1999年8月、私は鹿児島市に行きました。当時の西鹿児島駅、現在の鹿児島中央駅から徒歩圏内にあった東急イン鹿児島(その後、鹿児島東急REIホテルとなり、2021年秋に閉業)に宿泊し、鹿児島市電に乗って鹿児島市内を回りましたが、8月13日に指宿枕崎線のディーゼルカーにも乗りました。
初めて乗ったキハ200系は、とにかくうるさかった。こんなことを覚えています。
同線は鹿児島中央駅から枕崎駅までの路線ですが、指宿駅または山川駅で系統が分割されており、鹿児島中央駅から枕崎駅まで直通する列車は非常に少なく、指宿駅か山川駅までしか走らない列車ばかりであったので、山川駅で折り返しました。結局、開聞岳付近や枕崎市へは車で行くことになったのです。
さて、その指宿枕崎線ですが、JR九州が公表した「線区別ご利用状況」によれば、同線の平均通過人員は次のようになっています。
鹿児島中央駅〜喜入駅:1987年度は8253(人/日)、2022年度は7168(人/日)。
喜入駅〜指宿駅:1987年度は8253(人/日)、2022年度は1862(人/日)。
指宿駅〜枕崎駅:1987年度は942(人/日)、2022年度は220(人/日)。
末端区間というには42.1kmもある指宿駅から枕崎駅までの区間がとにかく閑散ぶりの目立つ路線であり、赤字であることが容易に推察されます〔ちなみに、JR九州の路線・区間のうち、最も平均通過人員(2022年度)が少ないのは豊肥本線の宮地駅から豊後竹田駅までの区間で171(人/日)です〕。同一路線でありながら、鹿児島中央駅から喜入駅までの26.6kmの区間との落差が激しく、JR西日本の芸備線に似ているとも言えます。
このような状況のため、鹿児島市、指宿市、南九州市および枕崎市は「指宿枕崎線輸送強化促進期成会」を組織しており、枕崎市は2023年7月25日に「JR指宿枕崎線(指宿~枕崎)活用に関する検討会」の第1回検討会の資料を公表しています。そして、JR九州は、指宿枕崎線の指宿駅から枕崎駅までの区間について沿線自治体に対して協議を申し入れました。2024年1月18日、鹿児島市においてJR九州、鹿児島県、指宿市、南九州市および枕崎市の実務担当者が初会合を開いたとのことです。
以上は、2024年1月24日の20時13分付で共同通信社のサイトに掲載された「指宿枕崎線で協議申し入れ JR九州、鹿児島の沿線自治体に」(https://www.47news.jp/10435748.html)という記事によります。短い記事なので、この協議申し入れが地域公共交通活性化再生法に定められた再構築協議会に係るものなのかどうかがわかりませんが、「設置する会議体や議論の進め方を今後詰める」ということなので、直ちに再構築協議会という訳でもないのかもしれません。また、JR九州は「存続や廃止といった前提を設けず、幅広い選択肢を示して話し合いたい考えだ」とのことです。ただ、字面通りであるのかについては疑問が残ります。
指宿駅から枕崎駅までの区間を見ると、指宿駅は有人駅(業務委託駅)、山川駅と西頴娃駅は簡易委託駅、その他の駅は無人駅であり、列車交換ができる駅も指宿駅、山川駅および西頴娃駅しかありません。山川駅から西頴娃駅まで17.7km、西頴娃駅から枕崎駅まで20.1kmですから、本数を増やしたくても増やせないという状況です。
山川駅の時刻表を見ると、下りは1日7本であり、そのうちの1本は西頴娃駅までしか走りません。
また、枕崎駅の時刻表を見ると1日6本、うち3本が鹿児島中央駅まで走るのに対し、2本は指宿駅止まり、1本は山川駅止まりです。しかも、鹿児島中央駅まで走る列車は6時4分発、15時54分発、20時6分発となっています。これでは列車を利用したくともできないということになりかねないでしょう。
これまで、このブログではJRグループの地方交通線の存廃問題を何度も取り上げてきました。三江線、岩泉線など、実際に廃止された路線または区間もあります。
全てに当てはまる訳ではないとはいえ、21世紀に入ってから存廃が問題となった路線の多くは、大正時代の鉄道敷設法に基づくものです。指宿枕崎線もまさにその例で、鉄道敷設法別表には第127号「鹿児島県鹿児島附近ヨリ指宿、枕崎ヲ経テ加世田二至ル鉄道」としてあげられていました。実際に国鉄の路線として開業したのは西鹿児島駅(鹿児島中央駅)から枕崎駅までの区間ですが、これは1931年に南薩鉄道が加世田駅から枕崎駅までの区間を開業させていたからです。また、南薩鉄道が伊集院駅から加世田駅までの区間を開業させたのは1914年のことです。南薩鉄道は後に鹿児島交通となり、伊集院駅から枕崎駅までの区間が枕崎線となりました。鉄道敷設法別表第127号により、指宿枕崎線と鹿児島交通枕崎線の双方、さらに鹿児島本線を加えることによって薩摩半島を一周するルートができる訳です。
