吉本興業の月刊誌「マンスリーよしもとPLUS」が休刊することになり、今日25日、吉本興業大阪本社で概要を説明する会見が行われました。
1981年4月に「マンスリーよしもと」として創刊され、2009年にリニューアル。これまで計386号が出されました。
多くの人気芸人を輩出するきっかけともなった企画「男前ブサイク芸人ランキング」が近年のヒット企画となりましたが、当たり前といえば当たり前ながら、吉本の芸人さんにとっては、一番身近な雑誌でもありました。
各劇場の一カ月の出番表なども掲載され、駆け出しの芸人さんにとっては、自分たちの名前が印刷物に載っているということ自体が喜びであり、励みにもなったと聞きます。
そして、もう少し段階が進むと、ほとんどの場合、芸人さんが初めて取材を受けるのが同誌。芸人としてステップアップしていく過程で、メディアとの付き合いというのは“必須科目”となりますが、その勉強をさせてくれるのが「マンスリー―」だったとも聞きます。
また、同誌で連載をしていた西川のりおさんは、コラムを通じて自分の考えを文字にしていくトレーニングを積み、それが後にベストセラーになる小説「オカン」につながりました。
さまざまなうねりを生み出し続けた同誌ですが、一言でいうと、一定の役目を終えたということで、今回、区切りをつけることになったそうです。
創刊当初はもちろんのことインターネットなどなく、劇場にどんな芸人さんが出ているのか、その情報を得る術も限られていました。月に一回でも、その情報が載っているものが出ることに大きな意味がありましたが、今は芸人さん個人がツイッターなどで刻一刻と情報を発信し続ける世の中になりました。
会見には、81年の創刊時に編集長を務めていた初代編集長と、(休刊とはいえ)結果的に最後となるであろう現在の編集長が出席されましたが、寂寥感というよりも、ネット社会に適応するための発展的休刊という雰囲気で、明るい会見となりました。
考えてみたら、同誌もそうですけど、吉本の歴史はメディアの歴史と似通った動きをたどっているものなのですね。
入場料をとって劇場で芸人さんを見せるのが収入の根本の根本だった時代に、無料で芸が聞けるラジオに芸人を出すという“タブー”に出たことが、ファンの激増につながり、劇場運営にも飛躍的なプラスをもたらした。
その後も、テレビの興隆とうまくマッチして日本中に吉本ブランドを広めていきました。
今回は、雑誌メディアというものがなかなか難しいという今の流れをあらわすような形にもなりました。
入れ物によって、形を自由自在に変えられる水のような存在であることが、吉本が100年もの間続いてきた一番のポイントなのかもしれませんね。
せっかく会見にも出席したし、何か書かないといけないと思うあまり、本当に面白くないことを長々と、しかもそこそこ偉そうにつづってしまった戒めとして、晩御飯に行ったスシローで乾き気味のネタを二皿とった38歳。
1981年4月に「マンスリーよしもと」として創刊され、2009年にリニューアル。これまで計386号が出されました。
多くの人気芸人を輩出するきっかけともなった企画「男前ブサイク芸人ランキング」が近年のヒット企画となりましたが、当たり前といえば当たり前ながら、吉本の芸人さんにとっては、一番身近な雑誌でもありました。
各劇場の一カ月の出番表なども掲載され、駆け出しの芸人さんにとっては、自分たちの名前が印刷物に載っているということ自体が喜びであり、励みにもなったと聞きます。
そして、もう少し段階が進むと、ほとんどの場合、芸人さんが初めて取材を受けるのが同誌。芸人としてステップアップしていく過程で、メディアとの付き合いというのは“必須科目”となりますが、その勉強をさせてくれるのが「マンスリー―」だったとも聞きます。
また、同誌で連載をしていた西川のりおさんは、コラムを通じて自分の考えを文字にしていくトレーニングを積み、それが後にベストセラーになる小説「オカン」につながりました。
さまざまなうねりを生み出し続けた同誌ですが、一言でいうと、一定の役目を終えたということで、今回、区切りをつけることになったそうです。
創刊当初はもちろんのことインターネットなどなく、劇場にどんな芸人さんが出ているのか、その情報を得る術も限られていました。月に一回でも、その情報が載っているものが出ることに大きな意味がありましたが、今は芸人さん個人がツイッターなどで刻一刻と情報を発信し続ける世の中になりました。
会見には、81年の創刊時に編集長を務めていた初代編集長と、(休刊とはいえ)結果的に最後となるであろう現在の編集長が出席されましたが、寂寥感というよりも、ネット社会に適応するための発展的休刊という雰囲気で、明るい会見となりました。
考えてみたら、同誌もそうですけど、吉本の歴史はメディアの歴史と似通った動きをたどっているものなのですね。
入場料をとって劇場で芸人さんを見せるのが収入の根本の根本だった時代に、無料で芸が聞けるラジオに芸人を出すという“タブー”に出たことが、ファンの激増につながり、劇場運営にも飛躍的なプラスをもたらした。
その後も、テレビの興隆とうまくマッチして日本中に吉本ブランドを広めていきました。
今回は、雑誌メディアというものがなかなか難しいという今の流れをあらわすような形にもなりました。
入れ物によって、形を自由自在に変えられる水のような存在であることが、吉本が100年もの間続いてきた一番のポイントなのかもしれませんね。
せっかく会見にも出席したし、何か書かないといけないと思うあまり、本当に面白くないことを長々と、しかもそこそこ偉そうにつづってしまった戒めとして、晩御飯に行ったスシローで乾き気味のネタを二皿とった38歳。