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新潟県 上越市埋蔵文化財センター 春日山城跡ものがたり館 五智国分寺 居多神社  

2024年03月17日 14時36分10秒 | 新潟県

上越市埋蔵文化財センター。新潟県上越市春日山町。

2023年10月4日(水)。

13時ごろ、春日山城の麓にある上越市埋蔵文化財センターへ立ち寄った。

その後、中腹の春日山神社前・上杉謙信銅像下駐車場に駐車して、本丸まで往復し、春日山城跡ものがたり館を見学した後、国府所在推定地区の五智(ごち)国分寺、居多(こた)神社へ向かった。

上越市埋蔵文化財センターの展示は、春日山城と上杉謙信のほかに、縄文・弥生時代から戦国時代までの歴史も紹介されているが、春日山城のジオラマがメインの展示になっている。

糸魚川地方の上杉謙信配下の城。

根知城糸魚川市根知谷にあった城で、複合型山城。根小屋城、上城山城、栗山城からなる城で、一般的には標高320mに位置する根小屋城を「根知城」と呼ぶ。根小屋城は根知城の中心的な役割をしており、郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀15からなる大規模な遺構となっている。西側に姫川が、北側から東側にかけて根知川が流れており、築城年代は定かでないが、上杉謙信が武田軍の侵攻に備えて築いた山城であるとされている。1565年、謙信が信玄に追われた村上義清を城主に定め、信越の境の要の地とした。村上義清の死後は御館の乱を経て周辺が武田家に割譲され仁科盛信、武田家滅亡後は再び上杉領となり、1598年には堀清重が城主となった。これは堀氏が春日山城主となったためである。そして1599年の上杉遺民一揆の際、堀氏は根知城を廃し、1601年に清崎城を築いたとされている。

勝山城糸魚川市市振にあった城で、戦国時代、越後国の戦国大名上杉謙信・上杉景勝の2代を通じて越後・越中の国境の要であった。安土桃山時代には上杉景勝が越中から侵攻する織田信長の軍からの防衛線の要として整備したことで知られる。当初の名を落水城(おちりみずじょう)という。

城の歴史は古く、平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)時に源義仲の軍勢を阻止するべく、地元の豪族が築城したという。戦国時代になると春日山城を本拠に越後を治めていた上杉謙信が越中からの侵攻を防御する要として落水城に家臣を配置し、防衛に当たらせた。謙信の死後、上杉景勝の代になると織田信長の家臣である佐々成政の軍が上杉領侵攻を狙い、魚津城、松倉城を攻略して来たため、景勝は急遽、落水城を整備し、自国領の絶対国防線の最後の砦とした。その際に勝山城と名を改めた。

1585年(天正13年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が佐々成政を降伏させた際に上杉景勝に会談を申し入れた。これを受けて上杉景勝は腹心の直江兼続を伴い、勝山城で羽柴秀吉およびその家臣の石田三成と会談を行った。この時に羽柴と上杉が同盟を結ぶ合意がなされたとされ、後世にはこの会談を『落水盟約』と伝わっている。

上杉景勝が1598年(慶長3年)に越後春日山から会津120万石へ転封となった際に廃城となった。現在は春日山神社より勧請した祠が山頂に残っているのみである。

春日山城跡ものがたり館。上越市大豆。

春日山城跡見学後、北に移動し、14時30分頃駐車場に到着。

春日山城史跡広場では、調査によって確認できた土塁や堀、道、堀立柱建物などが復元されている。春日山城跡ものがたり館は、そのガイダンス施設でもある。

春日山城の総構えの様子がうかがえるように、土塁と水濠が再現されている。小田原城の総構えを上杉謙信は崩せなかったエピソードを想起させる。

親鸞聖人配所草庵・竹之内草庵。上越市五智。

越後の国府・国分寺の所在地は直江津駅付近らしいが、正確な位置は不明だという。代わりに、五智(ごち)国分寺、越後一宮の居多(こた)神社を訪れることにした。北東から道路を進むと空地に駐車場が見えたので駐車したが、本来は保育園教職員用のようだった。低い丘上へ上がると寺堂があり、親鸞聖人配所草庵・親鸞聖人坐像と掲示があった。

竹之内草庵は天台宗五智国分寺の境内にある史跡で、親鸞聖人が越後国の地に流されたとき、最初に住んだ場所だと伝えられている。

五智国分寺本堂の右手側に位置しており、竹林に囲まれていたことから、この名前がついた。草庵には、親鸞聖人が国分寺北にある「鏡ケ池」に姿を映しながら彫ったとされる「親鸞聖人坐像(市指定文化財)」が安置されている。

親鸞が法然の元で、専修念仏への理解を深めて6年の歳月が流れた承元元(1207)年「承元(じょうげん)の法難」と呼ばれる事件が起こった。

後鳥羽上皇が紀州・熊野に参詣中、法然の弟子の安楽や住蓮が行っていた念仏会に、上皇に仕えていた女官が参加し、出家してしまった。上皇はこれに激怒し、また他宗派による専修念仏批判の声が大きかったこともあり、朝廷は念仏の禁止の決定を下した。そして安楽や住蓮を含む4名の門弟が死罪、法然と親鸞たちが還俗のうえ流罪という厳しい処罰が下された。法然は土佐へ、親鸞は越後へと流された。親鸞は、大津から琵琶湖を北上、越前・越中を経由したのち海路を経て、1207年越後の居多ヶ浜(こたがはま)に到着した。