しかし、実際に鉄道を利用して薩摩半島を一周できる期間は、思いのほか短いものでした。
薩摩半島の西側を通る鹿児島交通枕崎線は1931年に全通しましたが、指宿枕崎線の鹿児島中央駅から五位野駅までの区間が開業したのが1930年、指宿駅まで延伸開業したのが1934年、山川駅まで延伸開業したのが1936年、西頴娃駅まで延伸開業したのが1960年、そして枕崎駅まで延伸開業したのが1963年でした。こうして指宿枕崎線と鹿児島交通枕崎線がつながり(実際に線路がつながっていたのかどうかまではわかりませんが)、薩摩半島一周ルートが完成しました(余談ですが、鹿児島交通枕崎線には国鉄鹿児島本線に直通する列車がありました)。
ただ、1960年代は高度経済成長期であると同時に、鉄道の衰退が始まった時期でもあります。南薩鉄道には、枕崎線の支線として万世線および知覧線がありましたが、万世線は1962年に、知覧線は1965年に廃止されています。南薩鉄道の経営状況が悪化していたことがうかがわれます。実際に、南薩鉄道は1964年に三州自動車に吸収合併されます。1970年代には枕崎線の状況も悪化の一途をたどりました。1983年には豪雨による被害を受け、伊集院駅から日置駅までの区間と加世田駅から枕崎駅までの区間が不通のまま、枕崎線は1984年に廃止されてしまうのです。薩摩半島一周ルートは21年くらいしか続かなかったという訳です。
一方、指宿枕崎線のほうも、1968年に赤字83線に指定されました。全区間ではなく、山川駅から枕崎駅までの区間です。この時、既に指宿駅から、または山川駅から枕崎駅までの区間の存在意義が問われていたことになります。それから55年が経過し、現在に至るまで存続していることが驚異と言えます。また、指宿枕崎線は1980年代の特定地方交通線には指定されていませんが、これはおそらく鹿児島中央駅から喜入駅または指宿駅までの平均通過人員が多かったことによるものと考えられます(当時は路線毎に選定したので、一部区間の平均通過人員が多ければ全区間の平均通過人員も多くなり、特定地方交通線の指定から外されることとなります)。
実に半世紀以上も問題を内包したまま、指宿枕崎線の営業が続けられてきたことになります。
このような状況を見て考えることは、地域公共交通活性化再生法がどれだけ役割を果たしうるかということです。このブログで取り上げた、存廃が問題となった路線などを見ると、大正時代の鉄道敷設法にたどり着けることが多いという趣旨は前述しました。そして、その鉄道敷設法が制定されてから40年以上が経過した1960年代に、国鉄は赤字経営になり、悪化の一途をたどります。赤字83線の時に徹底した対策が採られていたのであれば、もしかしたら状況は改善されたかもしれないのですが(歴史に仮定は禁物というルールを破ります)、実際にはいくつかの路線が廃止されたのみであり、むしろローカル線の建設が進んでしまった例もあります。こうして1980年代の国鉄改革および国鉄分割民営化に至りました。それでも鉄道を巡る情勢が大きく変わった訳でもないようです。
その意味において、公共交通機関の問題と過疎化の問題には共通する低音が流れているのかもしれません。少なくとも、通底する部分は存在します。存廃が問題となる鉄道路線のほとんどは過疎地域と言われる所を通っているからです。
日本には過疎地域に関する法律が1970年から存在しています。過疎地域対策緊急措置法(昭和45年4月24日法律第31号。廃止法令)、過疎地域振興特別措置法(昭和55年3月31日法律第19号)、過疎地域活性化特別措置法(平成2年3月31日法律第15号)、過疎地域自立促進特別措置法(平成12年3月31日法律第15号)、過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法(令和3年3月31日法律第19号)です。これだけの法律が存在しているにもかかわらず、過疎の問題は、地域毎であれば解決した事例もあるのかもしれませんが、全体として解決していません。
こうした例を考慮に入れるならば、地域公共交通活性化再生法は対処療法あるいは止血方法として或る程度役立つかもしれませんが、根本的な解決のための道具になりうるかどうか、疑問が残るところです。
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