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網走市立郷土博物館 フランク・ロイド・ライトの下で働いた建築家・田上義也の設計

2024年08月09日 09時13分47秒 | 北海道

網走市立郷土博物館。網走市桂町。

2022年6月16日(木)。

北海道立北方民族博物館を12時ごろに出て、JRの線路を渡って坂道を登り、12時10分ごろに網走市立郷土博物館に着いた。予習段階から建物に注目していた通り素晴らしい建築物であった。

設計者の建築家・田上義也(たのうえよしや、1899年~1991年)はフランク・ロイド・ライトの下で働き影響を受けたという。ライト様式は帝国ホテルや首相官邸で知られている。ライトも初期と後期では様式が違う。軒が深いスタイルはタリアセン以降になる。初期の建築は、私が見学しに行ったシカゴのオーク・パークに多く残っているが、網走市立郷土博物館はその頃の様式に似ている。ファサードは当時流行した藤森照信氏が看板建築と名付けたスタイル。一番印象的で特徴的な赤いドームはロシア建築の影響ではないだろうか。

網走市立郷土博物館は昭和11(1936)年、オホーツク文化遺跡のモヨロ貝塚を発見した米村喜男衛名誉館長(網走市名誉市民)が長年にわたり収集したモヨロ貝塚出土資料をはじめとした考古、民族資料3,000点を基礎に、住友財閥の支援を受けて設立した北見教育会が地方教育の振興と文化の発展をはかるべく、「北見郷土館」として建設、開館したものである。

建物の設計は北海道を代表する建築家の田上義也で、国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。

田上義也は、建築家で音楽家。栃木県那須郡西那須野村(現・那須塩原市)出身。本名吉也。1916年(大正5年)、早稲田大学付属早稲田工手学校(後の早稲田大学芸術学校)卒業、逓信省大臣官房経理課営繕係勤務。1919年(大正8年)20歳の時にフランク・ロイド・ライトの帝国ホテル建設事務所に入所。1923年(大正12年)、帝国ホテル竣工。関東大震災を機に田上は北海道へ渡る。

大正から昭和にかけて、北海道を拠点に活躍し、北海道の気候風土に根ざした、特徴的な要素を持つ洋風建築を数多く残している。

旧小熊捍邸・「ろいず珈琲館」・「ドリーバーデン」。1927年(昭和2年)、札幌市。

支笏湖ユースホステル旧館。1960年(昭和35年)。千歳市。

北海道立旭川美術館。1981年(昭和56年)。旭川市。

大曲(おおまがり)洞窟遺跡。網走市字三眺。

網走川河口から1.5㎞上流左岸に位置する縄文時代前期を主体とする洞窟遺跡。洞穴は海食洞で岩壁は凝灰岩。入口の高さは3.5m、幅1.7mで、内部の面積83㎡。昭和16年(1941)に発見され、同24年には河野広道・米村喜男衛、同37年には日本考古学協会洞穴委員会が調査を行った。

洞窟内で観察された11層のうち上部5層からは、鳥獣骨を混じえたヤマトシジミやマガキを主体とする豊富な貝層とともに多くの遺物が発見された。最上層からは縄文中期の北筒式土器が出土し、その下部からは綱文式(つなもんしき)土器(縄文時代前期前葉の土器。縄文の縄目が太いことから型式名がつけられた。)や刺突文土器などの特徴的な縄文前期の土器群と骨鏃・骨針、貝製装身具などの骨角器が出土したほか、20数体の人骨が発見された。その下層に剥片(はくへん)石器、石刃鏃(せきじんぞく)の文化層があり、旧石器時代終末期から居住されたものと確認された。

綱文式土器を共伴するこの頭骨は顔面がかなり高いが、眉間が強く隆起し、前頭鼻骨縫合(ほうごう)の陥凹が深く鼻根部が立体的で、眼窩(がんか)が低く、鼻も狭い等の点で、道東部の縄文人と強く類似する。ただ、これまでに知られている縄文人にはまずみられないほど前頭部が平坦であり、この特徴は北方モンゴロイドの影響を受けた結果であろうと考えられている。

 

20分ほど見学したのち、オホーツク文化遺跡のモヨロ貝塚へ向かった。

網走市 北海道立北方民族博物館③オホーツク文化 女性像 水鳥文土器



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