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ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

やはり、民法第900条第4号は違憲・無効という決定が出ました。

2013年09月04日 15時18分24秒 | 法律学

 先程、15時9分付で私のiPhone5に朝日新聞デジタル速報ニュースが届きました。

 最高裁判所大法廷は、民法第900条第4号を違憲かつ無効とする決定を下しました。

 詳細については、後に検討したいと思いますが、予想されていた通りとなりました。一昨日も、朝日新聞や東京新聞で特集のような記事が掲載されており、切り抜いて読んでおりました。

 参考:「民法第900条第4号に関して、最高裁判所大法廷で弁論が開かれました。」(7月11日付)

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公職者の「後継指名」 選挙制度を無視していないか?

2013年09月04日 07時39分01秒 | 国際・政治

 今日の朝日新聞朝刊25面14版(神奈川・川崎)に「『待機児童、4年以内ゼロ』 秀嶋氏が市長選出馬表明 市長『応援』」という記事が掲載されています。

 先日、横浜市長選挙がありました。それに引き続いて、という訳でもないのでしょうが、10月27日に川崎市長選挙が行われます。現在の市長は阿部孝夫氏ですが、この選挙に出馬することは(事実上)できません。川崎市には俗に言う多選自粛条例、正式名称は「川崎市長の在任の期数に関する条例」(平成15年7月4日条例第19号)があるためです。参考までに、条文を紹介いたします。

 第1条:「この条例は、民主的で能率的な行政の確保及び行政に対する市民の信頼の確保が基本となる地方公共団体において、幅広い事務に関する権限が集中する長の地位に一人の者が長期にわたり就くことにより生じるおそれのある弊害を防止するため、市長の在任の期数について定め、もって清新で活力に満ちた市政運営を確保し、その硬直化を防ぐことを目的とする。」

 第2条:「川崎市長の職にある者は、連続して3期(各任期における在任期間が4年に満たない場合もこれを1期とする。)を超えて在任しないよう努めるものとする。」

 多選に様々な弊害があることは度々指摘されており、私も「リーダーたちの群像~平松守彦・前大分県知事」(月刊地方自治職員研修2003年10月号31頁から33頁、http://kraft.cside3.jp/leader.htm)において「現実の問題として、長の在任期間が長ければ長いほど、停滞感が漂い、腐敗などが起こりやすくなるのも事実である。少なからぬ国民が、このことを実感しているし、国際政治や歴史などの観点からしても、いわば経験知に属するであろう」と記しています(今もこの意見を変えておりません)。憲法で保障される職業選択の自由などとの関連により、市の条例では4期以上の在任をしないように努力義務を課しているに過ぎませんが、政治的な意味は大きいでしょう。現に、阿部氏はこの条例が廃止されたら自らも出馬するという趣旨の発言を何度かしていましたが、市議会側が条例を存続させる方針をとるため、結局、市長選挙の候補は皆新人ということになりました。

 さて、記事の話ですが、今回何故にこのブログに私が意見(ないし批判)を書こうとするかと言えば、この記事に次のような一節があるからです。

 「また、現職の阿部孝夫市長(69)は3日の定例記者会見で秀嶋氏について『後継指名はしないが応援する。(自分は)極めて出馬しない方向になってきている』と述べた。」

 個人として誰を応援しようと思おうが勝手なことで、何人であっても、たとえ親であっても子であっても干渉することはできません。しかし、国民主権国家あるいは民主主義国家において、公職に就いている者が、まさにその立場を利用して「後継者」を指名したり応援したりすることは、おかしな話ではないでしょうか。私には、少しばかり地位を濫用しているように見えます。選挙制度を無視した、あるいは冒涜しており、国民・住民を馬鹿にした発言である、と表現してもよいでしょう。

 「現実を知らない学者の妄言」などと言われるかもしれません。実際にそうであっても否定しません。私は原理・原則に立ち返って考えたからです。現実に追随するだけの学者よりはるかにマシでしょう。

 お断りしておきますが、ここで私は個々の候補者などを批判したりしている訳ではありません。私が選挙当日に誰に投票するかは、それこそ私自身の問題ですし、公約などを読み、決定します。

 もう10年ほど前のことになりますが、私は、大分県知事選挙に関連して「意中の人」発言を批判したことがあります。朝日新聞2002年9月15日付朝刊32面(大分)10版に掲載された「2003 統一選へ・知事の『条件』/下 望まれる知事像は/有権者3人に聞く」の「大型公共事業の点検必要」に発言が掲載されていますので、一部分だけ引用しておきます。

 「『意中の人』発言があったが、どんな人が知事になるにせよ、新知事がこれまでの県政を継承する姿勢だけでは、県の財政立て直し、さらに県政全体の発展が可能かどうか、不安が残る。」

 実は、当初、「どんな人が知事になるにせよ、住民が投票で決めることだ。「意中の人」発言は、選挙制度を無視した許されない発言」であると記しました。表現が強すぎるということで改められています(また、私の意向によって削除した表現もありました)。

 もう一度、同じ趣旨の発言をしています。朝日新聞2003年3月26日付朝刊34面10版(第2大分)に掲載された「知事選語録スペシャル  平松知事、『意中の人』発言で物議」より「森稔樹・大分大助教授に聞く  『空手形』多さ端的に示す」より、一部を引用します。

 「知事選は、平松知事の『意中の人』発言から始まりました。個人的に意中の人が存在してもかまいませんが、公的な言葉としては、これほど選挙制度、有権者を無視した言葉はありません。この論理が通れば、選挙は後継者に正当性をあたえるための、ただの儀式になってしまいます」

 文中にある「意中の人」は、要するに後継者です。私が言いたいことは、最後の引用文の第2文および第3文にあります。住民自治が原理の一つとされているはずの地方自治の場で、およそ国民主権・民主主義に似つかわしくない後継者指名が行われ、その「後継者」が政治に携わるのです。何度となく繰り返されてきた光景ですが、貴族制や独裁制、そして冷戦期の社会主義国家(「東側」)には相応しいとしても、国民主権・民主主義国家、自由主義国家には適切でないはずです。国家および地方公共団体は、同族会社などの私的団体と全く性質を異にします。

 日本の地方自治で、いつまでどこまで「お世継ぎ」的な思考が生き残っているのか、興味深いところではあります。政治史や政治思想の研究対象として格好の題材かもしれません。しかし、現代社会において、「後継者」は、在位中の者によって一方的に(あるいは相思相愛的に)指名される者ではないでしょう。選挙によって選出された者が、結果的に「後継者」となるにすぎないのです。いつまでも国民・住民はそっちのけというのでは、発展は見込まれません。

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