〔今回は、「待合室」の第456回として、2011年12月16日から同月23日まで掲載したものです。写真撮影日である2011年9月16日当時の様子をお伝えしたく、文章に修正の手を加えておりません。〕
軌道線の世田谷線と旧目蒲線の南半分である東急多摩川線を除き、東急線の全てと乗り換えができる大井町線は、非常に利便性の高い路線です。元々は目黒蒲田電鉄が建設した支線で、1927(昭和2)年に大井町~大岡山が開通し、1929(昭和4)年に自由が丘~二子玉川、および大岡山~二子玉川が開通しました(わずらわしくなるので、駅名は原則として現在の表記によります)。
大井町線くらい、何度も姿を変えた路線もそう多くないでしょう。1943(昭和18)年、時は第二次世界大戦の只中、戦時輸送体制のため、東急玉川線の一部であった二子玉川~溝の口を編入します。この時、線路の幅も変えたのです。次の大きな変化は1963(昭和38)年の秋で、大井町線の名が消え、大井町~溝の口は田園都市線となります。1966(昭和41)年には二子橋が鉄道専用の鉄橋となり(それまでは道路の上を走っていました)、溝の口~長津田が開業しました。1968(昭和43)年には長津田~つくし野、1972(昭和47年)にはつくし野~すずかけ台、1976(昭和51)年にはすずかけ台~つきみ野が開業します。
1977(昭和52)年、渋谷~二子玉川の新玉川線が開業します。この時点では大井町~つきみ野が田園都市線でしたが、その2年後、つまり1979(昭和54)年に再び大きな変化が起こります。営団半蔵門線の渋谷~青山一丁目が開通し、新玉川線・田園都市線との直通運転が開始されます。これを機として田園都市線は二分割され、二子玉川~つきみ野は田園都市線のままですが、大井町~二子玉川が大井町線に改称されたのです。つまり、16年ぶりに大井町線の名が復活したこととなります。
その後は、営業試験用の改造車とはいえ、東急に初めてVVVF車が登場し(旧6000系、7600系、7700系)、1980年代中には20メートル車5両編成に統一されます。また、田園都市線には1968年から快速が走っていましたが、大井町線の復活の頃には大井町~二子玉川に快速が走らなくなりました。私はこの快速のことを知りませんが、一説によると大井町~二子玉川は各駅に停車しており、また、上りしか運転されなかったとのことです。
21世紀に入り、大井町線には再び大きな変化が起こります。まず、2008(平成20)年、急行が登場します(実は、その数年前から土休日のみ、田園都市線との直通運転をする急行が走っていましたが)。次いで、2009年7月、二子玉川~溝の口の複々線化とともに大井町線が溝の口まで乗り入れます。それとともに、二子新地および高津駅に停車するB各停(青各停。青地に白字の行先表示)と、両駅を通過するG各停(緑各停。白地に緑字の行先表示)が走るようになりました。
さて、このような複雑な歴史を持つ大井町線は、品川区、大田区、目黒区、そして世田谷区を走るためか、短い割には変化の富んだ沿線風景に恵まれています。世田谷区内は高級住宅地と言ってもよいでしょう。今回は、大井町から乗ると最初の世田谷区内の駅である九品仏を取り上げます。急行通過駅です。
東急には、いわゆる難読駅名がほとんどありません。その数少ない例の一つが、この九品仏(くほんぶつ)駅です。携帯電話のメール機能では「くほんぶつ」と打ち込んでも「九品仏」と変換できない機種もありました。
九品仏駅の構造は、珍しいとまでは言えなくとも現在ではあまり見られないものとなっています。御覧のように、駅舎が踏切の間にあるのです。大井町線では等々力駅も同じような構造になっていますが、他にはありません。改札口も狭く、駅の事務室も狭いのですが、それほど乗降客が多い訳でもないようなので、これで十分なのでしょう。ただ、この構造が九品仏駅と戸越公園駅に共通する名物の一つの原因になっています。
ここは世田谷区奥沢七丁目です。奥沢という町はかなり広く、三丁目にある目黒線の奥沢駅までは歩くと結構な時間をとられます。自由が丘駅の南側が奥沢五丁目で、東横線も通ります(駅はありません)。
九品仏駅は、1929(昭和4)年に開業します。その名前の由来が、駅からすぐの所にある浄真寺です。鷺草で有名なこのお寺は、幽玄さを漂わせる、実に風格のある所です。下手に鎌倉や京都へ行くよりも、ここのほうがよほど貴重な体験をすることができる、とも言えます。浄真寺については、別の機会に取り上げます。たくさんの写真を撮りましたし、浄真寺については単独で取り上げるほうがよいでしょう。
