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北海道浦幌町 国史跡・オタフンベチャシ跡 浦幌町立博物館 十勝太若月遺跡

2024年06月21日 09時04分10秒 | 北海道

国史跡・オタフンベチャシ跡。北東側から南西方向。十勝郡浦幌町直別。

2022年6月10日(金)。

10時45分ごろに新ひだか町の真歌公園を出発し、浦河町から日高山脈を横断、浦幌町の太平洋岸にある国史跡・オタフンベチャシ跡へ向かった。グーグルマップでは距離182㎞、所要時間3時間7~9分だが、実際のところは分からない。浦河町は馬の牧場が多く、多数の馬が放牧されていた。日高山脈の峠を越えると平原に入り、晩成社・晩成温泉への道標を眺めながら走った。翌日、帯広の博物館でマルセイバターサンドの起源は晩成社と知った。海岸沿い道路になり、唐突に根室本線の線路を越えた。釧路まで行きそうな車を引き連れて先頭で走ると、オタフンベチャシが見えたが、駐車場がないので、北東側への左カーブ地点の東側空地に駐車した。13時35分ごろだった。降りて眺めたが、金網が廻らされ近づけない。ネット情報では砦に登ったという記述もあったので、西へ戻って探ってみることにした。

国史跡・オタフンベチャシ跡。海岸側から北東方向。

砂取り場のような空地に駐車し、チャシ方向への道を探ったが、石が散乱しており距離もあるので諦めた。

金網が張られており、中に入ることはできない。

国史跡・オタフンベチャシ跡。説明板はかなり退色している。

オタフンベチャシ跡は、アイヌの砦(チャシ)跡で、16世紀から18世紀に構築されたものと考えられている。

オタ・フンベはアイヌ語で砂・クジラの意。十勝と釧路の支庁界近く、白糠丘陵が細長く馬の背状に伸びる太平洋沿岸の半独立丘陵上にある。十勝平原から釧路にかけて続く美しい海岸線が見渡せる丘陵地で、エゾカンゾウの原生花園が広がる。

「お供え餅形」の典型的な外観で、周囲を壕が囲み、壕で囲まれた平坦面は21m×7m。頂上の標高は約27m。

チャシの存在は古い記録などにも見られ、厚岸アイヌが砂で作ったクジラを囮(おとり)にして白糠アイヌを不意討ちにしたという伝承が残っている。

昔、厚岸アイヌが白糠アイヌを攻めたとき、白糠軍はチャシを死守した。厚岸軍は攻めきれず、夜中に砂で鯨の形を作り、その陰に兵を伏せさせた。夜明けに白糠軍が「寄りクジラ」と近寄ったところを不意討ちした。白糠の長の睾丸にも敵の矢が当たったのでそこをオプショマイナイ(睾丸を破られた沢)といい、小川を跳び越えたときちぎれ死んでしまったところをノコマナイ(睾丸の落ちた川)という。さらに小川に真っ赤な水が流れていたのでフレベッ(赤い川)といった。

厚岸軍が船に乗ってこぎ出そうとしたとき、墓から幾万とも知れぬハチの大群が飛び出し、大部分の者は刺し殺されてしまったという。

浦幌町立博物館。入口ロビー。浦幌町桜町。

13時50分ごろ、帯広方面へ向かい、時間に余裕ができたので、予定していなかった浦幌町の中心部にある浦幌町立博物館を20分弱見学した。

チャシとは一般に「砦」の文字をあてているが、もとは「柵」とか「柵囲い」を意味し、その遺跡は、河川・海・湖沼を臨み、丘陵や段丘などの端や頂部、あるいは先端部を利用して築造している。

形状は方形、半円状の壕や土壇造りが認められ、ほぼ全道に分布しているが、特に十勝・釧路・根室の道東部に多くかたよっている。

最近の調査・研究では16世紀から18世紀に構築されたと考えられている。

機能性格としては「砦」としての防塞的なものより、むしろ壕によって区画された信仰的な施設、祭りの場・談合の場としての機能を果たしていたものに起源し、やがて城塞的な施設のチャシに転化し、その種のものが造営されるようになって「見張り台」などにも使用されるようになったと考えられている。

十勝太若月遺跡。浦幌町字下浦幌に所在する擦文期を主体とする縄文早期から江戸時代に至る複合遺跡。

1972(昭和47)年から3次にわたり緊急発掘調査が行われ、住居跡23基、土壌墓109基、近世(江戸時代)のアイヌ人骨1体、金属器、玉類、植物繊維、種子等が出土した。遺跡は、標高15~38メートル間に分布し、浦幌十勝川(旧十勝川)の河口近くに発達した河岸段丘の縁辺に当たる

