仏房の旧称から妙宣寺に改めたという。

境内には、県内唯一の五重塔はじめ、「正中の変」で佐渡配流となった日野資朝の墓などがある。

重文・妙宣寺五重塔。

五重塔は、相川の長坂茂三右衛門と金蔵の親子二代を棟梁とし、文政8年(1825)に建立されたものである。建築様式は和様の三間五重塔婆で、屋根は宝形造桟瓦葺(旧こけら葺)、天辺に江戸風の相輪を備え、全高約24m、初層の各辺3.6mで、柱に杉材、上物に松材、組物に欅材が使用されている。新潟県内に現存する唯一の五重塔である。

この五重塔は逓減率が低く、組物は和様、禅宗様の肘木を混用し、初層の軒蛇腹を二重に折り上げ、上層を扇垂木にするなど意匠をこらしている。地元の棟梁の手になり、心柱と四天柱を緊結するなど創意工夫がみられる。

仁王門。1677年(延宝5年)建築。

国史跡・佐渡国分寺跡。佐渡市国分寺。

佐渡国分寺の西隣、国仲平野を見下ろす高台に広がる旧国分寺の伽藍跡で、現存する建物はないものの、広い敷地に、金堂・廻廊・中門・南大門・塔跡・新堂跡などの礎石が並んでいる。

全国の国分寺の多くは奈良時代、天平13(741)年に聖武天皇(在位724〜749年)が諸国国分寺建立勅願を発令したことにより建立された。佐渡の国分寺もこの勅願により、天平15年〜宝亀6年(743〜775)までの間に建立されたと考えられている。天平宝字8年(764年)、『最勝王経』、『法華経』施納。正安3年(1301年)、雷火で七重塔が焼失。享禄2年(1529年)にも伽藍を焼失したが、享禄4年(1531年)には再建された。現在の佐渡国分寺は元の伽藍の東に1674年までに再建された。

真野宮。佐渡市真野。

順徳上皇の火葬塚である真野御陵(まののみささぎ)の手前にあり、順徳上皇を祀っている。順徳上皇は「承久の乱」で佐渡配流となり、在島22年の末1242年、46歳で崩御し、翌日真野山にて火葬され、その跡に松と桜を植え目印としたのが火葬塚である。

古来から御火葬塚の管理をしていた真輪寺が明治の廃仏毀釈を経て、1874年に「真野宮」と改称した。順徳上皇の他に菅原道真、日野資朝を配祀している。現在の社殿は1920年に造営された。

倉谷の大わらじ。佐渡市大倉谷。

真野地区の大倉谷では、正月に巨大わらじを作り、早春に集落の両端に吊るす風習が伝わっている。現在も国道350号線沿いに幅約1m、長さ1.8mのわらじが飾られている。この大わらじは「この村にはこんな大男がいるぞ」と誇張し、禍や悪人除けとする一種の道祖神である。集落の安寧を願う「はりきり」(春来)行事として、毎年3月に掛け替えが行われる。

司馬遼太郎の「街道をゆく」に記されている。

重要文化的景観・西三川砂金山(にしみかわ さきんざん)。笹川集落。佐渡市西三川。

大倉谷から東の山間部に入り、笹川集落を目指した。狭い道をゆっくり走ると案内板のある三叉路に着いた。帰りは、西に向かうと西三川ゴールドパークの前を通過して幹線道路に戻った。

西三川砂金山は、国史跡「佐渡金銀山遺跡」の一つで、旧西三川村にあった砂金を産出した佐渡最古の金山群の総称である。佐渡西三川の農山村景観は、古代から近代まで行われた砂金採掘によって形成された独特の地形・技術を、閉山後も巧みに土地利用に活かし農山村へと産業構造の転換を成功させた地域の歴史的変遷を示す、価値の高い文化的景観である。

佐渡島の南西部、真野湾に注ぐ西三川川流域一帯には金銀鉱床が展開しており、古くから砂金採掘が行われた結果、現在でも斜面の掘削による平坦面・被植に乏しい裸地や地崩れ地形・独立丘陵など特異な地形が残されている。

砂金採掘の記録は平安時代に遡り、平安時代末に記された『今昔物語集』(第二六巻第一五話)に「佐渡の国にこそ金の花咲きたる所は有りしかと」と、次いで鎌倉時代初期の『宇治拾遺物語』(巻四ノ二)に「佐渡国に有レ金事(こがねあること)」の記述があり、これらが西三川の砂金山のことを指しているとされる。

産金量が増大した中世末期には砂金採掘の中心地であった西三川川中流域の山間地に集落が形成される。天正17年(1589年)に上杉景勝が佐渡を攻略し西三川を含む金銀山を掌握すると、豊臣秀吉から上方の土木・鉱山の技術者が送り込まれて、西三川でも山肌を切り崩す大規模な採集作業が行われ、産出された砂金は豊臣秀吉に納められた。1593(文禄2)年頃には鉱山の安全と繁栄を願う大山祗神社も建てられた。

近世に入っても、徳川幕府の財政を支えた佐渡金銀山の1つとして栄えた。江戸時代中期以降は次第に産金量が減少し、明治5年(1872)に西三川砂金山は閉山となった。

閉山後は砂金採掘跡や堤跡の田畑への転換、砂金流し用水路の農業用水路への転用といった農地開発が行われ、明治末期には現在の農山村へと産業構造の転換がほぼ完成した。こうした田畑や水路は現在も機能しており、近世の鉱山跡地や鉱山技術を応用した農地開発などの土地利用の変遷を確認することができる。

集落内では、長年の砂金採掘によって生じたガラ石を用いて、家屋の敷地境界線や道路法面に石垣が築かれており、屋敷の配置構成も近世の砂金採掘時代の形態を継承していることが絵図によって示されている。

笹川集落。笹川分校入口。

砂金採取を行った人々の村は、伝統的な木造家屋を中心とした家並みで、当時の鉱山集落のおもかげを今でも残している。「大流し」によって産出された多数の廃石が、家屋の基礎等に利用されている。

虎丸山(とらまるやま)。

西三川砂金山最大の採掘地。砂金を採るために掘り崩された山の斜面には現在も植物が生えず、赤色の山肌をあらわにしている。

 

このあと、小木方向へ向かい、蓮華峰寺を見学した。

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