意外に知られていませんが、最初に九品仏を名乗ったのは現在の自由が丘駅でした。1927(昭和2)年、東京横浜電鉄(つまり現在の東急東横線)が初代の九品仏駅を開業させます。その2年後、大井町線の二子玉川からの部分が開業する前に「自由ヶ丘」に改称します〔「自由が丘」となったのは1966(昭和41)年のことです〕。そして、浄真寺に近いこの場所に現在の九品仏駅が開業します。
浄真寺に入り、静寂と清心の一時を堪能した後、九品仏駅の尾山台側にある踏切へ向かいました。この駅に来たからには、この踏切を取り上げない訳にはいきません。
私は、今、踏切の前にいます。上の写真を見ていただければおわかりと思いますが、電車は踏切の上を通過しているのではありません。停車しているのです。事情を知らない人が見たら、事故か故障で止まっているのかと思うかもしれません。実際に、或る踏切で貨物列車が人身事故を起こして立ち往生した所を見たことがあります。踏切は何十分も鳴りっ放しで、渡ろうとしている車で大渋滞が発生し、路線バスも動かなくなったのです。
しかし、九品仏駅の場合、急行でなければ、そして位置がずれたりしていなければ、踏切の上に電車が停まるのは正常なのです。この駅ではいわゆるドアカットが行われており、5号車(二子玉川側の先頭車)の扉は開きません。
このことは、5号車の扉に貼られたステッカーでわかります。また、二子玉川駅や自由が丘駅などには案内表示もあります。
踏切の尾山台側にある、通称「お立ち台」です。電車の扉は開きませんが、車掌がここに立ち、ホームの状況を見るのです。カメラも置かれています。「お立ち台」の向こうには、下り電車用の停止位置標も見えます。
踏切の大井町側が九品仏駅のホームです。手前を見ると、明らかに後から継ぎ足されたことがわかる構造です。1号車から4号車まではこのホームの場所に停車するので、扉が開きます。
ドアカットが行われているのは、ホームが短いからです。現在、大井町線の各駅停車は全て20メートル車の5両編成です。しかし、ホームは20メートル車4両分しかありません。しかも前後が踏切ですし、駅舎の改築などをするにもスペースの問題などがあります。そこで、1両のみ扉が開かないようにしており、そのためのスイッチ類が備えられています。以前は運転士と車掌が、下りであれば下神明駅(次が戸越公園駅)と自由が丘駅(次が九品仏駅)で、上りであれば尾山台駅(次が九品仏駅)と中延駅(次が戸越公園駅)でスイッチを操作していましたが、現在は自動で行われています。
踏切から尾山台側を見ます。左側に停止位置標があります。九品仏駅のホームは4両編成でもかなり厳しいような長さしかないので、停止するのも大変でしょうか。少しでも停止位置がずれると、4号車の扉も踏切の上にかかってしまいます。
電車が停まっていない踏切の様子です。住宅街の一角で、道路の幅も狭く、駅施設の拡張の難しさもわかります。逆に、この駅についてはこのままであって欲しい、と思ったりもします。少し離れた所に環状8号線が通っているのですが、そのようなことも忘れさせるような、静かな住宅地です。何分かに1回、電車が来る時だけ、その静けさが破られますが、四六時中という訳ではありません。だから閑静さが引き立つのです。
奥に見えるのは浄真寺の境内で、その風格、独特の味わいについては別の機会に取り上げることとしましょう。
改札口から駅のホームに入り、先ほどの踏切のそばに来ました。手前の柵までがホームで、奥が車掌の「お立ち台」です。先ほど、下りの急行が通過しました。
次の尾山台駅まであまり離れていませんが、ここから尾山台駅はあまりよく見えません。逆に、尾山台駅からであれば、各駅停車が「お立ち台」の位置に停車しているところを見ることができます。
今、1番線に下りの緑各停溝の口行が到着しました。先頭はホームから完全にはみ出ますので、ドアが開きません。後ろの4両から乗り降りをします。先ほど記したように、この駅と同じような構造で、ドアカットが行われるのが戸越公園駅です。但し、九品仏駅とは異なる構造をしています。戸越公園駅は相対式のホームで、大井町側の2両の扉が開きません。つまり、ホームは3両分しかありません。「お立ち台」は下りホーム(1番線)の大井町側にあります。
大井町線は、元々が目蒲線の支線です。その後、田園都市線と名前を変え、延長された後も、支線としての位置づけには変化がなかったと言えます。大井町~二子玉川が分離されて大井町線に戻ってから、新玉川線と田園都市線が本線級となりました。現在、大井町線は田園都市線の支線であると言ってもよいでしょう。しかし、支線とは言っても、目黒線、池上線および東急多摩川線とは異なり、車掌が乗務します。
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