国分寺住職は、親鸞とは比叡山で同学の友であったので、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を作り住まわせたという。

五智(ごち)国分寺。本堂。上越市五智。

天台宗の寺院。山号は安国山。院号は華蔵院。本尊は五智如来。奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、越後国国分寺の後継寺院にあたる。

永禄5年(1562年)に上杉謙信が現在地に移転・再興したという。移転ながら由緒継承等で旧寺との関係が推測されることから、境内は上越市指定史跡に指定されている。また境内は土塁で周囲を囲まれていることから、再興以前は豪族の居館であったとも考えられている。

慶安元年(1648年)には天台宗になっていたとされる。堂宇は元禄2年(1689年)と寛政6年(1794年)の火災で全て焼失しており、その後の再建・修復を経て現在に至っている。

現在の本堂は昭和63年焼失後の平成9年(1997年)に再建されたものである。再建された本堂は、鎌倉時代のものをモデルとして青森ひば材を使い外見は簡素で、内部は重厚な造りで槍かんなで仕上げている。

堂内には、大日如来を中心として薬師如来・宝生如来・阿弥陀如来・釈迦如来の5体の五智如来像が本尊として安置されている。

五智国分寺。三重塔。

本堂前に建てられた高さ25.85mの三重塔は、上越地方では唯一残る塔である。寛政6年(1794年)の焼失後の安政3年(1856年)に再建を着工し、慶応元年(1865年)に棟上がされたが高欄等は未完成である。塔の心礎を鎖で釣って心礎に固定しないという江戸時代後期から現れる手法を採っている。新潟県指定文化財。

越後一宮・居多(こた)神社。上越市五智。

五智国分寺の南西200ⅿにある居多神社駐車場に駐車。参詣者あり。

式内社。社名「居多」は、『延喜式』神名帳を始め諸文献で見られる古くからの表記である。訓について『神祇志料』では「ケタ」、九条家本・武田家本・吉田家本では「ヰタ」、『神名帳考証』では「コタ」と見えるが、現在では「こた」と読んでいる。日本海沿岸に分布する気多神社の一社として古代には「けた」と呼ばれたとされ、「こた」「ゐた」と呼ばれるのは後世になってからと考えられている。なお「居」を「け」と読ませる古例では、古くは5世紀末の稲荷山古墳出土鉄剣の「獲居(わけ)」の銘がある。

祭神は、大国主命、奴奈川姫命(ぬながわひめのみこと、大国主命の妻)、建御名方命(たけみなかたのみこと、大国主命の子)、事代主命(ことしろぬしのみこと、大国主命の子)。

創建は不詳。『頸城郡延喜式神社考』では神代の古跡であると伝える。社地は、慶応2年(1866年)まで現社地の北西約1㎞の身輪山(みのわやま)に存在した。居多神社は「気多神」を祀る神社と考えられており、兵庫県北部から新潟県にかけての日本海側に分布する気多神社の一社とされる。この気多神は出雲の人々に信奉された神とされており、『古事記』での大国主命による高志国(越国;現在の北陸地方)の奴奈川姫命への妻問い説話と同様に、気多神の分布は出雲勢力の北陸地方への進出を物語ると考えられている。

南北朝時代以降は、居多神社は守護上杉家からの崇敬を受けて越後国の一宮に位置づけられたとされる。居多神社を一宮とする史料は、貞和3年(1347年)の居多神社所蔵文書を初見として、他の居多神社文書や上杉家文書等にも散見される。越後国の一宮として知られる神社には弥彦村の彌彦神社もある。

戦国時代には戦乱に巻き込まれて天文2年(1533年)に上杉定憲によって社殿が焼かれ、同年に守護代・長尾為景は上杉定憲ら討滅を祈願して社殿再興を約した。また上杉謙信の死後、天正6年(1578年)から始まった後継者争い(御館の乱)では上杉景虎方についたため上杉景勝方の攻撃を受けて社殿を焼失した。この時に神官の花ヶ前盛貞・家盛父子は国外に逃亡し、家盛は景勝の会津転封後に堀秀治が春日山城に入った際に帰国した。

慶応2年(1866年)には身輪山の社地が海岸侵食によって崩壊し、神霊は宮司宅に遷座し奉斎された。明治12年(1879年)に現在地に社殿が造営され遷座した。この社殿は明治35年(1902年)に火災で焼失、明治40年(1907年)に仮社殿が造営された。その後、平成20年(2008年)6月に本社殿が造営されて現在に至っている。

         出雲大社教第三代管長 千家 尊有(せんげ たかもち)。

 

このあと、糸魚川市へ移動。月徳飯店でブラック焼きそばを食べようとしたが、臨時休業だったので、道の駅「親不知」へ行くと、暴風雨に見舞われた。いよいよ翌日が旅行最終日。根知城の麓で終了した。

新潟県上越市 上杉謙信の居城 日本100名城 春日山城跡