集落は馬蹄形の竪穴配置を呈し、生活、水利に好都合の立地に構築されている。

第16号住居跡から栽培種のオオムギ、キビ、シソ等のイネ科植物が炭化状態で出土したことで、当地での作物栽培が明らかとなった。ほかに刀子、木器、管状鉄製品、鉄鏃、縄文編物炭化物、中小の擦文土器が出土、大形土器は、カマドにかけられた状態で置かれていた。これは不慮の火災によって生活道具が置き去りにされたまま遺存した貴重な資料である。

土壙墓109からは近世アイヌ女性人骨1体が出土。他土壙墓から玉類が住居跡から勾玉状土製品が出土し、いずれも装身具と思われる。

続縄文期では土壙墓23基が発掘され、土器が意識的破壊されていたり、完形土器が立ったままの状態で出土した。石器の副葬も多く、1つの土壌墓から100以上の石鏃が出土した例もある。

続縄文土器の特徴は、ミミズ腫れ状の微隆起線文による丸味をおびた連続亀甲文や菱形文をもった後北C1式土器が主体で、ほかに下田ノ沢1式などが出土した。出土品は、浦幌町立博物館に所蔵されている。

◆続縄文時代とは。

続縄文時代とは、紀元前5世紀頃から7世紀前半(おおむね本州の弥生時代から古墳時代に並行)にあたる、おもに北海道の時代区分です。

弥生時代(文化)は、水田による稲作農耕と鉄製の道具の使用に特徴付けられ、その始まりは紀元前5世紀ころ(近年の研究では北部九州で紀元前10世紀までさかのぼる)とされています。

北海道での考古学的調査では、弥生時代と並行する時期になっても、稲作が行われた証拠は未発見です。金属器の使用もごくわずかで、石器の組み合わせが縄文時代のものと大きく変わりません。生業は、狩猟・漁労・採集を基本とし、西南部でヒエなどの栽培がこれに加わる程度でした。

続縄文時代は、前半期(おおむね弥生時代に相当)と後半期(おおむね古墳時代に相当)に二分することが可能です。

前半期は、北海道の東西で異なる土器文化が栄えました。十勝を含む東部地域では縄文晩期後半期の特徴をひく土器が使われ、池田町池田3遺跡では、小型の土器やコハク製装身具などが副葬された墓が出土しています。

後半期になると、「後北式」と呼ばれる土器が北海道全域に広がり、さらに宮城県北部や新潟県、千島列島中部からも出土するようになります。この土器を伴う墓が浦幌町十勝太若月遺跡から出土しており、副葬品に本州方面伝来と思われる碧玉製の管玉やガラス玉がありました。

 終末ころになると、土器の表面からおよそ1万年の間続いた「縄文」が姿を消し、石器に替わって鉄器が徐々に普及しました。

擦文時代とは。

擦文時代とは、7世紀後半から12~13世紀頃、ほぼ本州の飛鳥時代~平安時代に相当する北海道の時代区分です。「

擦文」の呼称は、土器の表面に木片などで擦った痕が見られることに由来し、本州の土師器をまねた技法で製作されています。擦文土器の分布は、時期により違いはあるものの、北海道全域、東北北部、サハリン南部、千島列島南部に広がります。

擦文時代になると、竪穴式住居が本州と同じ方形で壁際に炊事用のカマドが設けられるタイプとなります。

また、石器に替わって鉄器が普及するなど、さまざまな文化や物資が本州方面から供給されるシステムが確立したものと推測されます。この時代は、河川の流域、湖沼の周辺、海岸部などに大規模な集落が残されることに特徴があります。

◆十勝の擦文時代。

十勝では、大樹町から浦幌町にかけての沿岸部、十勝川の河口付近~中流域の段丘上に、まだ埋まりきらずにくぼみとして地表から確認できる竪穴群の存在が知られ、「十勝ホロカヤントー竪穴群」(大樹町)、「十勝太遺跡群」(浦幌町)などは北海道の史跡に指定されています。

擦文時代の生業は、続縄文までの狩猟・漁労・採集を基盤としたものに、農耕の要素が加わったものとされます。

十勝では、浦幌町十勝太若月遺跡の住居跡から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土しており、周辺でこれらの作物が栽培されていたものと考えられます。この遺跡や周辺からはフイゴの羽口や紡錘車が出土しています。前者は鍛冶の時に使う送風装置の部品、後者は糸をつむぐ道具です。

12~13世紀頃には、土器文化が終わり、竪穴式住居が姿を消すようになり、擦文時代は終末を迎え、アイヌ文化期へと移行します。この変遷は連続したもので、両文化の担い手は同一であると考えられています。

 

博物館を見学し終えたのは15時5分ごろだった。時間的に余裕ができたので、浦幌町の道の駅でなく、翌日の見学地帯広に近い道の駅として十勝川温泉を選定した。16時過ぎに着き、道の駅内の温泉を覗いたが、料金が高いので入らなかった。モール温泉として有名らしい。道の駅のWIFI環境は良好だった。

北海道新ひだか町 アイヌ民俗資料館②エゾオオカミの頭蓋骨 外洋船「イタオマチㇷ゚」 



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